原初的には説明が不毛であることの方がずっと広大である。しかし我々はこの広大な領域に網をかけようとする。それが説明原理である。それを誘引するのは他者存在である。何故なら、説明が不毛であること自体を何らかの形で誰かに説明したいからである。そういう意味では全ての説明が不毛である固有の感じは、全て説明の網の中にあると言ってさえよい。
しかし当初網をかけたばかりの時には、通常我々はその説明には完全には納得していない。寧ろ取り敢えずの納得であり、その時は未だ説明されるべき問題の全体を把握するために方便として納得しているに過ぎない。だから多少ずれていることがあったとしてもそれでよしとする。
しかしやがてそれらだけでは納得がいかなくなり、詳述する必要性が出てくる。その時二つの事柄が理解される。
① 大まかに把握することがその都度必要であること。
② それにもかかわらず、それだけでは十分ではなく、より詳細かつ精緻に理解する必要性も常に残存すること。
つまりここには二重の理解ということがある。何故そのように二重になるかと言うと、取り敢えずの納得だけでは不十分とする経験上信念となり得るような理解を我々は必要としているからである。
私たちは何かを習慣化すると、その習慣となっている行為自体に対して、別段大いなる疑問を抱かなくなるものである。例えばファミレスの店員は入店してくる客に対して笑みを浮かべ「いらっしゃいませ」と言うだろう。その時彼等は別段楽しいわけではないだろうが、そのように習慣化された笑みを浮かばせることによって楽しい気分に自分も、それを向けられた客にも与えるということはあり得る。つまり笑うという習慣が心まで楽しくするのである。
そのように考えると行為への意志が習慣化するということは、ある意味ではその時どんな悲しい感情を携えていても、それをしている間は忘れられるということを我々が知っているからである。
だからこそ愛する家族を失った者は、その悲しみに打ちひしがれながらも、仕事に情熱を傾けることによって、その情熱を維持している瞬間の連続においては、悲しみから解放されるということがある。そしてどんな愛する家族の死であっても、長い時間が経てば、次第に悲しみの持続という、愛する家族の死において決意した習慣も消滅していく。そして習慣もまた実は何故そんなことを習慣化するのかといざ問われれば、正確に返答することが困難な「ただ何となくそうするのがいいと思えるから」としか答えられようのない説明が不毛に思えることの一部なのである。
だから取り敢えずの納得が何故必要であるのかと言うと、それはそうしておいた方がどんどん先に論が進行することにおいて円滑であろうという目測(説明が不毛であると思えること)によるものである。しかしそれは習慣的な理解のステップであって、もっといい遣り方があるのなら、そちらに変更しても一向に構わないものなのである。
しかし哲学上ではかなりその習慣化された思考経路に呪縛されることが多い。
例えば哲学者は宗教家に対して「宗教とは救済という目的があるが、哲学にはそのような目的はない」とそう言うことだろう。しかしそれは違うのではないだろうか?
ある意味ではアートも文学も宗教も科学も目的などというものなど一切ないと言ってもいい部分がある。確かに一面では宗教は死に対する恐怖を和らげてくれたりもするし、心の平静を保つというある種の目的性がないとも言えない。しかしそれを言うのなら、数学も問題を解くことで心の平静を保てるのなら、数学だって宗教と同様の目的があると言ってもよいだろうし、逆にどんなに優れた宗教家であっても自らの死への恐怖や不安を完全に克服していった者など殆どいなかっただろう。
それにもかかわらず哲学者は往々にして哲学を特化するために「宗教には救済という目的があるが、哲学にはそのような目的はない」とそう言いたいのである。しかしそう言うとしたなら、その者は二流の哲学者なのではないだろうか?何故なら宗教の本質とは一体何かということがそう容易に外部から理解され得るのであれば、私たちにとって宗教などというものは必要ではないだろうからだ。
それは哲学においても言えるし、科学やアートに関しても言えることである。この世の中にはまさに説明を不毛にするようなものの方が圧倒的に多く、例えば宗教でありかつ科学であったり、哲学でありかつアートであったりするものも多いと思う。
しかし我々は取り敢えずの納得をするためによく確かめもしないである言説を理解した振りをするものである。つまり前節で述べたように「世界」とは実は決定ではないし、確定的ではなくその意味も在り方も常に変えている存在である。にもかかわらずそれを固定化された決定された全体として語彙化して「世界」と告げることをしなければ我々は何も伝えられない。そこで私たちは意味の流動性、世界の恒常的変化に一時目を瞑り不動のものとして、あるいは静止したものとして「世界」を捉えそう伝える。つまりこの言語行為上での語彙選択に既に私たちは取り敢えずの納得ということを自己の中の他者に追随して心的にしている。しかしそれだけではやはり物足りなくなるのである。そこで真理の究明ということが欲せられるのだ。その時意味伝達ということだけではなく体験ということがたちまち価値ある相貌の下に現出するのだ。
ところで私はよく不幸が続く家族が何か悪いものが取り付いているかのように考え、お祓いして貰うという宗教的行為を決して否定するものではない(何故なら心の平穏をそれで取り戻せるのなら安いことだと思うからであるが)が、そうかと言って一切その因果論的なものの見方に科学的根拠などないと考えている。そしてそれは恐らく一生変わらないだろうと思う。つまりだからこそ何故人間がそんな愚かな考えをするのかに関心がある。
それはある意味では取り敢えずの納得をすることを人間が常に求めているというところに根拠があるのではないかと考えている。
例えば「世界」という語彙は、何らかの漠然とした自然や人間の力の及ばない霊力であると人間が感じたことを総体として理解した時出来た語彙ではないかと考えているが、それはある意味では「私にとっての世界」や「あなたにとっての世界」という個別性を一切無視している考えでもある。
例えば今あなたが動いたとしよう。それはトイレに行くためにそれまで座っていた椅子から立ち上がったのだ。そして私が今動こうとしているとしよう。それは喉が渇いたから水を飲もうと思ってのことである。するとあなたの動く理由と私が動く理由は全く何の関係もない。
しかしあなたの動きと私の動きを両方監視している者が仮にいたとして、その者が私とあなたの動きについて誰かに報告した場合、両方とも「あっ、二人とも動きました」とか言うことだろう。あるいは「あっ、二人とも立ち上がりました」とか言うだろう。つまり動詞さえもが、個々の個別性を一切無視して語彙化するために個々の事情を無視することで成立させているのである。
つまり語彙を形成するということは言語発生論的には明らかに個々の個別性、差異を一切無視しなければ成立し得ないものなのだ。それは取り敢えずの納得をしないことには、「それ以上」問題や、関心や、究明そのものが先に進まないからなのである。
しかし同時に一旦その取り敢えずの納得で理解出来た後にはただちに、我々は「ではそれはどうしてそうなったのか」と考え始める。そして取り敢えずの納得で得ていた理解の一部に矛盾があることなどに気づき言及し始めるのである。その矛盾に対して覚醒する際に重要となってくるのは、個々の成員において個人的に判断する自己経験に根差した判断である。「それはおかしい」とか「ちょっとニュアンスが違う」という判断を成立させるのは、個人的にある陳述に対してその合理性に対する懐疑を成立させる論理的思考である。しかしそれはある程度は個人を超えて誰しも同じようなものとして個人に付与されているが、たとえそのように同じような判断を誘引するものであっても、その判断に至るまでの経路は個人毎に全部異なるだろう。つまり真に理解するということは、真に意味を理解するということであるが、意味理解ということとは、端的に個人の経験・体験に依存しているのである。
だからこそ語彙において「動いた」と私とあなたを監視している者が監視させている者に報告した場合、その司令官は「どんな風に」と尋ねることだろう。そこから私とあなたの動き自体の個別性が問われ、監視者は詳細に報告するために「なんか一人はトイレに行くためみたいです。そしてもう一人は水道の蛇口を捻っていますから水を飲みたかったみたいです」とそう言うだろう。
つまり報告においては理解させるために報告者は必ず動きに目的や意図を説明する。形容したり、修飾したりすること自体が一つの理解を誘引するためになされるのだ。
しかし私は次のようにも考えている。それは人類が果たして最初からそのようなコミュニケーションをしていたとは限らないという風にである。つまり国家が形成される以前に人類はあるいは語彙、例えば今挙げた例でいけば、動くということ一つをとっても、ある集団内において家長並びに集団の長や、その配偶者、あるいはその子供たちなどが一々別の、例えば家長が動くのなら「うごちる」、母が動くのなら「うごはる」、その子供たちが動くのなら「うごこる」という風にである。更に子供同士でも兄なら「うごあにる」、弟なら「うごおとる」という風に全て区別されていたとしても何ら不思議ではない。だが共同体が結集したり、国家が形成されたりするに至って初めて全てを「うごく」に統一していったという可能性は大いにあり得る。要するにそのように一切の個別性と個人的差異を無視して語彙化すること、つまり語彙形成における一般化の定着こそが共同体、国家の形成であったと考えることも自然ではないだろうか?
