Sunday, April 27, 2014

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十五章 田辺元『哲学入門‐哲学の根本問題』解析からカント三批判書の存在理由を考えるChart1

 田辺元は『哲学入門‐哲学の根本問題』に於いてマルクスをマルキシズムに拠って曲解された(そういう語彙を使用していないが)マルクス自体は、全くマルキシズムで提唱されている性質のものと違うと述べている。特に初期論文である『デモクリトスと自然哲学とエピキュロスの自然哲学の相違』という極短い卒業論文から、その思想は多分にデモクリトスに負っているそれ迄の哲学と異なってエピキュロスの思想を反映したものである、と解析している。その箇所で田辺は原子自体が自然界を統一する自然法則に拠って全く偶然性を介入させない筈だというそれ迄の思想に対して、つまり自然法則的必然性に対して偶然性の可能性を示唆したのだ、という論理を展開している。その偶然性を田辺は「原子の必然的運動逸脱の可能、それる可能」と言っている。そしてそれは歴史解釈でも展開され、「あらざるをえざる」を必然、「あらざるをえる」を偶然として、歴史を後者として規定した。そして我々の心の衝動の様な状態を自然であるとした時、動く事自体が無の有化であり、逸脱可能であるが故に理論的にはそれは偶然の部に入ると考えている。
 しかしこれはやはり凄く唯物論的視座での認識であると言えよう。 
 何故なら我々の心の方を基軸にすれば、あくまで何かをしたい、何かが欲しいという形で行動へ移すとすれば、それはあくまでどうすればそのしたいことが実現し得るか、どうすれば欲しいものが手に入るかという形で、其処には明確な行為因果的な道筋が形成される。従ってある欲求が衝動的に発生したとしても、その欲求実現の為に払われる行為全体は意図的なものであり、又其処で得られた成果や達せられた目的も当然偶然的な事ではなく、その意志の道筋に沿った必然的なものになるだろう。この考えはデカルトのコギトを据えて考えてみれば極自然なことである。従ってデカルトは自分自身の心を田辺の認識の様に偶然性としては決して捉えなかったであろう。
 このことから、田辺元はあくまで哲学史的にはデカルト系譜の哲学者ではない。ヘーゲル主義的認識を出発点にしていて、その後マルクス、そしてハイデッガーも翻訳しつつ、その哲学論理を批判するという展開を採っている。
 しかしカントはデカルト系譜をよく知ってはいたが、やはり全くデカルト的コギトを超えようとしたとは言える。つまり後にヘーゲルに拠ってマルクスの持っていた唯物論的認識を発生させ得る体系的思想、それは多分にアリストテレス的視座なのであるが、それを資質的には受け継いだマルクスの視点とはデカルトは異なっていたが、カント自身はヘーゲルの『精神現象学』(1807)を知らずに生涯を終えるが、既に少しずつ台頭していたヘーゲルの事を知っていなくても尚ヘーゲル的存在の台頭を予感したかも知れない。カント三批判書は1781年に『純・批』、1785年に『実・批』、1788年に『判・批』が発表されている。カントは1804年に八十歳で死去するので、その三年後に当時三十七歳だったヘーゲルに拠って発表された『精神現象学』はカントへのオマージュという意識もあったであろう。ヘーゲルは1831年に71歳で死去し、マルクスは当時十三歳の少年であった。因みにマルクスは『資本論』第一巻を1867年に四十九歳で発表している。結局『資本論』はロンドン移住後に書かれたが、完成することなく1883年に六十七歳で死去する。マルクスの膨大な遺稿とノートが存在する。二年後にエンゲルスが第二巻を、そして更に九年後の1894年に第三巻を発表する。
 ハイデッガーはその六年後の1889年に生まれている。田辺元はその時四歳の少年であり、西田幾多郎は田辺より十五歳年長なので、十九歳の青年であった。
 先程衝動という語彙を田辺解説で使用したが、この語彙は西田に拠る『弁証法的一般者としての世界』(1934年)(西田六十四歳)に頻繁に登場する重要な概念アプリである。西田は終戦を待たず1945年の六月に急逝する。七十五歳であった。田辺は1962年に七十七歳で死去している。 
 デカルトは1596年に生まれ1650年に死去するので、僅か五十四年程の人生であったが、カントが生まれたのがデカルトの死去後七十五年後1724年なので、ほぼ一世紀程の時間差を持っていると言っていい。カントは田辺も指摘している様に、論理体系的な部分があり、それはアリストテレスへのオマージュであると言えるが、実際その思想はデカルトコギトとカントの死去後にヘーゲルが到達した体系論理的な視座との中間にあるとも言える統覚Aperceptionという概念アプリを提出した。
 この統覚はデカルトコギト程緻密に認識的ではないが、ヘーゲル‐マルクス的唯物論的体系性へ依拠する程メタ概念的でもない。西田が『善の研究』で示している当為とは、恐らくカントの言う統覚にそれ程離れていない。
 西田の当為は凄く意識的意図的な私とか、その目論見とかではない。しかし完全に不随意運動的な神経作用の様に完全身体自動的なものでもない。その中間にある何かだと思われる。意識と無意識を繋ぐ架け橋的なもの、或いは意図と非意図を繋ぐ架け橋の様なものと言っていいだろう。その分では西田哲学の本質はやはり西欧哲学文脈だけから理解する事も難しい。恐らく田辺哲学の方がより西欧哲学文脈から継承している部分が大きい。勿論自身の種の論理が戦争へと利用されていった経緯から『懺悔道の哲学』を発表しているので、その懺悔道では当然東洋思想も多く彼は引用している。しかしその後で書かれている『哲学入門‐哲学の根本問題』は懺悔道を構築する為に必要であった東洋思想を西欧哲学へと転化させている、と少なくとも論文自体からは読み取れる。
 そしてその際に重要なこととは、西田が明らかに閉鎖系的な体系性に依拠させようとする分で論理的構築である哲学を、東洋思想が準拠する開放系的な完成拒否性を提唱していると言えて、それは要するに哲学思想の純粋宗教実践思想性への昇華、或いは同化という目論見である事が窺える。その兆候は充分『弁証法的一般者としての世界』で観られ、完全に結実するのが『場所的論理と宗教的世界観』だったのである。
 しかし田辺はそれをもう一度哲学史的文脈の中に再構成しようとした。その意図の中で『数理の歴史主義的展開』中の論文である『場所的直観説の不備、時空「世界」の歴史性』があったと考えられる。
 次回はその田辺に拠る西田批判と西田が目指したものの分岐的意味合いを、前回取り上げた『弁証法的一般者としての世界』『場所的論理と宗教的世界観』を取り上げつつ、田辺論文『場所的直観説の不備、時空「世界」の歴史性』へと対比させつつ、その際にカント的「統覚」をキーワードに考えていってみよう。(つづき)  付記 今回は取り上げなかったが、ウィトゲンシュタインに拠る「私的言語」という概念アプリは明らかにデカルトコギト系譜的命題だと言える。ハイデッガーと同年に彼より少しだけ早く生まれているこの哲学者が現代哲学へ多大なエスプリを与えた事は言う迄もない。尤も今取り組んでいる命題を突き詰める為に再度彼に登場願う事もあるが、それ迄にしておかなければいけない作業は多く存在する。(Michael Kawaguchi)

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