Tuesday, January 4, 2011

<感情と意味>結論 懐かしさも作られるし、慣れも作られる<感情と意味・最終記事>

 毎日鏡で見ている自分の姿や顔形はいつもの「今日の顔」だ。しかし私は昨日の自分の顔も覚えているし、それよりもずっと前の自分の顔も覚えている。だから例えば三年前の写真を見ると、それよりは今の自分が大分年とっていると感じる。その途端に今の顔を鏡に映して見ると、その写真に見られる自分の顔よりもずっと老けていると知ることも出来る。
 つまり常に今はこれまでの姿の対比で感得される。毎日の顔の変化は余り気がつかない。しかし急激に老ける時以外でも、少しずつ毎日老けていくことは一年前の写真を見て感じる。少し前だとその変化は顕著に示されている。
 要するに懐かしいという感情は、そういったある種の肉体的変化と共に、今の様ではなかった過去の状態を思い出すことによっても作られる。そして今の状態が如何様であっても、過去から決別するかの如く、その状態に慣れていく様に我々は常に自然と考えも感じ方も移行させている。
 懐かしいという感情と、慣れとは対極のものかも知れない。何故なら懐かしいとはそれ以前の状態を恋焦がれているということであるが故に、現在の若干の否定が含まれているからだ。
 しかしにも拘らず恐らくこの二つは相補的でもあるのだ。何故なら懐かしさを一方で感じつつ、しかし今は今でよいと決然と考えることによって、全てを過去化しているのが我々の心の実態だからである。
 ある部分では忘れていたことを思い出す時には確かにそれが懐かしく感じられる。しかし昨日のことの様に克明に覚えていることは懐かしくはない。従って記憶力が少し減退した時こそ懐かしさは襲ってくるとも言える。つまりかなり老いが訪れる年齢でも明確な記憶が今の様に常に蘇ってくるのであれば、それは常に今であることに慣れていて、今こそが最高であると思えることだから、必然的に懐かしさとは別種の感情でも過去を捉えられるとも言えるからだ。要するに現在自分が立たされている状況をどれくらい愛せるかということに尽きる。従ってこれはある部分では哲学的だが、ある部分では哲学的でなくてもいいのだ。
 もし私達の感情が途切れることなく死の瞬間まであるとすれば、それは常に過去にあったことを意味づけ、それは当然現在からのことだが、又過去に比して今はどうであると感じられることから発生する意味に全てがある筈だ。本ブログでは最初の「存在と意味」から二段目の「感情と意味」をお届けしてきたが、今回で一度この「感情と意味」を締め括ろうと思う。
 本ブログは次回からは再び存在に少し重きを置いて考えてみたい。時間論も含有させていきたいと考えている。価値論や形而上学的要素も付け加わるが、かなり現代的なテーマを別ブログ「トラフィック・モメント」とも併行させて考えていきたい。少し休みを置いて再びお会い致しましょう。

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