しかしもし「うごちる」「うごはる」「うごこる」「うごあにる」「うごおとる」というように使い分けることが出来たのなら、少なくとも家族内では名前を呼び合う必要がない。だから必然的に言語発祥という観点から考えれば、名前がつけられる前にそのような動詞や名詞(尤もこれは所有とその時に使っている人との両方の区別が必要なので一層複雑になるが)による成員毎の使い分けがあったと考えることも理に適っている。しかしもし名前がないままで親族、親族以外の他人にまで言語行為をするとなると、使い分けするために膨大な数の動詞や名詞をその都度作らなくてはならない。それは極めて不合理である。そこで名前をつけるということが考えられた、という思考実験も強ち全く説得力がないわけではないだろう。この考えでいくと名前とは共同体、国家の形成と不可分な人類の発明であるということになる。
尤もやはり最初に名前がつけられ、動詞も名詞も行為する成員、使用する成員に応じて変えるということなく、始めから一般化された語彙を使っていたと考えることが通常であることを承知で敢えて私は提言してみたのである。
要するに各成員に固有の行為や所有・使用に対して一々動詞や名詞を使い分けることで取り敢えずの納得をしていたことから、成員に対して名前をつけてその自己同一性においてその者の行為や所有・使用を理解するということへの移行というのが私の思考実験的提言であるが、しかし移行した先の理解の方がこと行為性に関してはより個別性を無視した形になること、つまり成員が共同体内での同一性という社会性に縛られることが、逆にその者の存在を明確にはするが、その行為性においては一般化され得るという二律背反が私の本節において主張したいことなのである。
Wednesday, June 30, 2010
Thursday, June 10, 2010
<感情と意味>第三章 第八節 自己の中の他者
「君は自分にもっと素直になれよ」と言うタイプの人には警戒しなくてはならない。何故ならそういう人には本当の自分というものがあるように信じているか、信じていないのならそのような自分を見出すことこそが正しいと教条的に信じているに違いないからである。しかし自分の中にそう問い掛ける別の自分が常にいるということは正しいだろう。だがそれは自分の中の他者であるよりは、自己の中の他者なのである。つまり「君は自分にもっと素直になれよ」とは自分に対してのみ言っていいことなのである。
自分の中の他者を追い払うのは比較的たやすい。何故なら自分の中の他者とは真意では何かをしたいと思っているのに、その行為に付帯する障害故に躊躇している、つまりその行為を持続させるために払われるあらゆる努力や手続きを怠りたいと願う怠惰な心に根差しているからである。それは自分の中にある他人から見たらそんなトライアルは「格好が悪いよ」という保守的で怠惰な自分なのだから、自分の中の他者であると言ってよい。自分から見たら全ての他者は外見とか表面でしか分からないし、その分からなさが他者を信頼したり、信用したりすることのもとになっている。
しかしもっと自分に素直にならなくてはという思いは、社会的な個ということから発生する義務感とか奉仕の感情とか対人関係的な展望であるとか、要するに素直になることによって自分の中の他者を追い払うこと、つまり怠惰であることをいけないと悟り、そのいけなさが常に付き纏うことを念頭に入れて、自己に対して批判的な眼差しを注ぐことを誘引するのだから、対自己的批評者の視点である。だから私はこれを自己の中の他者と呼んだのだ。
私は前節において「自分の潜在意識という奴自体が既に他者や社会的掟からの規制という呪縛に随順している」と言ったし、「記憶の意味化とは外部からの強制に対する何らかの屈服である。つまり変わらなさを保持していなければ社会的体裁が悪いと無意識に感じ取ってしまっている」とも言った。このことをもっと詳細に考えてみたい。
私は実は常にころころと自分の考えが変わっているし、その変わりやすさに対してある種の可能性さえ感じ取っている。しかし社会では一貫性とか主義主張といったものが尊いとされている。少なくともそのようにシンパ的に人は集合していることを皆知っているし、そのことに対する認知を私もまた持っている。そこで変わりやすさをあまり他人には容易には告白出来ないままでいる。つまり昨日決めたことでも今日覆されることは多くあるし、だからと言って一度立てた計画で頓挫したものはどこかではずっと覚えているものである。しかしその計画の頓挫自体は一々報告しなければ終わりよければ全てよしで片付くことも多い。そこで私は変わりやすさを他人に対して、対他的には隠蔽する習慣になっている。
しかしこの変わりやすさは思い出に対しても適用される。一度こうであったと思い込んだなら、それがいかなる状況やいかなるその後の事情の変化においてでも、反省することを億劫に思うが故に、「あれはあれでよかったのだ」と思い込みたいものであるが、ある意味ではそういう思いが障害になることもあり、逆に「もっとこうすべきであった」とか「あれはするべきではなかった」と思い失敗を素直に認めることも必要である。つまり変わりやすさを隠すこと自体が既に変わり難さにおいて社会的自己同一性という社会や他者が自己に押し着せる強制的な友愛を意識してのことであるに過ぎない。だから私が記憶の意味化を否定的に前節において扱ったのは、実は意味の固定化に対してなのである。意味が流動化することを承認しさえすればそれはそれで一向に常に意味を書き換えることを潔しとして、その都度意味づけすることを躊躇しないわけだから別段どうということはない。
つまり首尾一貫しなさを常に意識していることだけを一貫させていることが、対他的にも対自的にも反省しやすく、あるいは展望を持ちやすくすると私は考えるのだ。だから前節の最終部で私が「「今のようではなかったかも知れない現在」を常に私は想定することが出来る。その今のようではなかったという想定こそが、希望・願望・目的・意図を作る」と言ったことは正しいと確信している。
何故なら今のようではなかったかも知れないという想定自体が自己の中の可能性を信じているからである。これは安易な他律的自分ではなく、もっと端的に冷厳な観察力を持つ対自的批評家を自己の中に巣食わせることを意味する。可能性は諦めることからではなく、無謀に試みることから始まる。
中島義道は「英語コンプレックス 脱出」において若い頃語学の家庭教師や予備校教師を自分ではそこそこでしかない実力と知っていながらも自分の語学力以上のトライアルを率先して実践したことによって打開してきたことを告白している。しかも日本の英語教育におけるネイティヴは絶対に使わないような表現の英語を試験問題に出すことに対しても、それを外国語一般に対する適正チェックとして有用性を認める。つまり氏は日本人の教師が教えやすい外国語学習の生徒の適性チェックと見做しているのだろう。これはある意味では竹中平蔵の「マトリクス勉強法」における二十代の頃に率先してしたエリートたちなら絶対経験しないであろう雑用的な仕事が三十代以上になっていった時に役立ったという話しとどこか共通する。困難さに立ち向かうという前向きさでも共通性がある。要するにこの二人に共通した実務性というものは、一冊の本を「読み物」として理解した時に立ち現れる説明原理というものの存在を想起させそれがここで問題になってくる。
これらは対自己批評性を持つこと、つまり自己の中の他者によって、一旦認めてしまった変わりやすさを逆利用することである。変わらないということを他者に触れ込むことで自己を閉塞状況に陥らせるくらいなら、いっそ最初から私には一貫性などないと公言していた方がずっと責任倫理にも適っている。ころころ変わるということの内には一定の必然性が常にあるのである。関心もそうであるし、主義もそうであるし、信条もそうである。もし一回もそういうことで変わらないままで来ている人がいたのなら、そちらの方に寧ろ問題がある(それは寧ろ狂人である)。
私たちは世界や個、宇宙といったものを限界としては知らない。私という個でさえある意味では死ぬまでどんどん変わるし、能力の全体を確定的に説明することが出来ない。私は私に対してさえ知らない部分を多く持つ。また新たな知識が常に付け加わるし、忘れたこともある。だから全ての枠組みは本来ファジーである。これについては既に述べた。しかし考えの上でそれらを一旦確定的なもの、固定化された何か明確なものとして扱うということも私たちは自然な思惟のプロセスとしている。
つまり意味は本来流動的なものであるが、同時に極めてその都度においては確定的なものである。つまり流動、あるいはこう言ってよければ進化上での変化を持ちながらも、それを言語化して、他者に伝える時私たちは明らかに確定的で、明確に枠組みを設けて語っている。
つまり私が一貫性などないという責任の明示とは、そうすることで確定的な責任を必要以上に自分以外の他者に対して幻想させないように、つまり不確定な事態をも考慮に入れた考えである。しかしそう言いながら私たちは、限定的には常に固定化された価値を捉え、「ここまでなら出来る」と明示する。つまり限定的な責任の明示自体が既に私たちが世界を常にファジーに限界を捉え、その限界を明確なものにする欺瞞的な認識を取り敢えず常に採用していることを習慣化していることを示している。
それら全ての現実は一重に言語自体の持つ説明原理に帰着する。つまりこの言語的説明原理こそが自己の中の他者であると言っていいかも知れない。明らかに自己ということを考えると、説明に納得する己と、そうではなく説明が不毛であると感じる己がいるように少なくとも私には感じられる。そしてその二つは常に拮抗し合っていて、双方とも必要であるどころか、無くてはならないもののように思われる。説明が不毛であるもののことをクオリアとか意識と呼ぶことはたやすい。しかしやはりそれらの語彙によって示されるものだけではないような気が私にはするのである。
何故ならそれらはどこかで自己の中の他者に対しても何かを常に語りかけているように思われるからだ。つまりそれらは決して説明原理にそっぽを向いているわけではない。つまり「それは言葉では言い尽くせない」ということからも、そう言うのは実は言葉ではなく説明に納得しない己なのである。
卑屈ということも同じことが言える。政治家は信用という二文字によって政治活動が可能となる職業である。その時その都度の発言自体が有効であるよりは、確固たる実績と信用だけがその政治家の発言を説得力あるものにするか否かを決する。と言うのも私たちは彼等の発言だけでなく実績自体を注視しているからだ。信用とはただ単に習慣の問題なのである。それと同じことが先に示した通年男性をいびる老人の卑屈にも言える。
さて卑屈とは一体何か?それは端的に自らのコンプレックスを感じているのにもかかわらず、そのコンプレックスを意識することが多大な意識の変革を要することを知っているから、保守的な自分、つまり自分の中の他者に他律的に忠実であるわけである。彼(自分の中の他者)は彼自身にこう教える。つまり相手は才能も力量もあるし、端的に自分などより将来の可能性は十分にある。しかしお前には大勢の知人がいるし、人的ネットワークも豊富だ、何より彼よりもずっと長く生きてきたじゃないか、彼など少し皆の前で恥をかかせるようなことをさりげなく、しかも周囲の人にはあまり気づかれずに、彼本人にだけ敏感に察知されるように侮蔑的な一言を浴びせかけてやればいい、それくらいの権利くらいならお前にもある、それがお前の威厳である、とここで彼は端的に卑屈を背負い込むのである。それをしなければ済む心が、一層それをすることによって逆に自分の将来のなさを自分の内部で露呈するからである。それでも卑屈を背負い込むことの方がやはり彼にとっては楽なのである。だからいつの間にか習慣化するのだ。やめておけばよいものを説明だけでは不毛である生理的直観が「そっちの方が楽だ」とそう言うのである。
実はこれらのマイナスの感情も、赤いバラを見て感動するクオリア的な感受とそう変わらないものなのだ。何故ならそれらは一括して説明し得ないものであるからだ。説明が不毛であるということに関しては「じれったい」とか「まどろっこしい」とか「もどかしい」とか「うんざりだ」とかもそうである。それらは説明原理を常に跳ね除ける。
しかしそれらだけでも持続し得ない。私たちはそれらの感情を暫く抱くと痛烈に心が消耗するのを感じる。そこで歯切れがよい説明原理を求める。いらいらした時案外数学の問題を解くと心がすっきりすることがある。
勿論黄色いヒマワリを見て綺麗だと感じる心は説明し得ないけれども、自分の中の他者ではないだろう。卑屈や怠惰や横柄とは端的に私が示した定義からすれば確かに自分の中の他者である。しかし色彩的なクオリアや食べ物に感じる味覚のクオリアといったものたちは、自分の中の幸福の他者かも知れない。しかし意外とそれらが「まずい」とか「汚い」という感受と隣り合わせであることも事実である。大らかであり、前向きであり、豪放磊落であるということと、卑屈であり偏狭であることなどは隣り合っている。
これはどうしてなのだろう?
