Monday, May 16, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 インターミッション①アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存

 書籍刊行物は何時の時代も残すべき価値のもののみをミーム的に出版者・編集者が断続的に継続的に誰かの言葉を出版し、出版ビジネスとして成立させる様に選別者達も世に送り込んできた。

 しかしウェブサイトはそれとは基本的に全く異なっている。例えばツイッターはツイーター各人異なったフォロワーが居て、異なった人達をフォロウしている。あるツイーターが死ねば、じきそのツイーターのフォロワーはそのツイーターをアンフォロウするだろう(尤もかなり以前にフォロウしていた人なら一々アンフォロウする手間をかけずうっちゃられておかれるだろうが)し、その死したツイーターによってフォロウされていて、ツイッターとして展開していたTL画面は誰にも除去されずに、ウェブサイト自体が消滅しない限り、永遠に表示され続ける。その死者ツイーターのフォロワーが生存し続ける限り、少しずつTLの画面を変えながら、しかし全てのフォロワーが死ねばある時点から全くの静止画像となって消去されずに永遠に残ってしまう。

 しかもツイッターのツイートは良質のもののみが残されるのではなく、全てが残される。そういった意味ではツイッター上での文字の永続性、消去不可能性は非ミーム的なものである。

 このウェブサイトの非ミーム性は、しかし同時にユーザーにとっての使い勝手(利用しやすさ)という面では、完全にミーム的に全てのツールを広める。
 つまりウェブサイトとは、それ自体TLそのものは全て非ミーム的に消去され得ず、送信記録を永続せしめるが、そのダウンロードのメソッド自体は常にミーム的な対ツール的なランダムアクセスなのである。
 これを「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」と呼ぼう。

 この事実からもあらゆる出版ビジネスはその大半が電子書籍化していかざるを得ないだろうが、それはウェブサイト的無限のバックグラウンドを地とする特権的図となってゆくであろう。
 しかしこういった無限のバックグラウンド的地に於ける図の在り方は、そういったウェブサイト的地のなかった時代の図とは自ずと変わっていかざるを得ない。
 ウェブサイト的地を前提にしたミーム化された図は、現在の一般書籍オンリーの時代の文字及びその配列とは自ずと異なった性格を帯びていこう。
 それは一言で言えば、全人類に共通した文字情報のニーズではなくオタク的クラスターのニーズに即応した個別的マニアックなミームの林立、乱立であろう。この点では東浩紀の「動物化するポストモダン」の読みは正しい。

 しかしやがて時代の変遷と共に、無限の永続的情報という非ミーム的地への我々による慣れから、再び意味化がなされていくことだろう。それは東語の「動物化」からの再意味化である。そしてその時かつて乱立していたミーム・クラスターの中から幾つかの纏まりが形成され、新たに古典化していくだろう。

 言葉の感覚、意味の在り方は現在も日々変化していっている。それはミーム的なスピードの速いものほど早く廃り、遅いものほど長く残るという古典的法則を守りながらも職種的階層的に併存している。
 つまりある職種や階層クラスターで永続的なミームは他のクラスターで永続的なミームとは邂逅し難い、ということである。そしてそれはかなりしぶとく容易には相互に融合し合わず、不干渉的に非関係的に併存し続けるだろう。
 しかしその異質のクラスターへの性格づけを大別させ続けるものは、職種・階層と言っても、ある職種が人格のかなりのパーセンテージで充足し得る人々と職種はあくまで生活の為の方便である人々とで大きく分断されてゆくのではないか、と私は予感するのだ。
 これはある意味では権威主義(権威追随)者と反権威主義者のクラスターが相互に相手の是認をし合わぬ相互に自分達を是とすることを譲り合わぬ状況の長期永続を意味しよう。
 私は要するに決して邂逅し合わぬミーム達を「生き方」に於ける価値観、そして社会に対する自己の適合させ方に対するヴィジョンの質的差異(異)に於いて考え予想するのだ。
 端的に人生観の違いとは、ニーズの違いを生む。そして仕事観も娯楽観も社会義務観も国家観も郷土愛観も民族観も大きく違えさせよう。
 そのクラスターの各個別的性質の違いは、大まかに分けて次の様になるのではないか?

① 集団、及び組織内協調主義且つ他者相互不干渉主義
② 一匹狼的単独行動主義且つ他者相互不干渉主義
③ ①②共、①②の併存に対する容認派と非容認派とへ分派していくだろう。

これはある部分では①はミームをより求め、②はより非ミームを自然とする考えへと落着し、①の②への容認派、並びに②の①の容認派はその中間を普通とし、非容認派は①の唯ミーム派、②の唯ミーム派ということになろう。
 ミームにも意識的ミーム(意味に対して自覚的、意識的)であるものと無意識的ミームとがあり、最初は後者であり、やがてその中でしぶとく長く残っていくものはやがて前者へと変貌していく。

 「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」は一方で我々は誰しもが永続的にメッセージを発信し且つ残すことが出来る一方、それとは別に多くの人々に受ける情報内容(便利な情報か、書き手の個性)を益々追い求めているということだ。
 誰しもが公共掲示板に書き込めはするが、エリートの書き手を別に求めるという偶像希求はミーム的魅力を別に必要だ、ということだ。しかし誰しもが容易にメッセージを送信可能なアップローディッドの非ミーム性が地であるウェブサイト上では皆がミームと認めるものの様相は上述の様に非ミームともずれた異なった存在にならざるを得ない。そしてそれは出版刊行物(紙による)オンリーであった時代のミームとはかなり異なった質の情報となっていくということは容易に想像出来る。

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