Sunday, September 27, 2009

概要

 私は去年11月、京都へ旅行したが、それは永井均先生(私が敬愛する哲学者)の講演を聴くためだったがついでに色々な京都の名所を訪れた。(最終章において解説)
 私を哲学の思惟へ最初に導いて下さった中島義道先生の私 塾、哲学塾カントに参加したのは去年の1月から9月中旬までだった。氏の著名な無用塾が閉鎖以後初めて氏の開設した塾の最初の塾生としての生活は先生の厳しい指導の下苦しいが充実していた。その塾に参加出来たことは今では私の財産である。
 しかし私は元々絵画制作を専門とした人間であり、小説も昔から書いてきた。とは言えかなり真剣に文筆作業をしだしたのは、五年前に大学院受験に失敗した後からだった。(心理学で大学院を受験、一次論文審査では合格するも、二次筆記、面接で落とされる)そして哲学塾で基本的な哲学の精神を学びつつ、自らの創作活動をしながら元々中島先生とは別に最も私を啓発し続けてきた永井均先生の講演は素晴らしかったし、中島先生の下で得た私の哲学的思惟を更に進化させるに足るものだった。しかも講演後にはある有志の哲学研究グループの面々とも知遇を得た。そして私は京都紀行後決意した。この旅で得たこと、その時期に考えていたことをエッセイ風の論文に纏めてみようと。
 故にこの論文風エッセイ(あるいはエッセイ風論文)は脳科学と哲学の接点も意識したが、その時期の私の思惟の軌跡という性格も強い。しかし以前から考えていた人間にとって哲学的基本命題とは、他者と接することであり、その原点に「原羞恥」を考え、それを「原音楽」と私が呼ぶ他者‐自己の合一作用の下で展開する私の考えは示されていると思う。第一章は文学的であり第二章は哲学専門的である。どちらを先に読まれてもよいように書いた。第七章もそれだけで読める。
 京都東寺内にある観智院で見た宮本武蔵の描画した襖絵「竹林の図、鷲の図」を目にした時、論文の骨子は固まった。武蔵の孤独(彼はここで私も目にした龍、亀等の石庭を眺めなが ら、筆を置いていた)を哲学者の思惟と結びつけて考えようと。私は敢えて師だった中島先生の哲学に対する基本姿勢とはやや異なるアプローチを試みた。しかしにもかかわらず、再読すると、私が師から受けた影響は否定出来ない。それは中島哲学を知る方はご理解されよう。要するにこれは私の最初の哲学の師に対する逆オマージュであり、哲学における二人の師と、その思想、哲学に対する返礼でもある。三百十四枚(原稿用紙換算枚数)

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