つまりこう考えればよい。私たちはあまりにも言葉を絶することとは、感動においてもそうだし、不愉快であることにおいてもそうである。しかし感動は何とか言葉に言い表そうとするが、不愉快は出来る限り早く忘れたいと願う。そこには自分の中の他者が「早くもっとお前にとっての快を取り戻せ」と囁くからだ。しかし前者の感動はそれを言葉の美に置換することに価値があるように思う。その時私たちは幾分言葉を美化している。そして自己の中の他者とは端的に知性的な我である。そして自分の中の他者は自我的な我であるから、出来る限り自己防衛に余念が無いので楽をしようとする。この二つは常に隣接しているからこそ、バランスが取れていくのである。だからこそ逆にどんなに和やかな雰囲気でも一瞬にして崩れるということもあり得るわけだ。
私は取り敢えず自己と言う時物差し的基準や規範意識を持つ知性的なものと考え、逆に自分と言う時感情的な流れに自然であるようなものを考えることにしたい。
自分の中の他者を追い払うのは比較的たやすい。何故なら自分の中の他者とは真意では何かをしたいと思っているのに、その行為に付帯する障害故に躊躇している、つまりその行為を持続させるために払われるあらゆる努力や手続きを怠りたいと願う怠惰な心に根差しているからである。それは自分の中にある他人から見たらそんなトライアルは「格好が悪いよ」という保守的で怠惰な自分なのだから、自分の中の他者であると言ってよい。自分から見たら全ての他者は外見とか表面でしか分からないし、その分からなさが他者を信頼したり、信用したりすることのもとになっている。
しかしもっと自分に素直にならなくてはという思いは、社会的な個ということから発生する義務感とか奉仕の感情とか対人関係的な展望であるとか、要するに素直になることによって自分の中の他者を追い払うこと、つまり怠惰であることをいけないと悟り、そのいけなさが常に付き纏うことを念頭に入れて、自己に対して批判的な眼差しを注ぐことを誘引するのだから、対自己的批評者の視点である。だから私はこれを自己の中の他者と呼んだのだ。
私は前節において「自分の潜在意識という奴自体が既に他者や社会的掟からの規制という呪縛に随順している」と言ったし、「記憶の意味化とは外部からの強制に対する何らかの屈服である。つまり変わらなさを保持していなければ社会的体裁が悪いと無意識に感じ取ってしまっている」とも言った。このことをもっと詳細に考えてみたい。
私は実は常にころころと自分の考えが変わっているし、その変わりやすさに対してある種の可能性さえ感じ取っている。しかし社会では一貫性とか主義主張といったものが尊いとされている。少なくともそのようにシンパ的に人は集合していることを皆知っているし、そのことに対する認知を私もまた持っている。そこで変わりやすさをあまり他人には容易には告白出来ないままでいる。つまり昨日決めたことでも今日覆されることは多くあるし、だからと言って一度立てた計画で頓挫したものはどこかではずっと覚えているものである。しかしその計画の頓挫自体は一々報告しなければ終わりよければ全てよしで片付くことも多い。そこで私は変わりやすさを他人に対して、対他的には隠蔽する習慣になっている。
しかしこの変わりやすさは思い出に対しても適用される。一度こうであったと思い込んだなら、それがいかなる状況やいかなるその後の事情の変化においてでも、反省することを億劫に思うが故に、「あれはあれでよかったのだ」と思い込みたいものであるが、ある意味ではそういう思いが障害になることもあり、逆に「もっとこうすべきであった」とか「あれはするべきではなかった」と思い失敗を素直に認めることも必要である。つまり変わりやすさを隠すこと自体が既に変わり難さにおいて社会的自己同一性という社会や他者が自己に押し着せる強制的な友愛を意識してのことであるに過ぎない。だから私が記憶の意味化を否定的に前節において扱ったのは、実は意味の固定化に対してなのである。意味が流動化することを承認しさえすればそれはそれで一向に常に意味を書き換えることを潔しとして、その都度意味づけすることを躊躇しないわけだから別段どうということはない。
つまり首尾一貫しなさを常に意識していることだけを一貫させていることが、対他的にも対自的にも反省しやすく、あるいは展望を持ちやすくすると私は考えるのだ。だから前節の最終部で私が「「今のようではなかったかも知れない現在」を常に私は想定することが出来る。その今のようではなかったという想定こそが、希望・願望・目的・意図を作る」と言ったことは正しいと確信している。
何故なら今のようではなかったかも知れないという想定自体が自己の中の可能性を信じているからである。これは安易な他律的自分ではなく、もっと端的に冷厳な観察力を持つ対自的批評家を自己の中に巣食わせることを意味する。可能性は諦めることからではなく、無謀に試みることから始まる。
中島義道は「英語コンプレックス 脱出」において若い頃語学の家庭教師や予備校教師を自分ではそこそこでしかない実力と知っていながらも自分の語学力以上のトライアルを率先して実践したことによって打開してきたことを告白している。しかも日本の英語教育におけるネイティヴは絶対に使わないような表現の英語を試験問題に出すことに対しても、それを外国語一般に対する適正チェックとして有用性を認める。つまり氏は日本人の教師が教えやすい外国語学習の生徒の適性チェックと見做しているのだろう。これはある意味では竹中平蔵の「マトリクス勉強法」における二十代の頃に率先してしたエリートたちなら絶対経験しないであろう雑用的な仕事が三十代以上になっていった時に役立ったという話しとどこか共通する。困難さに立ち向かうという前向きさでも共通性がある。要するにこの二人に共通した実務性というものは、一冊の本を「読み物」として理解した時に立ち現れる説明原理というものの存在を想起させそれがここで問題になってくる。
これらは対自己批評性を持つこと、つまり自己の中の他者によって、一旦認めてしまった変わりやすさを逆利用することである。変わらないということを他者に触れ込むことで自己を閉塞状況に陥らせるくらいなら、いっそ最初から私には一貫性などないと公言していた方がずっと責任倫理にも適っている。ころころ変わるということの内には一定の必然性が常にあるのである。関心もそうであるし、主義もそうであるし、信条もそうである。もし一回もそういうことで変わらないままで来ている人がいたのなら、そちらの方に寧ろ問題がある(それは寧ろ狂人である)。
私たちは世界や個、宇宙といったものを限界としては知らない。私という個でさえある意味では死ぬまでどんどん変わるし、能力の全体を確定的に説明することが出来ない。私は私に対してさえ知らない部分を多く持つ。また新たな知識が常に付け加わるし、忘れたこともある。だから全ての枠組みは本来ファジーである。これについては既に述べた。しかし考えの上でそれらを一旦確定的なもの、固定化された何か明確なものとして扱うということも私たちは自然な思惟のプロセスとしている。
つまり意味は本来流動的なものであるが、同時に極めてその都度においては確定的なものである。つまり流動、あるいはこう言ってよければ進化上での変化を持ちながらも、それを言語化して、他者に伝える時私たちは明らかに確定的で、明確に枠組みを設けて語っている。
つまり私が一貫性などないという責任の明示とは、そうすることで確定的な責任を必要以上に自分以外の他者に対して幻想させないように、つまり不確定な事態をも考慮に入れた考えである。しかしそう言いながら私たちは、限定的には常に固定化された価値を捉え、「ここまでなら出来る」と明示する。つまり限定的な責任の明示自体が既に私たちが世界を常にファジーに限界を捉え、その限界を明確なものにする欺瞞的な認識を取り敢えず常に採用していることを習慣化していることを示している。
それら全ての現実は一重に言語自体の持つ説明原理に帰着する。つまりこの言語的説明原理こそが自己の中の他者であると言っていいかも知れない。明らかに自己ということを考えると、説明に納得する己と、そうではなく説明が不毛であると感じる己がいるように少なくとも私には感じられる。そしてその二つは常に拮抗し合っていて、双方とも必要であるどころか、無くてはならないもののように思われる。説明が不毛であるもののことをクオリアとか意識と呼ぶことはたやすい。しかしやはりそれらの語彙によって示されるものだけではないような気が私にはするのである。
何故ならそれらはどこかで自己の中の他者に対しても何かを常に語りかけているように思われるからだ。つまりそれらは決して説明原理にそっぽを向いているわけではない。つまり「それは言葉では言い尽くせない」ということからも、そう言うのは実は言葉ではなく説明に納得しない己なのである。
卑屈ということも同じことが言える。政治家は信用という二文字によって政治活動が可能となる職業である。その時その都度の発言自体が有効であるよりは、確固たる実績と信用だけがその政治家の発言を説得力あるものにするか否かを決する。と言うのも私たちは彼等の発言だけでなく実績自体を注視しているからだ。信用とはただ単に習慣の問題なのである。それと同じことが先に示した通年男性をいびる老人の卑屈にも言える。
さて卑屈とは一体何か?それは端的に自らのコンプレックスを感じているのにもかかわらず、そのコンプレックスを意識することが多大な意識の変革を要することを知っているから、保守的な自分、つまり自分の中の他者に他律的に忠実であるわけである。彼(自分の中の他者)は彼自身にこう教える。つまり相手は才能も力量もあるし、端的に自分などより将来の可能性は十分にある。しかしお前には大勢の知人がいるし、人的ネットワークも豊富だ、何より彼よりもずっと長く生きてきたじゃないか、彼など少し皆の前で恥をかかせるようなことをさりげなく、しかも周囲の人にはあまり気づかれずに、彼本人にだけ敏感に察知されるように侮蔑的な一言を浴びせかけてやればいい、それくらいの権利くらいならお前にもある、それがお前の威厳である、とここで彼は端的に卑屈を背負い込むのである。それをしなければ済む心が、一層それをすることによって逆に自分の将来のなさを自分の内部で露呈するからである。それでも卑屈を背負い込むことの方がやはり彼にとっては楽なのである。だからいつの間にか習慣化するのだ。やめておけばよいものを説明だけでは不毛である生理的直観が「そっちの方が楽だ」とそう言うのである。
実はこれらのマイナスの感情も、赤いバラを見て感動するクオリア的な感受とそう変わらないものなのだ。何故ならそれらは一括して説明し得ないものであるからだ。説明が不毛であるということに関しては「じれったい」とか「まどろっこしい」とか「もどかしい」とか「うんざりだ」とかもそうである。それらは説明原理を常に跳ね除ける。
しかしそれらだけでも持続し得ない。私たちはそれらの感情を暫く抱くと痛烈に心が消耗するのを感じる。そこで歯切れがよい説明原理を求める。いらいらした時案外数学の問題を解くと心がすっきりすることがある。
勿論黄色いヒマワリを見て綺麗だと感じる心は説明し得ないけれども、自分の中の他者ではないだろう。卑屈や怠惰や横柄とは端的に私が示した定義からすれば確かに自分の中の他者である。しかし色彩的なクオリアや食べ物に感じる味覚のクオリアといったものたちは、自分の中の幸福の他者かも知れない。しかし意外とそれらが「まずい」とか「汚い」という感受と隣り合わせであることも事実である。大らかであり、前向きであり、豪放磊落であるということと、卑屈であり偏狭であることなどは隣り合っている。
これはどうしてなのだろう?
