Monday, September 28, 2009

生き方・行動・人生に対する思想①

 中島義道氏は哲学が思想でも文学でも芸術でも人生観でも宗教でも科学でもないと「哲学の教科書」で述べている。しかしその意見に対して積極的に相互に廻らせられた囲いを取っ払いたいと私は思う。だから本書はある意味で哲学と宗教や思想という隣接した存在を体系的ではなく親しさをもった隣人として捉えたい。
 私たちには各自生き方があり、他方生きていること、生きてきていることに対する反省もある。通常信条としてきたことを生き方と呼ぶが、それと実際の行動は、完全に一致していると自分でも思えないし、他人もそうは見ない。「私」とは完全に一個の人格として統一されているわけではない。人生に対する思想とは自分の生き方に沿う形ばかりでなく、現実の自分と離れて理想や理念として将来の在り方へ向けられた願望でもある。
 例えば人生の早い時期に積極的に取り組むことの一つが受験勉強である。しかしそれだけではない、もっと早くから大学へ行くことよりも就職することの方が、あるいは自分で事業をすることの方が重要だと決断する人もいる。いずれにしろそういう時期同世代の人間は概ねライヴァルだ。そして同世代の人たちの間で勝つこと、少なくとも負けないことが第一の目標になる。そして他人が躓くとどこかほっとさえする(どこかの歌にそんな歌詞のものがあった)。つまり愛とか友情とかを打算として功利主義的な計算において示す通り一遍の社交辞令であるとさえ考える若者も少なくないかも知れないが、本当にそうだと信じているのだろうか?それはある程度仕方ないとだけ思っているのではないか?
 しかし一定の年齢を積み重ね、次第に残りの時間が少なくなってくると、周囲の皆が皆競争者同士であるとか、あるいは誰かに争って勝者の気分を味わうことだけでは何か空しい気分になることが多くなる。負ける方が潔いというのでもない。なかなか表現し難いが、時には積極的に競争に参加しないこと、あるいは時には負けると分かっていて敢えて挑戦したり、それを他者から承認して貰いたかったりと、とにかく色々な選択肢が魅力を増してくる、魅力というように積極的ではなく自然とそうなってくることも多い。
 これは若い頃から競争という現実に慣れ親しんできて、それで勝ったことの方が多い場合はそうではない者よりそう思うかも知れない。常に必死にトライしてきたのに負け続けてきた者には挑戦だけはしてきたので悔いはないと思うかも知れないだろうが、一切競争をしないできた者は一度くらい競争という激しい現実に直面してみたいと思うだろうが時既に遅しということもある。しかし年配になってから競争する場合あまり勝敗には頓着しない方が多いのではいか?つまり勝敗が空しいことに徐々に覚醒していく。
 宮本武蔵は、二十二、三の頃京都に滞在する。一乗寺下り松決闘後、東寺内の観智院(南西の壬生地区で湿地帯だったので隠れ家として絶好だったのかも知れない)に彼の手と言われる鷲の図、竹林図襖絵がある。彼の人生は戦いに次ぐ戦いという現実だったし、当時通常の武士には既にない現実だった。つまり彼の立たされた立場は彼による意志からのものだったのかはともかく、武士の誉れや理想であると、観念では言えても、どんな勇ましい武士でも彼ほどの覚悟まではなかったのだ。そういう青春を送った武蔵が一時寛いで描いたものを私は京都旅行で見た。
 私は資本主義社会とか競争がいけないと言ってはいない。それらは必要だし、真剣勝負や競争による相互の実力の向上とかはいいことだ。しかし人生において競争はやはり全ての中のほんの一部であるとだけは言える気がする。本当にいい勝負があるとすれば、それは勝つ方も負ける方も、一切勝負以外のことには関心さえないような心に余裕のない状態からは生まれないのではないだろうか?
 武蔵は一乗寺下り松の決闘以来、絵画だけではなく、木彫りの観音像を彫り続けたと言われる。死闘に明け暮れる武者が死へと追い遣った人々、とりわけ敵大将の子供への弔いの気持ちと懺悔からだ。
 その武蔵が死んだ時(1645年)丁度12歳だった円空は、武蔵のことを当然知ってはいただろう。しかし彼が僧侶の道に入ったのが武士の地位を追われて大分後になってからだと言われている。39歳くらいの頃らしい。それ以前からずっと木彫像を作り続けてきた。その歳に私はどこか武蔵に対する意識も片鱗としてはあったのではないかと考えている。元武士で、放浪する生活は、極めて武蔵の生涯を彷彿させるし、幼少を過ぎた頃死去した武蔵のことをどこかでずっと円空は追体験していたのではないだろうか?
