Monday, April 14, 2014

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十四章 西田幾多郎『弁証法的一般者としての世界』解析からカント三批判者の存在理由を考えるChart1

 カント三批判書の持つ空間的意味とは恐らく生者にとっての空間と死者にとっての空間とは全く異質のものであることの根拠の問題なのであり、それが恐らく『純・理』での神の存在証明(それは神の永遠の不死をも誘発する存在証明であるが)という概念を提示させているものと考えられる。つまり神が永遠的と考えられるのは、あくまで生者としての我々から観た場合のことなのであり、死者はそうではない、ということだ。死者は神の永遠性を把捉し得ない。だから死者とは神の一部だとも言える。
 カントは空間の事は殆ど字句的には示さない。しかし彼の哲学の背景には生者と死者の問題が横たわっている。背進という考えの中にそれを読み取れる。二律背反的に背進が成立するのは、我々が死者ではない、思惟し、思索し、熟考する事が出来るからだ。だから西田幾多郎が考えていた意味的統一に対する場所的統一とは死者の時間である。となれば当然意味的統一は生者の時間である。となると西田が『弁証法的一般者としての世界』から『場所的論理と宗教的世界観』へ至る中で模索していた合目的的統一という対象論理性を超えた有機的統一という誠(『場所的論理と宗教的世界観』四の後半に出て来る概念)とは、<一般的限定即個物限定、個物的限定即一般的限定>という別語でも示されているが、それは生者である我々の意識界で介在する対象論理を超えた中心のない円を育む時間、つまり死者の永遠を生者にとっての日常に取り込む、死を日常化させるという試みだと言う事も出来る。
 今回は『弁証法的一般者としての世界』一の大意から考えていこう。
 西田の言う「無限大の円でなくして、中心のない円でなければならない」とは、西田が別の場所で「夢といえども社会的・歴史的限定を離れたものではない。しかして我々は我々を、行為的自己として、我々が有ると考える」という一節へと論点が譲り渡されている。
 つまり、「我々は我々を、行為的自己として、我々が有ると考える」とは、正に俗な社会を生きる、社会のレイバータイムに観られる利潤を獲得する為に費やされる時間の長さ(つまりコスト)の中に自己を埋没させて、其処で社会的自己としてのアイデンティティを証明している生者の時間の概念規定である。しかしだからこそその頽落した時間の中で我々は中心のない円を自覚し、見出していくべきなのだ。それは死者の時間が絶対的に我々の様ではない、ということ、つまり自己がないということ(まさにそれこそが西田の言う自己否定を誘発するのだが)、そしてその死者性を生者である我々が取り込め、と西田はそう言うのである。
 だからこそ「単なるコギト・エルゴ・スムの自己は抽象的自己たるを免れない。我々の主観的世界と考えるものは、上に我々が内的統一(この語彙が重要である。筆者注加入)として直線的と考えるものは、その根柢において円環的でなければならぬといった意義において、円環的でなければならぬ。しかもそれは私のいわゆる無の場所的限定という意義をもっていなければならない」という箇所は、ベルグソン的純粋持続を意識しているものの、それを超え得るものを志向している。
 そのことはそれより少し先の箇所の「瞬間は固、摑み得るものではない。瞬間は現在の自己否定すなわち自己拡散によって成立する」そして「各人が各人の時をもつと考えられる」「現実の世界が世界自身を限定すると考えられる時、無数の瞬間が成立する」「時の統一においておのおのの瞬間が消えて生まれるということは、各瞬間が無限大の円の周辺を廻るというごとき意味でなければならない、否中心なき円の周辺を廻るというごとき意味をもたなければならない。各人が各人の時をもつと考えられる我々の個人的自己というものも、弁証法的に自己自身を限定する世界の自己拡散の方向に考えられるものでなければならない。故に我々の行為は歴史の中から生まれ、歴史の中に失せ行く」といった一連の記述は、歴史とは言う迄もなく生者の特権的時間であり、そうでない死者の時間を取り入れた自己の時間とは中心のない円なのであり、それを生者が日常に取り込む事は、歴史の中に所詮失せ行く時間という移ろいと儚さと空しさの前で自己が自己として生きる事は、本質的には(社会<それは全個としての他者の事である>の規定する時間を一方で知って居つつ、それだけに振り回されず)死者の時間を生の中で会得することである、という主張(当然それは日常的惰性的時間の批判ともなっている)なのである。