つまりこう考えればよい。私たちはあまりにも言葉を絶することとは、感動においてもそうだし、不愉快であることにおいてもそうである。しかし感動は何とか言葉に言い表そうとするが、不愉快は出来る限り早く忘れたいと願う。そこには自分の中の他者が「早くもっとお前にとっての快を取り戻せ」と囁くからだ。しかし前者の感動はそれを言葉の美に置換することに価値があるように思う。その時私たちは幾分言葉を美化している。そして自己の中の他者とは端的に知性的な我である。そして自分の中の他者は自我的な我であるから、出来る限り自己防衛に余念が無いので楽をしようとする。この二つは常に隣接しているからこそ、バランスが取れていくのである。だからこそ逆にどんなに和やかな雰囲気でも一瞬にして崩れるということもあり得るわけだ。
私は取り敢えず自己と言う時物差し的基準や規範意識を持つ知性的なものと考え、逆に自分と言う時感情的な流れに自然であるようなものを考えることにしたい。
Sunday, June 6, 2010
<感情と意味>第三章 第七節 意味と記憶
意識は通常哲学や脳科学では人間だけしか持っていないと捉えられている。それは意識が何かについて考えたり、意図したり、志向したりしているだけではなく人間がそれをしているのが「私」であるという風に自分自身を自己対象化し得ていると捉えるからである。我々はこのことを通常メタ認知と呼んでいる。しかし意識至上主義的な捉え方に陥りやすいのもまた人間である。
私たちは誰かから肩や肘を後ろからそっと叩かれたなら一々その誰かからの行為の意味を考える暇もなく振り返るだろう。この時意図的にそうしているのではなく意識的にそうしているのでもない。しかしそうされた一瞬後、私の肩を叩いたのが友人であったなら、その友人による私への行為を即刻意味づけしようとするだろう。つまり肩に触れられて振り返る行動を誘引するのは学習記憶的なもの、あるいは経験的記憶による。つまり身体記憶とか、習慣的所作の記憶による。ここで意味に対して経験と記憶と習慣という事柄が大きく関わっていることが分かる。意味自体は反省的意識の下で理解され得るが、即刻何かを判断したり、身体的所作に移行したり出来るのは明らかに経験的記憶が大きく介入しているし、また意味記憶的な面でも所作自体を容易に行動せしめるように動員されている可能性が大きい。つまり身体的所作や表情、仕草といったもの全部が一定の意味連関に組み込まれていて、それが条件反射的な身体記憶と結びついていてある行動へと移行させるのだ、と言い得るのであろう。
つまり意味とはその都度理解されたり、記憶されたり、解釈されたり、把握されたりしながら、同時に記憶において収納されている意味が引き出されてもいるのだ。
意識というものに対するこの種の人間の固有性というものの見方は、ある部分では人間存在に対する特化という逃れようもないメタ知性レヴェルに対する踏み絵的認識になっている。つまり人間を動物と同じであると捉えることが、「敢えてそう捉える」という風に理解することなくして、本当に心底そう思っているのなら、そういうタイプの成員は人間社会の惨敗者であると見做す不文律である。私の父はこんな俳句を残している。「貧しきオーバ最も鳩を集めいる」
ここに本当は全く尊敬もしていないのに、相手があまり知的レヴェルも優れていず、しかしあまり幸福そうではないと思える老人を相手にかつての栄光に対する思い出だけに浸っていることを気の毒に思って接する働き盛りの中年男性がいるとしよう。彼は彼が憐れに思う老人に対して敬意を示す態度を相手に対して気の毒に思うので常に示しているので、相手の老人はその配慮に対して気づきもせずに、本当に自分を尊敬してくれていると勘違いして、段々中年男性に対して横暴な態度に出るとしよう。すると相手に対する憐憫から尊重した態度で接しているのに、そのことに甘えて親しき仲にも礼儀ありの謂いをすっかり忘れた老人は、その自分への老人からの態度が苦痛になって段々自分から遠のいていく中年男性に対してあろうことか懐かしさを抱くようになる。しかしその懐かしさは本当に自分から努力して勝ち得た相手からの尊敬心ではないということを気づいていないだけその老人は益々中年男性から見れば憐憫の対象になる。憐憫自体は知的レヴェルの水準が高い人からすればニーチェの考えではないが、忌避すべき感情なのだ。しかしこの老人はそれに気づかない。だがこの老人が働き盛りの中年男性に対して横暴であるのは、どこかで自分から彼への嫉妬感情があることを薄々知っていながらも、彼は寧ろ自分はそれだけ長く生きて来たのだからそれくらいする権利があると思い込んでしまう。あるいは思い込もうとする(その二つに境界はない)。
つまり自分で自分がしたことに気づいていないということに最大の不幸があるのである。自分が周囲から愛されていないのに愛されていると勘違いすることくらい不幸なことはない。それを不幸と言うのなら、命を狙われる殺し屋や、ギャングのボス、あるいは借金取りから逃れ夜逃げをする家族でさえそんなに不幸ではない。何故ならそれだけ必死に苦境からその場凌ぎに逃れようとし、辛い状況を忌避しようと必死になって脳を回転させているからである。つまり自分が相手に知らず知らずの内に傷づけていることに気づかないという本質的な差別の起源に対して無頓着であることこそが最大の無知であり、この最大の無知に対して反省することさえなく、それどころか差別してきた相手を懐かしむということこそ人間最大の罪である。そしてその罪に対して無知であることこそが最大の不幸であり、自分が不幸であるとに気づかないことこそが最大の不幸であることの理由である。だから逆に自分の苦境や孤独に対して自覚的であるということはこの不幸に比べれば然程不幸ではないとさえ言えるのである。
つまりだからこそどんなに愛しているペットに対しても、そこに人間と同等の魂を認めようとすることにあまり躍起になっていると、惨敗者であり、要するに今挙げた例の老人のような憐憫の対象と化してしまうのである。それが特に欧米社会の不文律であると言ってよい。ノブレス・オブリッジ的な冷たさがそこにはあると私たち日本人には思えてしまう。
日本人はそこを曖昧化するところがある。要するに結論を保留しようとするのである。しかしその実本当は人間が動物と同等であるとも思っていない。端的にそう断言すると動物が可愛そうであるとそう思うのである。しかしこれは欧米社会的倫理からすれば気休めでしかなく責任を見ようとしない安っぽい感傷であると見做される。それは動物愛護の精神とは本質的に違うものなのだ。
かつて支配階級と呼ばれた歴史上での豪傑たちや、革命を起こして支配を獲得しようと躍起になっていた人たちに共通する性質とは、支配そのものが土着に根差していたということである。つまり土地を巡る覇権や領有権とは端的に所有を正当化するために必要な土着を価値とした支配に対する美徳という観念がある。つまり支配者は被支配者から恐れられるだけでは不十分なのである。支配者は被支配者から適度には恐れられる必要が確かにあるが、それ以上に羨望の目で見られる必要があるのである。そしてある土地を巡ってその土地に対する領有権があるという事実自体が被領有者によって羨望の眼差しで見られる、つまり価値的に容認されることによって初めて支配は構造的に確立するのだ。もし土地を支配する者がいたとしてもその事実に価値的に何ら羨望を抱かない人しか周囲にいなければ支配は成立しない。
あるいは支配者は被支配者から憧れられることによって初めて支配する者の特権を精神的に享受することが出来る。物質的、物理的に支配するだけでは不十分なのである。支配権力とは端的に精神的に被支配階級から尊崇の対象となる必要があるし、偶像的に憧憬の対象とならなければならないのである。このことは現代社会においても全く変わらない。
マルキシズムにおいて疎外ということや剰余ということが言われるのは、端的にこの被支配者自身が支配自体を価値として捉えることを自然なものとして受容させることと、彼等から眼差される愛着を獲得することそのものの喪失と、喪失後の新しい付加価値を必要としていくプロセスにおいてである。つまり土着であることに対する執心自体に対する憐憫がグローバリズムを正当化する論理にはある。これは土着的支配、つまりナショナリティーや民族性、自民族中心主義からすれば新しい偶像である。しかし私がここで言っている偶像とは決してグローバリズムを否定するニュアンスからのものではない。それどころかこれからの世界は益々グローバリズムに推進していく必要があると考えるのだ。だから逆に土地への愛着という土着主義的支配とは端的に常に偶像崇拝的な盲腸として部分的なものに留まり続けるであろう。つまり実体としては経済に関しても、政治に関してもドメスティックな愛着とは日本人が密かに満州国に対して郷愁を抱くような意味でのノスタルジーに留まるだろう。しかしそれは労働意欲とか生産的な起爆剤としては今後も大きな存在であり続けるだろう。つまりオリンピックやWBCで自国の選手を応援するような意味でである。
だからここで偶像には二種類あると言っておかなければならない。つまり本質的な偶像、つまり絶対的に私自身の能力から自由であるということ、絶対的にその領域は自分の手に余ること(つまり責任を取れないということ)、つまりそれがあることは知っているが、その内実を知るにはあまりにも自己の卑小さを知る以外ないということにおいて立ち上がる他者としての偶像と、そうではなくあまり本質的でも重要で不可欠でもないけれど、それがないと寂しいと思えるから、ないよりはやはり絶対にあった方がいいようなタイプの他者、つまり先ほどの働き盛りの中年男性から憐憫をかけられる過去の栄光の余韻に浸るだけの老人にとって自分に対して敬意を示してくれるから態のよい気休め的な意味で自分より若い中年男性をペット化していることに満喫出来る、自分はその者を嘲笑の対象であると思えるけれど、そう思う相手からはその実憐憫をかけられていてそのことに気づきもしない(と言うことは嘲笑の対象ともなっている)老人にとっての中年男性の存在理由のようなものである。
勿論それほどネガティヴな意味でだけ気休め的なことがあり得るわけではない。当然選好性ということは常に権利上なくてはならない。人生はそれ自体楽しくなければ意味がないとも言えるからだ。理念だけで人生を生きることは出来ない。
しかしそのことが逆に理念型とマックス・ヴェーバーが呼んだ生き方が存在し得る理由でもある。何故そういう生き方が存在し得るか?
答えは簡単である。私たちは案外この権利上での選好性と例の老人の二度童的な我儘との間の区別がなかなか自分ではつかないからなのである。またそれは老人に対して言えるだけではなく権力者に対してもそうなのである。権力者とは誰も彼に提言したり、批判したりすることが出来ないということが、同一の権力中枢においては命令系統上発生してしまうからだ。権力者に対する批判とは端的に権力を保持していない成員からのみ成立するのだ。そこにも無知であることの能力が発揮されている。憐れな老人に屈託がないのは、端的に自己対象化することに対して老化しているからである。だからそれを二度童と呼ぶのである。だから権力の全くない人が権力者を攻撃したり批判したりすることはある意味では微笑ましいとされることにおいて既に無知であることと、自己の不幸を不幸であると思わないということにおいて憐憫の対象となるべき資格があるのだ。これらも全て意味と記憶のなせる技である。
何故なら権力に対する記憶のない者は、権力を保持したことのある者に固有の他者に対する思い遣りが皆無だからである。端的に子供には思い遣りなどない。つまり権力のない者にとって権力を保持したことの意味を理解することが出来ず、真理的なことしか思い浮かばないのだ。真理とか原理とは少なくとも人間社会では「そうはいかないことが多い」からこそ真理であり原理なのであり、意味的に他者に対して思い遣りが持てるということは、他者が立たされている立場や事情を記憶として呼び覚まさせることが自己内で出来るということを意味しているからである。
だからこそ一度は敗者を経験することも必要だし、一度は権力を持ち勝者になることも必要なのである。勝者しか経験していなかったり、敗者しか経験していなかったりするということは意味と記憶が繋がらず、意味は記憶のない状態でただ観念的な判断にしか終始しないままでいるということを意味するのだ。
意味が観念的な判断で終始するということは認知レヴェルで意味を判断しているからだ。意味は本来情動的に理解する段になって初めて意味の持つ真理、それは先ほどのように否定的な意味ではなく実利的にも、価値的にも全てに適用し得るイデアとしてだが、その真理を持つのだ。よく言う骨身に沁みてそう思ったとはそういうことだ。
過去は確かに変わらない。ある時点での過去の出来事はどんなに時間がたってもそれ自体は変わらないとそう人は言う。しかし私たち自身が変わっているのだから、変わるこちら側に合わせて向こう側も変わらないのであれば、変わらないあの時の出来事は時間が経つに連れ、変わっていく筈である。しかしにもかかわらず変わらないように思えるのは、そういう風に変わらないように思おうと常に我々が過去に対して身構えているからである。
過去に対して身構える必要があるのは、実は常に変わりつつあり、一時も同じ自分ではいないということを忘れたいがために我々は「変わらない自分」を想定しつつ、その想定の中で「変わらない過去」を捏造し続けているからである。だから二十年経っても色褪せないとか、これから何十年経っても恐らくそれは変わらないなどと言うのである。
では「変わらない自分」とは一体何か?それは自己同一性に当て嵌めて、刻々と変わりつつある自分を「変わらない自分」に仕立て上げることを怠らない想定である。それを私は社会性として考えている。つまり自己を同一のものとして対他的に身構えているということ、つまり「いつも変わりない彼(女)」というポーズである。そのポーズは自分の内奥にある考えとか、自分の潜在意識という奴自体が既に他者や社会的掟からの規制という呪縛に随順しているということを意味している。
つまり記憶は過去の変わりなさを「変わらない自分」という想定の視界からしか見ないようにする。記憶自体が常に皮が剥けるように更新されているのだ。それが過去の意味の一元化、つまり過去を一切変わらないものとして扱う一つの大きな記憶の作為、つまり記憶の意味化である。記憶の意味化とは外部からの強制に対する何らかの屈服である。つまり変わらなさを保持していなければ社会的体裁が悪いと無意識に感じ取ってしまっているのである。
それは過去というものが他者に対して、とりわけ歴史的人物などに対してフィクションの世界では「そうであったかも知れない」という死者の無言を利用した捏造が容易なように責任転嫁的な偶像としていることと関係がある。自分だけが何よりも誰よりも責任を負わなくてはならないということを誰でもよく知っている。だからこそ責任の呪縛から一時でも意識上で逃れようと責任のオブセッションに対して過去とか過去の人物の行動ということに対して想定すること、つまり過去を記述対象とすることによって、現在、あるいは現在ここにいる自分に対する記述をしないように、少なくとも「現在自分」を記述する重苦しさから逃れようと無意識に画策しているのである。
それは何故か?