 しかし武蔵にとってあの有名な小次郎だけが生涯のライヴァルだったのだろうか?それ以外にはいたのかと言えばいなかったとも言えるし、いなかったと言えばいたと言える。つまり全ての対戦者は彼にはその都度死闘を繰り広げる相手であり、自分が葬り去られるかも知れないし、ただ敵全てに勝ってきただけであり、常に未来の相手は自分を倒すかも知れない相手だったことに変わりない。
 日本には剣豪とされる人がほぼ同時代に何人かいる。
 荒木又右衛門は15歳くらい武蔵より若く、柳生十兵衛は23歳若い。三人共存命だった時間は十兵衛が生まれた1607年から1645年に武蔵が死ぬ前に又右衛門が死ぬ1638年までの三十一年間だ。巌流島で小次郎を武蔵が破ったのが1612年で、武蔵28歳くらいの時なので、その時又右衛門はようやく13歳、十兵衛は5歳だから、当然二人が武蔵に戦いを挑むというシチュエーションは考えられない。三人がもし決闘するとしたら、少なくとも後の二人がもう少し大人になってから、つまり十兵衛が17歳として、又右衛門が25歳、そして武蔵が四十歳の時がいい勝負が見られる頃合だろう。それ以上武蔵が老いると勝負はあまり面白くないし、またそれより十兵衛が子供過ぎるとこれもまた勝負にはならない。
 実際彼らは相手のことを知っていたのだろうか。つまり剣豪として剣客としてその存在を知っていたのだろうか?手元には資料がないので、本当に史実に忠実なことは歴史家とか剣豪小説家たちに任せよう。だが恐らく武蔵のことは後の二人は知っていて、目標のようにしていたかも知れないし、十兵衛の下に又右衛門が訪れて一時師事した(随分自分より若い師だが)という説もあるくらいだから、相互に噂し合っていたか?私の考えでは好事家たちの想像をよそに本人たちは例えば周囲の者へ武蔵の話題など一切言うこともなかったと思う(それが剣豪というものだ)が、心の中では一体どういう剣客なのだろうと時々想像したりすることはあったと思う。
 武士にとって剣とは義務的であり、職務的心得だろうが、剣客にとってのそれはそんな消極的な体裁とは一切違う。それは彫刻家にとっての石像を作る時の石の感触であるとか、木彫家にとっての木の弾力だとか肌触りだとか、温もりと同じものだろう。剣自体の鋭さとか光具合とか、その持った時の身体へと来る固有の重圧とか圧迫感が、彼らが敵に対する時、精神統一をして剣の心を体得せんと欲し訓練する時にひしひしと彼らの脳に何らかの脳内物質を放出させるようなタイプのものだろう。
 このことを文章で勝負する人間に適用して考えると、文筆家の中でも哲学者はどんなに心情的なことでも、非論理的、感覚的なことでも、それを哲学的考えの中で位置づける時、彼らは論理的に体系づける。私的なことや人生体験から引き出される真理でも、それらを客観的に論理と真理命題論的に位置づける。
 この点文学者たちはいささか違う。彼らには寧ろ私的なことや主観的体験に根差す彼自身に固有の思いの方が重要であり、それは主題を膨らませ得る限りない可能性のあるものなのだ。
 この哲学者と文学者との間の違いは極めて興味深い。彼らはあくまで人生全体から引き出されるという体験からものを書くことにおいては共通しているのに、そこから彼ら自身の文章を構築する時の姿勢が明らかに異なっているからだ。しかしこのことは例えば画家と陶芸家との対比で考えればもっとすっきりする。
 画家は概してその平面に向かう姿勢は、絵画空間自体との対話だ。だからその平面に施される技巧はあくまで平面的実現である絵画空間の豊かさや絵画自体によって語らせたいために例えば筆触的技巧が施される。しかし陶芸家や工芸家にとってあくまで平面上でのデザインは作家の世界観を示すものではなく物質自体に内在するメチエ、技巧自体が様式として安心して鑑賞される巧みである。その意味で画家は文学者に近く、陶芸家や工芸作家は哲学者に近いと思う。
 しかし二十一世紀の今日寧ろどちらかと言うとプロの画家の間では完全に工芸作家や陶芸家の持っているタイプの創作スタンスを取り入れてきた。勿論作者の世界や平面との対話だということはそのまま踏襲されているが、そういう対峙的スタンスは寧ろルネッサンス以降徐々にそうなってきたというのが本当のところで、寧ろ画家でもフランドル派にしても、レンブラントにしても、彼らはやはり対話+平面技法としての巧みの追求でもあったのだから。それを切り離していったのがバルビゾン派とか、それより少し前のフェルメール、あるいは印象派といった連中かも知れない。