 と言うのも我々は何かをする時連続した時間の中で行為を実感する。そしてそれを今と呼ぶ。しかしそれは瞬間の連続ではない。その点ではベルグソンにせよメルロ・ポンティにせよ同じ事を言っている(各人の哲学の志向する先や目的は違っていても)。しかし「瞬間は固、摑み得るものではない。瞬間は現在の自己否定すなわち自己拡散によって成立する」で言っている様に、それを自己拡散すると言う事は、即ち死者の時間へ生者の時間を送ると言うことに他ならない。死者の時間に思いを馳せる事は、生者の時間を社会的コストから離反させた時間を自己内統一という形で会得する事に他ならないからだ。自己否定しなければ(つまり社会的自己の頽落した時間の中での行為性から自己を解き放たせなければ)真の時間は見えて来ない。西田は真の時間とは死者の時間を会得した末の生者の時間だと此処で考えているのだ。勿論死者は永遠に死者であり、死に時間はない。だから逆にそれは絶対的静止であり、絶対的瞬間の永遠だと(我々生者からすれば)言える。
 しかしそれを一旦認めてしまえば、却ってその絶対静止(無時間性)の無限大の集積、絶対的統合として我々の生の時間を把捉し得る、認識し得る。
 「真に内的統一として、真に個物から個物に移る、瞬間から瞬間に移る、真に消えて生まれるというには、かえってそれは円環的意義をもたなければならない。これに反し円環的限定が真の円環的限定として、個物を包むという意義を有するかぎり、それは直線的限定の意義をもたなければならない。それは単に無限大の円でなくして、中心のない円でなければならない。」に観られる西田思想の晩年の本質とは無限に発見し得る瞬間(それは正に死者の時間に他ならない)を把捉せよ、という生者にとっての使命、義務、頽落した社会的義務ではなく宗教的自己にとっての義務を述べている、と捉える事が出来る。
 西田の言う自己拡散とは自己否定へと至る最良のメソッドである。瞬間に気を取られている訳にはいかない日常的に頽落した時間を無限大の瞬間の集積、絶対的統合として捉える視点を西田はこの語彙に拠って提供している。西田が言う各人とは永井均の<私>でもあるし、認知科学一般で言われるクオリアの未解明性のことでもある。
 「我々の自己というものは、かかる世界の自己限定と自己否定との間に考えられる個物的なものなのである。故に我々の自己はパスカルのいうごとく、いつも無限と無との二つの深淵に臨んでいると考えられるのである。全体と無との間にあると考えられるのである。我々の現実の世界が現実の世界自身を規定することから考えられるのである。我々の行為は無から出て無に返ると考えられるとともに、絶対を主体となすということができる。時の瞬間が周辺なき円の周辺を廻ると考えられるごとく、我々の行為も絶対の世界を廻ると考えることもできる。」は、一の最終部の記述である。此処で西田は「我々の行為は無から出て無に返る」そして「絶対を主体となす」とも言う。「時の瞬間が周辺なき円の周辺を廻ると考えられるごとく、我々の行為も絶対の世界を廻る」に拠ってその二つは説明される。
 絶対とは永遠の時間にして我々の様な生者しか把捉し得ない永遠という想念の場そのものであり、それは絶対静止的空間(其処に全物質が存在する)であり、その揺ぎ無さは永遠である、そして永遠は我々生者しか把捉し得ない。そしてその中で周辺なき円の周辺を廻る瞬間を見出す事、会得する事を生の極意としている、という意味で西田は明らかに哲学を宗教へ一体化させようとしている、と読む事が出来る。そして「絶対を主体となす」こそ死者の時間(永遠の静止にして永遠に不滅)を生者としての我々の日常的には頽落した時間の中に取り込み死者性を生者性へ導入せよ、そうすることで本質的時間、つまり永遠の中心無き(ある意味ではそれでも尚飽くなき中心への志向を留めることの出来ない)生の時間を自覚せよ、勿論それは生の有限性を語っている(「我々の行為は無から出て無に返る」で示されている)事でもある訳だが、そういう風に読み取る事が可能である。(つづき)

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