答えは簡単である。我々はいつか死ぬことを知っているし、それは刻々近づいているからである。死が徐々に遠のくような成員はこの世界には一人もいない。
過去は少なくとも自分にとっては記憶の中にしかいない。だからこそ記述するのにはうってつけの素材である。しかし記述とは常に現在においてするべきものである。今日は明日のためにあると考えることをするべきだ。しかし脳科学で判明する脳の作用において未来に対する思念が過去に対する思念に近いような意味で、過去を記述することで未来に役立てようとするのも人間の通常の心理である。
私たちは過去だけは記憶と意味が一致しているように思えるのだ。しかし本当は違う。記憶と意味は常に一致していない。記憶したことの中から都合のよいものをピックアップしなければ意味は捻出され得ないからだ。そして記憶と意味が何よりも一致しないのは現在である。それはそうである。何故なら現在とは未だ過去ではないから、記憶の上での意味が貼り付けられないままであるからである。そして記憶の上での意味と全く一致しない現在はそれが過去になっていった時初めて意味を付与され、記述対象と化すわけだ。
しかし未来だけが、今現在存在し得ないからこそ、ある意味では記憶と意味が一致しているのかも知れない。何故なら未だないということは常にどの過去においても現在においても同じであったからだ。
しかし一年前の未来とはその一年後の現実がそっくり抜け落ちている。だから一年後になった今になってみれば一年前の未来とは一年間だけは確定的であった筈だと言いたくなるが、そうでなないだろう。その時は私たちにとって一年後がどうなるか知れたものではなかったのだ。その知れたものではないということこそがその一年間私たちが意志を持って生きてきたということの証拠である。どんな自由であれ、過ぎ去ってしまえばそれは自由ではなくなる。過去は変えられないからである。一年間私は必死に生きてきた。しかしその時の感じた達成感や自由は、今となっては過去における記述対象であり、評価対象でしかない。しかし「今のようではなかったかも知れない現在」を常に私は想定することが出来る。その今のようではなかったという想定こそが、希望・願望・目的・意図を作ると言ってもよい。
私たちは誰かから肩や肘を後ろからそっと叩かれたなら一々その誰かからの行為の意味を考える暇もなく振り返るだろう。この時意図的にそうしているのではなく意識的にそうしているのでもない。しかしそうされた一瞬後、私の肩を叩いたのが友人であったなら、その友人による私への行為を即刻意味づけしようとするだろう。つまり肩に触れられて振り返る行動を誘引するのは学習記憶的なもの、あるいは経験的記憶による。つまり身体記憶とか、習慣的所作の記憶による。ここで意味に対して経験と記憶と習慣という事柄が大きく関わっていることが分かる。意味自体は反省的意識の下で理解され得るが、即刻何かを判断したり、身体的所作に移行したり出来るのは明らかに経験的記憶が大きく介入しているし、また意味記憶的な面でも所作自体を容易に行動せしめるように動員されている可能性が大きい。つまり身体的所作や表情、仕草といったもの全部が一定の意味連関に組み込まれていて、それが条件反射的な身体記憶と結びついていてある行動へと移行させるのだ、と言い得るのであろう。
つまり意味とはその都度理解されたり、記憶されたり、解釈されたり、把握されたりしながら、同時に記憶において収納されている意味が引き出されてもいるのだ。
意識というものに対するこの種の人間の固有性というものの見方は、ある部分では人間存在に対する特化という逃れようもないメタ知性レヴェルに対する踏み絵的認識になっている。つまり人間を動物と同じであると捉えることが、「敢えてそう捉える」という風に理解することなくして、本当に心底そう思っているのなら、そういうタイプの成員は人間社会の惨敗者であると見做す不文律である。私の父はこんな俳句を残している。「貧しきオーバ最も鳩を集めいる」
ここに本当は全く尊敬もしていないのに、相手があまり知的レヴェルも優れていず、しかしあまり幸福そうではないと思える老人を相手にかつての栄光に対する思い出だけに浸っていることを気の毒に思って接する働き盛りの中年男性がいるとしよう。彼は彼が憐れに思う老人に対して敬意を示す態度を相手に対して気の毒に思うので常に示しているので、相手の老人はその配慮に対して気づきもせずに、本当に自分を尊敬してくれていると勘違いして、段々中年男性に対して横暴な態度に出るとしよう。すると相手に対する憐憫から尊重した態度で接しているのに、そのことに甘えて親しき仲にも礼儀ありの謂いをすっかり忘れた老人は、その自分への老人からの態度が苦痛になって段々自分から遠のいていく中年男性に対してあろうことか懐かしさを抱くようになる。しかしその懐かしさは本当に自分から努力して勝ち得た相手からの尊敬心ではないということを気づいていないだけその老人は益々中年男性から見れば憐憫の対象になる。憐憫自体は知的レヴェルの水準が高い人からすればニーチェの考えではないが、忌避すべき感情なのだ。しかしこの老人はそれに気づかない。だがこの老人が働き盛りの中年男性に対して横暴であるのは、どこかで自分から彼への嫉妬感情があることを薄々知っていながらも、彼は寧ろ自分はそれだけ長く生きて来たのだからそれくらいする権利があると思い込んでしまう。あるいは思い込もうとする(その二つに境界はない)。
つまり自分で自分がしたことに気づいていないということに最大の不幸があるのである。自分が周囲から愛されていないのに愛されていると勘違いすることくらい不幸なことはない。それを不幸と言うのなら、命を狙われる殺し屋や、ギャングのボス、あるいは借金取りから逃れ夜逃げをする家族でさえそんなに不幸ではない。何故ならそれだけ必死に苦境からその場凌ぎに逃れようとし、辛い状況を忌避しようと必死になって脳を回転させているからである。つまり自分が相手に知らず知らずの内に傷づけていることに気づかないという本質的な差別の起源に対して無頓着であることこそが最大の無知であり、この最大の無知に対して反省することさえなく、それどころか差別してきた相手を懐かしむということこそ人間最大の罪である。そしてその罪に対して無知であることこそが最大の不幸であり、自分が不幸であるとに気づかないことこそが最大の不幸であることの理由である。だから逆に自分の苦境や孤独に対して自覚的であるということはこの不幸に比べれば然程不幸ではないとさえ言えるのである。
つまりだからこそどんなに愛しているペットに対しても、そこに人間と同等の魂を認めようとすることにあまり躍起になっていると、惨敗者であり、要するに今挙げた例の老人のような憐憫の対象と化してしまうのである。それが特に欧米社会の不文律であると言ってよい。ノブレス・オブリッジ的な冷たさがそこにはあると私たち日本人には思えてしまう。
日本人はそこを曖昧化するところがある。要するに結論を保留しようとするのである。しかしその実本当は人間が動物と同等であるとも思っていない。端的にそう断言すると動物が可愛そうであるとそう思うのである。しかしこれは欧米社会的倫理からすれば気休めでしかなく責任を見ようとしない安っぽい感傷であると見做される。それは動物愛護の精神とは本質的に違うものなのだ。
かつて支配階級と呼ばれた歴史上での豪傑たちや、革命を起こして支配を獲得しようと躍起になっていた人たちに共通する性質とは、支配そのものが土着に根差していたということである。つまり土地を巡る覇権や領有権とは端的に所有を正当化するために必要な土着を価値とした支配に対する美徳という観念がある。つまり支配者は被支配者から恐れられるだけでは不十分なのである。支配者は被支配者から適度には恐れられる必要が確かにあるが、それ以上に羨望の目で見られる必要があるのである。そしてある土地を巡ってその土地に対する領有権があるという事実自体が被領有者によって羨望の眼差しで見られる、つまり価値的に容認されることによって初めて支配は構造的に確立するのだ。もし土地を支配する者がいたとしてもその事実に価値的に何ら羨望を抱かない人しか周囲にいなければ支配は成立しない。
あるいは支配者は被支配者から憧れられることによって初めて支配する者の特権を精神的に享受することが出来る。物質的、物理的に支配するだけでは不十分なのである。支配権力とは端的に精神的に被支配階級から尊崇の対象となる必要があるし、偶像的に憧憬の対象とならなければならないのである。このことは現代社会においても全く変わらない。
マルキシズムにおいて疎外ということや剰余ということが言われるのは、端的にこの被支配者自身が支配自体を価値として捉えることを自然なものとして受容させることと、彼等から眼差される愛着を獲得することそのものの喪失と、喪失後の新しい付加価値を必要としていくプロセスにおいてである。つまり土着であることに対する執心自体に対する憐憫がグローバリズムを正当化する論理にはある。これは土着的支配、つまりナショナリティーや民族性、自民族中心主義からすれば新しい偶像である。しかし私がここで言っている偶像とは決してグローバリズムを否定するニュアンスからのものではない。それどころかこれからの世界は益々グローバリズムに推進していく必要があると考えるのだ。だから逆に土地への愛着という土着主義的支配とは端的に常に偶像崇拝的な盲腸として部分的なものに留まり続けるであろう。つまり実体としては経済に関しても、政治に関してもドメスティックな愛着とは日本人が密かに満州国に対して郷愁を抱くような意味でのノスタルジーに留まるだろう。しかしそれは労働意欲とか生産的な起爆剤としては今後も大きな存在であり続けるだろう。つまりオリンピックやWBCで自国の選手を応援するような意味でである。
だからここで偶像には二種類あると言っておかなければならない。つまり本質的な偶像、つまり絶対的に私自身の能力から自由であるということ、絶対的にその領域は自分の手に余ること(つまり責任を取れないということ)、つまりそれがあることは知っているが、その内実を知るにはあまりにも自己の卑小さを知る以外ないということにおいて立ち上がる他者としての偶像と、そうではなくあまり本質的でも重要で不可欠でもないけれど、それがないと寂しいと思えるから、ないよりはやはり絶対にあった方がいいようなタイプの他者、つまり先ほどの働き盛りの中年男性から憐憫をかけられる過去の栄光の余韻に浸るだけの老人にとって自分に対して敬意を示してくれるから態のよい気休め的な意味で自分より若い中年男性をペット化していることに満喫出来る、自分はその者を嘲笑の対象であると思えるけれど、そう思う相手からはその実憐憫をかけられていてそのことに気づきもしない(と言うことは嘲笑の対象ともなっている)老人にとっての中年男性の存在理由のようなものである。
勿論それほどネガティヴな意味でだけ気休め的なことがあり得るわけではない。当然選好性ということは常に権利上なくてはならない。人生はそれ自体楽しくなければ意味がないとも言えるからだ。理念だけで人生を生きることは出来ない。
しかしそのことが逆に理念型とマックス・ヴェーバーが呼んだ生き方が存在し得る理由でもある。何故そういう生き方が存在し得るか?