 しかし文学であれ、哲学であれ、絵画や工芸であれ、あるいは(剣客)であれ、自らの信念につき従って行動するということ、つまり作品を発表(対決)するとか、創造(実践)することは意志的に他者存在を自らの中から追い出し、全ての自己、つまり反省的自己や欲求的自己を、行動する自己、決断する自己に収斂させて、その乖離状態を無化する必要がある。自己を完璧に一個の他者と見て孤独になりきり、明鏡止水の状態で最も自分の能力を十二分に発揮し得る状況を恣意的に作る。そう実践する中で作品(対決)や創造(実践)において形象化(実現)させていくことは、全ての相関的な関係の間の齟齬や距離を無化していくことを意味する。
 通常私たちは生き方と行動というものは常に微妙にずれている。
 実際の行動よりもかくあるべきだという理念や理想の方が常に少しだけ先を行く。しかしこういう時、つまり会心の作を得たり、会心の剣を振るったりすることの出来る状態とは、全てこの齟齬やずれを解消すべくある一点を見いだすことである。
 このような奇蹟のような美的にも、道義的にも、身体論的にも結晶された行為とは、生涯でもそう多くある筈がない。そういう出会いがかなり早い時期の人もあれば、遅い人もあろう。しかし重要なことはそういう瞬間とは、それまでの人生の全ての経験と記憶が最もいい形で協力し合い、全ての相関関係構成要素間の距離が一挙に無化する瞬間であり、それは神が私たちに何かに対する啓示のように、まさにアルキメデスの「ユリイカ!」のように語りかける。
 しかし晩年の武蔵がそうだったように、彼の決闘が一瞬の啓示に全てを賭けるような意味で緊張感があればあるほど、それ以外の瞬間、あるいはそんな最高の瞬間を会得した後の人生は、そういう瞬間を獲得することと全く別に真剣に考え抜くべき性格のものだ。あれだけ必死に生きた先にまだ必死になれるものがあるのか?つまりその問いこそが人生に対する思想を求めるということだ。その問いの狭間にある憩いに彼は絵を描き「五輪書」を書いたのだろう。
 例えば円空とか木喰の木彫にはそのような人生全体に対する思想が、そのまま結晶化している。円空の場合怒気とか畏怖とかが一瞬凍てついた表情の中に繰り返される。木喰の場合全てが笑いの中に解消される。
 例えば思想ということで言うなら、リチャード・ドーキンス氏は生物学者だが、氏の近作、例えば「悪魔に仕える牧師」や「神は妄想である」のような著作は完全に科学啓蒙的な思想家のそれに近い。端的に宗教的モラルが人間の考えるモラルの起源ではないという信念とその執拗な啓蒙には、カント(第二章で詳述)が神にさえ命令するような格律論的な厳密さに通じるものがある。またそのように彼の論文は彼に語る。
 例えば私が哲学者と文学者を二つ例として挙げたが、文章によって示す意味では文学者、哲学者だけでなくあらゆる学者、科学者たちにとっても、彼らが書いた論文は彼ら自身に語りかける。
 円空が木彫りの顔と風体をあしらい出来上がった彼の作品は、周囲から聞かされる彼自身に対する風説と共に実際に彼が放浪中に味わっていただろう木枯らしの吹き荒ぶ自然の厳しさの中で作者である彼に恐らく静かに語りかけてきたのだ。
 「お前の作ったものとして俺はここにいる。俺はお前の鏡なのだ。お前は今まで耐えてきたが、それでよかったのか。お前はこれからもこうやって俺のようなものたちを作り続けていくのか。その時お前によって作られたそいつらがお前にどのように語りかけてくるか俺には分からない。しかしお前がその時も今のお前のように俺からこうやって語りかけられお前はそいつらの声を聞き続けなくてはならない。それはお前にとっての試練だ。」
 しかしそうやって語りかけてくれる木彫りの怒号の声たちが、きっと円空の放浪生活において彼の迷いやこれからの自分に直面するだろう不安をどこかで和らげてくれたに違いない。
 世間から遊離してしまった円空のようなタイプの隠遁的な放浪者にとってだけではなく、それと同じことが武蔵にもあり、剣に向かう剣士たちの尊敬を集めつつ、しかし絶対的勝者にのみその心に吹き荒ぶ固有の空しさや隙間風に対して、武蔵が作った木彫りの地蔵や観音たちがいつとはなしに彼に語りかけてくるその声に心静かに聴き入る姿が私には目に浮かぶ。翌日にまで彼の命を延命してくれることに密かに感謝しながら(剣豪というものはそういう殊勝な心理を敵前では示せないから一人でいる時にだけ)その声に聴き入っていたと思う。

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