答えは簡単である。私たちは案外この権利上での選好性と例の老人の二度童的な我儘との間の区別がなかなか自分ではつかないからなのである。またそれは老人に対して言えるだけではなく権力者に対してもそうなのである。権力者とは誰も彼に提言したり、批判したりすることが出来ないということが、同一の権力中枢においては命令系統上発生してしまうからだ。権力者に対する批判とは端的に権力を保持していない成員からのみ成立するのだ。そこにも無知であることの能力が発揮されている。憐れな老人に屈託がないのは、端的に自己対象化することに対して老化しているからである。だからそれを二度童と呼ぶのである。だから権力の全くない人が権力者を攻撃したり批判したりすることはある意味では微笑ましいとされることにおいて既に無知であることと、自己の不幸を不幸であると思わないということにおいて憐憫の対象となるべき資格があるのだ。これらも全て意味と記憶のなせる技である。
何故なら権力に対する記憶のない者は、権力を保持したことのある者に固有の他者に対する思い遣りが皆無だからである。端的に子供には思い遣りなどない。つまり権力のない者にとって権力を保持したことの意味を理解することが出来ず、真理的なことしか思い浮かばないのだ。真理とか原理とは少なくとも人間社会では「そうはいかないことが多い」からこそ真理であり原理なのであり、意味的に他者に対して思い遣りが持てるということは、他者が立たされている立場や事情を記憶として呼び覚まさせることが自己内で出来るということを意味しているからである。
だからこそ一度は敗者を経験することも必要だし、一度は権力を持ち勝者になることも必要なのである。勝者しか経験していなかったり、敗者しか経験していなかったりするということは意味と記憶が繋がらず、意味は記憶のない状態でただ観念的な判断にしか終始しないままでいるということを意味するのだ。
意味が観念的な判断で終始するということは認知レヴェルで意味を判断しているからだ。意味は本来情動的に理解する段になって初めて意味の持つ真理、それは先ほどのように否定的な意味ではなく実利的にも、価値的にも全てに適用し得るイデアとしてだが、その真理を持つのだ。よく言う骨身に沁みてそう思ったとはそういうことだ。
過去は確かに変わらない。ある時点での過去の出来事はどんなに時間がたってもそれ自体は変わらないとそう人は言う。しかし私たち自身が変わっているのだから、変わるこちら側に合わせて向こう側も変わらないのであれば、変わらないあの時の出来事は時間が経つに連れ、変わっていく筈である。しかしにもかかわらず変わらないように思えるのは、そういう風に変わらないように思おうと常に我々が過去に対して身構えているからである。
過去に対して身構える必要があるのは、実は常に変わりつつあり、一時も同じ自分ではいないということを忘れたいがために我々は「変わらない自分」を想定しつつ、その想定の中で「変わらない過去」を捏造し続けているからである。だから二十年経っても色褪せないとか、これから何十年経っても恐らくそれは変わらないなどと言うのである。
では「変わらない自分」とは一体何か?それは自己同一性に当て嵌めて、刻々と変わりつつある自分を「変わらない自分」に仕立て上げることを怠らない想定である。それを私は社会性として考えている。つまり自己を同一のものとして対他的に身構えているということ、つまり「いつも変わりない彼(女)」というポーズである。そのポーズは自分の内奥にある考えとか、自分の潜在意識という奴自体が既に他者や社会的掟からの規制という呪縛に随順しているということを意味している。
つまり記憶は過去の変わりなさを「変わらない自分」という想定の視界からしか見ないようにする。記憶自体が常に皮が剥けるように更新されているのだ。それが過去の意味の一元化、つまり過去を一切変わらないものとして扱う一つの大きな記憶の作為、つまり記憶の意味化である。記憶の意味化とは外部からの強制に対する何らかの屈服である。つまり変わらなさを保持していなければ社会的体裁が悪いと無意識に感じ取ってしまっているのである。
それは過去というものが他者に対して、とりわけ歴史的人物などに対してフィクションの世界では「そうであったかも知れない」という死者の無言を利用した捏造が容易なように責任転嫁的な偶像としていることと関係がある。自分だけが何よりも誰よりも責任を負わなくてはならないということを誰でもよく知っている。だからこそ責任の呪縛から一時でも意識上で逃れようと責任のオブセッションに対して過去とか過去の人物の行動ということに対して想定すること、つまり過去を記述対象とすることによって、現在、あるいは現在ここにいる自分に対する記述をしないように、少なくとも「現在自分」を記述する重苦しさから逃れようと無意識に画策しているのである。
それは何故か?
答えは簡単である。我々はいつか死ぬことを知っているし、それは刻々近づいているからである。死が徐々に遠のくような成員はこの世界には一人もいない。
過去は少なくとも自分にとっては記憶の中にしかいない。だからこそ記述するのにはうってつけの素材である。しかし記述とは常に現在においてするべきものである。今日は明日のためにあると考えることをするべきだ。しかし脳科学で判明する脳の作用において未来に対する思念が過去に対する思念に近いような意味で、過去を記述することで未来に役立てようとするのも人間の通常の心理である。
私たちは過去だけは記憶と意味が一致しているように思えるのだ。しかし本当は違う。記憶と意味は常に一致していない。記憶したことの中から都合のよいものをピックアップしなければ意味は捻出され得ないからだ。そして記憶と意味が何よりも一致しないのは現在である。それはそうである。何故なら現在とは未だ過去ではないから、記憶の上での意味が貼り付けられないままであるからである。そして記憶の上での意味と全く一致しない現在はそれが過去になっていった時初めて意味を付与され、記述対象と化すわけだ。
しかし未来だけが、今現在存在し得ないからこそ、ある意味では記憶と意味が一致しているのかも知れない。何故なら未だないということは常にどの過去においても現在においても同じであったからだ。
しかし一年前の未来とはその一年後の現実がそっくり抜け落ちている。だから一年後になった今になってみれば一年前の未来とは一年間だけは確定的であった筈だと言いたくなるが、そうでなないだろう。その時は私たちにとって一年後がどうなるか知れたものではなかったのだ。その知れたものではないということこそがその一年間私たちが意志を持って生きてきたということの証拠である。どんな自由であれ、過ぎ去ってしまえばそれは自由ではなくなる。過去は変えられないからである。一年間私は必死に生きてきた。しかしその時の感じた達成感や自由は、今となっては過去における記述対象であり、評価対象でしかない。しかし「今のようではなかったかも知れない現在」を常に私は想定することが出来る。その今のようではなかったという想定こそが、希望・願望・目的・意図を作ると言ってもよい。
Thursday, June 3, 2010
<感情と意味>第三章 第六節 他者・偶像と責任
私たちは他者に取り囲まれている。私とあなたがいれば、私とあなたにとってそれ以外の他者は、特定の個人を指示しない限り,他者一般、他者全般となり、それは茫漠とした存在なので、必然的に偶像化し得る。しかし一方あなたもまた私にとっては私にとっての知人で友人である谷口一平は確かに私が氏の才能をよく知る者であり、素晴らしい短歌を作り、小説も書く。そして何より哲学を深く理解している。しかし私は氏の母方を存じ上げないし、氏を知った時氏は既に大人だったので、子供時代も知らない。そういう意味では私は私が知る範囲内で氏の存在に対して責任を負えるが、全部に対してではない。つまりどのように親しい他者、たとえ肉親であれ全てに対して了解という意味では責任を負えないのである。社会的に例えば私が私の息子に対して責任を持つと言っても、それは私によるパフォマティヴなだけであり、全的に責任を負うことは事実上不可能なのである。
私は一応知っているが、よくは知らないことを多く持つし、それ以外にもないかも知れないけれど、あるかも知れないとどうしても思えることをも多く持つ。それはあるかないか未だ確認出来ていないものである。またあると知っているけれど見たことのない多くのものを持つ。それら一切は端的に想像するしかないから、必然的に偶像と言ってよい。
つまり私が谷口氏への返信で述べたように私はほんの微々たる私が知り且つ責任を負えること以外は、残り全部、そしてそちらの方が私をも部分とする「世界」においては大半であるが、私にとっては殆ど無意味なものである偶像に取り囲まれている。私はそれらのほんの一部を残りの私の人生において知り得るし、知りたいと願うし、馴染みたいし、慣れたいし、親しくなりたいと願う。それが私が願望を持ち、希望を持ち、好奇心を持ち、思考し、予想し、推察するということだ。つまり私はそれが正確にそうではないかも知れないが、概ねこういうものであろうという予想を持つことが出来る。それは予想し得るということにおいて親しみがあるものであるに違いない。
他者の心は如何に私にとって親友であれ、終ぞ正確には知り得ないが、私が別のそれほど親しくない他者から、彼(女)のことを尋ねられたのなら、「素晴らしい人です」とそう返答するであろうという意味では、私が彼(女)に関して知り得る範囲内で責任を持つことが出来るが、私は彼らが半年後までの間に一切風邪を引かないとまでは責任を負えない。その意味では全ての他者は私にとって限定的に偶像である。つまり親しさの度合いに応じて実像の度合いが増すというだけのことである。しかしここが重要であるが私が認める存在は、少なくとも私の内的世界においては虚像ではない。勿論百メートル先のホームの端に私は幻影的な他者であるかのような虚像を見ることというのはあり得るので、確かに百パーセントではないだろう。しかし私はそれでもそこに他者がいると確認し得るという意味ではそれらは一切虚像ではない。ただ完全にその他者の内実を知らない以上やはり彼もまた偶像の一部でもある。つまり存在し得るという意味では実像であるが、存在の意味を知らないという意味では偶像である。
少し話しを脱線指せて、しかし同時に何らかの偶像としての他者、他者に対しての偶像とは何かを考える契機としよう。
アートとデザインの関係は常に微妙なものであった。確かに19世紀までは多くがデザインはアートの反逆精神に対して、一定の商業資本主義のルールに則ったものだった。装丁しかり、服飾しかり、プロダクト然りである。しかし20世紀中盤(尤もその萌芽は例えばバウハウスやアール・ヌーボーやアール・デコにあったのだが)になって様相は一変する。要するにデザイン自体が主張するようになっていったのである。アートは一方で額縁などの登場によって印象派以降確実にサロンを獲得し、一般市民によっても絵画が購入出来るようになっていった。そのことを助長したのがアート・ディーラー(画商)たちである。そしてブルジョア絵画が定着していったが、他方アートには常に反逆者の精神で闊歩する一群のアーティストたちがいたので、そのムーヴメントが例えば表現主義とか象徴主義とかフォービズムとかキュービズムといったスタイル上、表現理念上の革新的なトライアルが続き、後にダダイスムやシュールレリスム、そして戦後抽象表現主義やポップアートやミニマルアート、コンセプチュアルアートといった潮流が席巻した。しかしその際に起爆剤になったものの多くは商業デザインの領域での様式等だった。勿論そこにはバウハウスやアール・ヌーボーやアール・デコといった様式が先鞭をつけたという側面も忘れてはならないが、要するに大衆のニーズに沿ったモード自体がアートに反映し始めたのだ。そしてデザイナーとアーティストの境界も曖昧化していき、アート然としたものの方がニッチマーケットに堕して行った。つまり大衆にとって神秘化された偶像は最早デザインを反映したものの方であり、アート固有の一点性(作品が一作だけであるということ、つまり複製性がゼロということ)が障害となって立ちはだかるのである。
つまりアートにとって隣人であり他者であったデザインは既に19世紀後半には端的にアート自体に侵入してきて、次第に様式的な差異はどうでもよくなっていったし、事実デザイナーがアーティストと名乗ることの方が多くなっていった。つまり他者としてのデザインの偶像性はアートのドメインでは既に無価値なものとなっていったのである。そしてそれと同時に大衆にとっては寧ろデザイン的な発想やモードの方がずっと偶像化された、要するにその正体がよく知られないがために好奇をそそるものとなっていったのである。その内実を知っていたのはプロフェッショナルなアーティストやデザイナーたちだけだったというわけだ。寧ろ彼等にとっては大衆のニーズの方が偶像であったことだろう。常に生き馬の目を抜くような過当競争という現実に遂にアーティストたちさえ晒されたのだ。
要するにアートにとっての他者内偶像性が実像に取って代わり、そのトレードオフとして大衆の欲求はかつて印象派の画家たちに対して抱いた憧れを、寧ろナビ派とかエコール・ド・パリといった一群の人たちはアーティストとして積極的にデザインにかかわったが、彼等に注いだ。ロートレック(彼は世代的には後期印象派くらいであるが)、ミュシャ、ビアズリー、シャガール、フジタといった人たちがそうである。ムンクやピカソも積極的にデザインに関わっているし、デザイナー出身のアーティストとしては戦後世代ではアンディー・ウォーホールやロイ・リキテンシュタイン等が代表である。三宅一生は「20世紀は紛れもなくデザインの時代だった」とかつてアート紹介番組で述べていた。
ここにはアートがかつて宮廷お抱え画家たちが跋扈した時代に、彼等の生活自体が宮廷から宮廷への放浪であったことから、風景画などを描き始め、次第に宮廷から遠ざかっていったことの内にあるアーティストの内部のアンチ・ヒーロー志向が次第に今度は商業資本主義自体のヒーロー志向に取り込まれていったということを示している。そして現代では寧ろアーティスト以上に評論家や文学者の方がよりアンチ・ヒーロー志向(アウトローといってもいいが)へ転換を余儀なくされている。
尤も本質的にヒーローに一切なる気のない非商業資本主義的アーティストも常に共存しているのだが。しかし私は一応それで生計を立てている人のことをアーティストと呼んでいるのだ。つまり生計を立てているということ自体も、ヒモとして文学者であると自称して生活している人のことも含むのかと問われれば返答に窮してしまうのだが、要するにプロフェッショナルと言えばよいだろうか?勿論セザンヌもゴッホもそういう意味ではプロフェッショナルではあったものの、生計を絵画で十分成立させていたかと言えば、セザンヌはかなり資産が予めあったからよかったし、ゴッホは弟テオからの援助があったからこそ絵画を続けていくことが出来たのであるが、それでも後世においては、他のその当時売れていたどの画家よりも歴史的に残っている。つまり趣味で絵を描いている人は仮にそういう仕方でアートに関わることが仮に自分では一番尊いと考えていたとしても、それをプロフェッショナルとは呼べないということである。
話を戻そう。私たちは他者に取り囲まれて生活している。しかし他者を他者として認識するためには予め確かに我々の中に他者を他者として意思疎通し合える相手であると認識する能力が備わっていなければならないだろう。つまりリゾラッティーらによるミラーニューロンの発見という事実からもよく理解出来るが、他者を他者として認識し得る能力こそが意味を発生させていると考えても間違いではないだろう。それに関して前節の付記において示した谷口氏との送受信の遣り取りの後で私は氏に追伸を補足的に送信したのでそれをそのまま掲載しておこう。
追伸
谷口一平さま
昨日送信した返信メール中において不分明な箇所があったので、追伸として示します。
>ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。
あなたのこの考えは、「意味を把握する能力」が先にあってそれが「あなた」を作り出すというのなら分かります。しかし意味それ自体はやはり関係認識や差異認識があって、然る後、個別のケースに対する判断で理解する、納得すると考えるのが私は自然であると考えます。私は関係(これが差異も理解させる)が先に悟性的に理解され、然る後その関係把握から意味理解に進むと考えます。しかしあなたの主張の通り、意味理解とか意味把握能力は予め備わっていなければ、関係から意味へと理解することは出来ませんね。
例えばペットの動物は犬とか猫とかそれぞれ固有の把握の傾向がありますが、飼い主の中で誰が一番偉いかということに対して判断が出来ます。私の家族が飼っていたある猫は私の母を一番偉いと思っていました。それは一つの意味理解です。しかし動物は言語がありませんから、意味を「意味」として理解すること、つまり概念的に把握することは出来ないということになります。しかし少なくとも彼等も関係を理解することは出来ますし、そこから意味を理解することも出来ます。しかし動物は言語を持ちませんから、意味といっても感情と不可分なものでしょう。つまり人間の場合意味は最初(理解レヴェル)では感情も同伴されますが、それを概念把握として感情から切り離すことも出来るというわけです。
>死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?
私がこう言った理由はこうです。つまり死者は確かにあなたの仰るように死者本人の側から言えば全ての他者からの責任転嫁を逃れます。しかし同時に「死人に口なし」ですから、知られざる過去を幾らでも他者の側から捏造され得ます。ですから歴史作家によって例えば織田信長も、豊臣秀吉も皆ある程度虚構的に捏造されていますよね。そういう意味では皆が過去とはそこに戻って確かめようがないので、勝手に自分の責任逃れのために死者に責任を押し付けることは可能です、そういう意味で言ったのです。
河口ミカル
谷口氏の主張する意味の二人称に対する優先は、私の解釈では意味把握ということの能力である。従って意味理解というものは意味把握能力という身体的能力、脳作用の付与によって得られる。それは形而下的解釈だが、それ以上それを形而上的に捉えたい誘惑を抑える必要があるように私には思われる。つまり自由意志とはでは一体というような論議は不毛である、と。何故なら私たちは既に脳科学とか自然科学認識自体も一つの選択肢として獲得しているのであり、私たちは私たち自身を生存機械であると捉えることをも自由意志の範疇で可能なのであり、それでは自由意志は成立しないという論議自体が、既に形而上的な優位を前提していると思われるからである。
最早形而上学的優位において自由意志優先であるとか、形而下的認識の肥大化というような論議は不毛であると私は考える。ある時には形而上的認識を優先する必要があるし、別の観点からはあくまで形而下的に認識する必要があると考える。
だからここで結論的に言うと、他者を他者として認識し得る能力は悟性的に差異を認識する能力とミラーニューロンによる作用の両方が同時に展開していると考えればよい。そしてそれは意味把握能力の発現である。しかし意味自体はやはり納得とか理解を通してでなければなされないので、他者を他者として把握しその存在理由を理解することを通して意味に到達するとしてよいのではないか?つまり私の言いたい意味とは、存在理由のことであり、その時々の状況把握と密接なものとしてなのである。意味体系とか意味連関ということにおいてであれば谷口氏の主張されるような<意味把握能力=二人称に対して先験>と考えればよいだろう。
ここで明確化しておく必要があるが、偶像と私が呼ぶものは、端的に想像することによってでっち上げるその像のことなのである。私たちの脳は理解出来ないことに直面すると、理解出来ることの仕方で何とか折り合いをつけようとするわけだから、どうしても知らないこととか親しくないことの内容も、そのままにはしておけず固有の像を作り出そうとするということである。つまり知っていることや親しみのあることを通してそうではない知らないことや親しみがないことに対してそれなりに理解しておこうとするということだ。だからそれは誤解や曲解の場合も往々にしてある。要するに脳は知らないことや親しみの持てないことをうっちゃっておくことがなかなか出来ないのだ。
そのことはカプグラ症候群においても立証済みである。彼等疾患者はある人の顔を自分の母親と知っていても、それは違う人が成り代わっているのではないかと考えてしまう(ものに対してもそう考えてしまう)。それは何らかの脳部位障害により、あるものを「そうだ」と認めることと、あるものを「それは本当だ」と認める情動的なことを繋げるパイプが欠落しているからではないかとも考えられている。
それは通常では情動を通して同一性を認知し得る(情動的な作用によって何かを信用することが出来る故)ことが障害されていると考えることが出来る。
だからそれと逆にそういう障害がないということは、よく知っていることや親しみのあるものに対して共感出来るということだから、必然的に親しみあるものを糧に親しみのないものを関連づけることによって理解したいという欲求がよく知らないことを想像することが可能となっているのかも知れない。
私は一応知っているが、よくは知らないことを多く持つし、それ以外にもないかも知れないけれど、あるかも知れないとどうしても思えることをも多く持つ。それはあるかないか未だ確認出来ていないものである。またあると知っているけれど見たことのない多くのものを持つ。それら一切は端的に想像するしかないから、必然的に偶像と言ってよい。
つまり私が谷口氏への返信で述べたように私はほんの微々たる私が知り且つ責任を負えること以外は、残り全部、そしてそちらの方が私をも部分とする「世界」においては大半であるが、私にとっては殆ど無意味なものである偶像に取り囲まれている。私はそれらのほんの一部を残りの私の人生において知り得るし、知りたいと願うし、馴染みたいし、慣れたいし、親しくなりたいと願う。それが私が願望を持ち、希望を持ち、好奇心を持ち、思考し、予想し、推察するということだ。つまり私はそれが正確にそうではないかも知れないが、概ねこういうものであろうという予想を持つことが出来る。それは予想し得るということにおいて親しみがあるものであるに違いない。
他者の心は如何に私にとって親友であれ、終ぞ正確には知り得ないが、私が別のそれほど親しくない他者から、彼(女)のことを尋ねられたのなら、「素晴らしい人です」とそう返答するであろうという意味では、私が彼(女)に関して知り得る範囲内で責任を持つことが出来るが、私は彼らが半年後までの間に一切風邪を引かないとまでは責任を負えない。その意味では全ての他者は私にとって限定的に偶像である。つまり親しさの度合いに応じて実像の度合いが増すというだけのことである。しかしここが重要であるが私が認める存在は、少なくとも私の内的世界においては虚像ではない。勿論百メートル先のホームの端に私は幻影的な他者であるかのような虚像を見ることというのはあり得るので、確かに百パーセントではないだろう。しかし私はそれでもそこに他者がいると確認し得るという意味ではそれらは一切虚像ではない。ただ完全にその他者の内実を知らない以上やはり彼もまた偶像の一部でもある。つまり存在し得るという意味では実像であるが、存在の意味を知らないという意味では偶像である。
少し話しを脱線指せて、しかし同時に何らかの偶像としての他者、他者に対しての偶像とは何かを考える契機としよう。
アートとデザインの関係は常に微妙なものであった。確かに19世紀までは多くがデザインはアートの反逆精神に対して、一定の商業資本主義のルールに則ったものだった。装丁しかり、服飾しかり、プロダクト然りである。しかし20世紀中盤(尤もその萌芽は例えばバウハウスやアール・ヌーボーやアール・デコにあったのだが)になって様相は一変する。要するにデザイン自体が主張するようになっていったのである。アートは一方で額縁などの登場によって印象派以降確実にサロンを獲得し、一般市民によっても絵画が購入出来るようになっていった。そのことを助長したのがアート・ディーラー(画商)たちである。そしてブルジョア絵画が定着していったが、他方アートには常に反逆者の精神で闊歩する一群のアーティストたちがいたので、そのムーヴメントが例えば表現主義とか象徴主義とかフォービズムとかキュービズムといったスタイル上、表現理念上の革新的なトライアルが続き、後にダダイスムやシュールレリスム、そして戦後抽象表現主義やポップアートやミニマルアート、コンセプチュアルアートといった潮流が席巻した。しかしその際に起爆剤になったものの多くは商業デザインの領域での様式等だった。勿論そこにはバウハウスやアール・ヌーボーやアール・デコといった様式が先鞭をつけたという側面も忘れてはならないが、要するに大衆のニーズに沿ったモード自体がアートに反映し始めたのだ。そしてデザイナーとアーティストの境界も曖昧化していき、アート然としたものの方がニッチマーケットに堕して行った。つまり大衆にとって神秘化された偶像は最早デザインを反映したものの方であり、アート固有の一点性(作品が一作だけであるということ、つまり複製性がゼロということ)が障害となって立ちはだかるのである。
つまりアートにとって隣人であり他者であったデザインは既に19世紀後半には端的にアート自体に侵入してきて、次第に様式的な差異はどうでもよくなっていったし、事実デザイナーがアーティストと名乗ることの方が多くなっていった。つまり他者としてのデザインの偶像性はアートのドメインでは既に無価値なものとなっていったのである。そしてそれと同時に大衆にとっては寧ろデザイン的な発想やモードの方がずっと偶像化された、要するにその正体がよく知られないがために好奇をそそるものとなっていったのである。その内実を知っていたのはプロフェッショナルなアーティストやデザイナーたちだけだったというわけだ。寧ろ彼等にとっては大衆のニーズの方が偶像であったことだろう。常に生き馬の目を抜くような過当競争という現実に遂にアーティストたちさえ晒されたのだ。
要するにアートにとっての他者内偶像性が実像に取って代わり、そのトレードオフとして大衆の欲求はかつて印象派の画家たちに対して抱いた憧れを、寧ろナビ派とかエコール・ド・パリといった一群の人たちはアーティストとして積極的にデザインにかかわったが、彼等に注いだ。ロートレック(彼は世代的には後期印象派くらいであるが)、ミュシャ、ビアズリー、シャガール、フジタといった人たちがそうである。ムンクやピカソも積極的にデザインに関わっているし、デザイナー出身のアーティストとしては戦後世代ではアンディー・ウォーホールやロイ・リキテンシュタイン等が代表である。三宅一生は「20世紀は紛れもなくデザインの時代だった」とかつてアート紹介番組で述べていた。
ここにはアートがかつて宮廷お抱え画家たちが跋扈した時代に、彼等の生活自体が宮廷から宮廷への放浪であったことから、風景画などを描き始め、次第に宮廷から遠ざかっていったことの内にあるアーティストの内部のアンチ・ヒーロー志向が次第に今度は商業資本主義自体のヒーロー志向に取り込まれていったということを示している。そして現代では寧ろアーティスト以上に評論家や文学者の方がよりアンチ・ヒーロー志向(アウトローといってもいいが)へ転換を余儀なくされている。
尤も本質的にヒーローに一切なる気のない非商業資本主義的アーティストも常に共存しているのだが。しかし私は一応それで生計を立てている人のことをアーティストと呼んでいるのだ。つまり生計を立てているということ自体も、ヒモとして文学者であると自称して生活している人のことも含むのかと問われれば返答に窮してしまうのだが、要するにプロフェッショナルと言えばよいだろうか?勿論セザンヌもゴッホもそういう意味ではプロフェッショナルではあったものの、生計を絵画で十分成立させていたかと言えば、セザンヌはかなり資産が予めあったからよかったし、ゴッホは弟テオからの援助があったからこそ絵画を続けていくことが出来たのであるが、それでも後世においては、他のその当時売れていたどの画家よりも歴史的に残っている。つまり趣味で絵を描いている人は仮にそういう仕方でアートに関わることが仮に自分では一番尊いと考えていたとしても、それをプロフェッショナルとは呼べないということである。
話を戻そう。私たちは他者に取り囲まれて生活している。しかし他者を他者として認識するためには予め確かに我々の中に他者を他者として意思疎通し合える相手であると認識する能力が備わっていなければならないだろう。つまりリゾラッティーらによるミラーニューロンの発見という事実からもよく理解出来るが、他者を他者として認識し得る能力こそが意味を発生させていると考えても間違いではないだろう。それに関して前節の付記において示した谷口氏との送受信の遣り取りの後で私は氏に追伸を補足的に送信したのでそれをそのまま掲載しておこう。
追伸
谷口一平さま
昨日送信した返信メール中において不分明な箇所があったので、追伸として示します。
>ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。
あなたのこの考えは、「意味を把握する能力」が先にあってそれが「あなた」を作り出すというのなら分かります。しかし意味それ自体はやはり関係認識や差異認識があって、然る後、個別のケースに対する判断で理解する、納得すると考えるのが私は自然であると考えます。私は関係(これが差異も理解させる)が先に悟性的に理解され、然る後その関係把握から意味理解に進むと考えます。しかしあなたの主張の通り、意味理解とか意味把握能力は予め備わっていなければ、関係から意味へと理解することは出来ませんね。
例えばペットの動物は犬とか猫とかそれぞれ固有の把握の傾向がありますが、飼い主の中で誰が一番偉いかということに対して判断が出来ます。私の家族が飼っていたある猫は私の母を一番偉いと思っていました。それは一つの意味理解です。しかし動物は言語がありませんから、意味を「意味」として理解すること、つまり概念的に把握することは出来ないということになります。しかし少なくとも彼等も関係を理解することは出来ますし、そこから意味を理解することも出来ます。しかし動物は言語を持ちませんから、意味といっても感情と不可分なものでしょう。つまり人間の場合意味は最初(理解レヴェル)では感情も同伴されますが、それを概念把握として感情から切り離すことも出来るというわけです。
>死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?
私がこう言った理由はこうです。つまり死者は確かにあなたの仰るように死者本人の側から言えば全ての他者からの責任転嫁を逃れます。しかし同時に「死人に口なし」ですから、知られざる過去を幾らでも他者の側から捏造され得ます。ですから歴史作家によって例えば織田信長も、豊臣秀吉も皆ある程度虚構的に捏造されていますよね。そういう意味では皆が過去とはそこに戻って確かめようがないので、勝手に自分の責任逃れのために死者に責任を押し付けることは可能です、そういう意味で言ったのです。
河口ミカル
谷口氏の主張する意味の二人称に対する優先は、私の解釈では意味把握ということの能力である。従って意味理解というものは意味把握能力という身体的能力、脳作用の付与によって得られる。それは形而下的解釈だが、それ以上それを形而上的に捉えたい誘惑を抑える必要があるように私には思われる。つまり自由意志とはでは一体というような論議は不毛である、と。何故なら私たちは既に脳科学とか自然科学認識自体も一つの選択肢として獲得しているのであり、私たちは私たち自身を生存機械であると捉えることをも自由意志の範疇で可能なのであり、それでは自由意志は成立しないという論議自体が、既に形而上的な優位を前提していると思われるからである。
最早形而上学的優位において自由意志優先であるとか、形而下的認識の肥大化というような論議は不毛であると私は考える。ある時には形而上的認識を優先する必要があるし、別の観点からはあくまで形而下的に認識する必要があると考える。
だからここで結論的に言うと、他者を他者として認識し得る能力は悟性的に差異を認識する能力とミラーニューロンによる作用の両方が同時に展開していると考えればよい。そしてそれは意味把握能力の発現である。しかし意味自体はやはり納得とか理解を通してでなければなされないので、他者を他者として把握しその存在理由を理解することを通して意味に到達するとしてよいのではないか?つまり私の言いたい意味とは、存在理由のことであり、その時々の状況把握と密接なものとしてなのである。意味体系とか意味連関ということにおいてであれば谷口氏の主張されるような<意味把握能力=二人称に対して先験>と考えればよいだろう。
ここで明確化しておく必要があるが、偶像と私が呼ぶものは、端的に想像することによってでっち上げるその像のことなのである。私たちの脳は理解出来ないことに直面すると、理解出来ることの仕方で何とか折り合いをつけようとするわけだから、どうしても知らないこととか親しくないことの内容も、そのままにはしておけず固有の像を作り出そうとするということである。つまり知っていることや親しみのあることを通してそうではない知らないことや親しみがないことに対してそれなりに理解しておこうとするということだ。だからそれは誤解や曲解の場合も往々にしてある。要するに脳は知らないことや親しみの持てないことをうっちゃっておくことがなかなか出来ないのだ。
そのことはカプグラ症候群においても立証済みである。彼等疾患者はある人の顔を自分の母親と知っていても、それは違う人が成り代わっているのではないかと考えてしまう(ものに対してもそう考えてしまう)。それは何らかの脳部位障害により、あるものを「そうだ」と認めることと、あるものを「それは本当だ」と認める情動的なことを繋げるパイプが欠落しているからではないかとも考えられている。
それは通常では情動を通して同一性を認知し得る(情動的な作用によって何かを信用することが出来る故)ことが障害されていると考えることが出来る。
だからそれと逆にそういう障害がないということは、よく知っていることや親しみのあるものに対して共感出来るということだから、必然的に親しみあるものを糧に親しみのないものを関連づけることによって理解したいという欲求がよく知らないことを想像することが可能となっているのかも知れない。
Tuesday, May 25, 2010
<感情と意味>第三章 第五節 神と不浄
世界は最初、神や存在と分かち難いものとして実感されていたと私は述べた。しかし世界が「世界」となり、「私たち」にとってのものとなった時、明らかにそれは「私たちによってよく知られる世界」であった筈である。だからこそ逆に「私たちによってよく知られない世界」の存在も同時に誕生していた筈だ。しかしそれすらもお見通しの存在があってもおかしくはない、その時神は想念上では出現していたのだ。
キリスト教の神の概念以前的にもそういう意味でなら、私たち日本人にも「カミ」はいた。それは不浄と言う観念と密接に生み出されてきたのだろうと私は思う。つまり努力しても報われないこと、全てを飲み込むくらいに無情な自然の脅威、不条理的、理不尽な現実が公平や平等と言う観念も生んだだろうが、それらの観念が定着した時とは、不浄という相も変らぬ現実への認識が定着した時でもあった筈だ。
観念としての理想は不浄な現実、あるいは現実が不浄であるという認識が生んだ、と言うより同一の基盤を持っていると考えられる。不浄と理想は同時的発生のものであろう。
すると理想を具現化するところの神は恐らくどの民族においても想念されただろう。神とは日本人にとって自然の守り神という側面も大きかっただろうが、少なくとも日本人にとってもユダヤ・キリスト教徒たちやイスラム教徒たちと同様どこかで永遠と言う想念と結びついている。勿論私たちは欧米人ほど永遠と言う想念に囚われていない。それでも観念上では永遠を理解出来る。だから必然的に神とは偶像なのである。理想もまた偶像なのだ。それは私たち全てに対しての他者であり、大いなる責任転嫁をし得る対象なのだ。
つまり神という偶像は人間にとって絶対的他者の別名であり、絶対的孤独の別名なのだ。つまりだからこそ私たちはデカルトが「私」を持って神に拮抗したことの意味を噛み締めることが出来るのだ。それは神が絶対的孤独であることを知っているから、では私たち自身は確固とした孤独であり得るのかという問い、つまり自分が自分を作るという意味で自己の神足り得るのかという試練としてコギトは私たちの前に立ち塞がっているのである。
しかしそのように自己の神足り得るコギトの前には、コギトという窓から見た「世界の見え」に対して不浄であると認識する主体としての「私」がいるということ、つまり自己の神足り得るか否かということは、そもそも「世界の見え」自体を構成しているのが「私」であり私の身体であることを知らなくてはならないが、私の身体は確かに私が作ったのではない。やはり私の両親であるが、私の両親も私を作る能力自体を作ったわけではない。するとそこにもやはり人類にとって神が立ち塞がった根拠が見えてくる。私は格別有神論者ではない。従ってその能力は自然に付与されたと感じる。しかしその能力を付与したものがたとえ神ではなく自然であったとしても、自然自体はやはり神的存在によって作られたと思えてしまう。勿論そうではないだろう。それは私たちの思惟の一つの傾向でしかない。自然は自然によって作られたのでも、自然自体で生まれたのでもなく、そもそも既にあったものなのだ。いつ生まれたのか、宇宙が生まれたということはあるかも知れないが、その宇宙が生まれるために生まれられるものとしての「世界」はあったのだ。そこでカントの「純・理」中、第四二律背反が想起される。それは世界の素地だったのかも知れない。宇宙が誕生する以前にも別の宇宙は存在し得たのかも知れないが、私たちにとっての宇宙と、それ以前の宇宙に何ら空間的な関係がないのであれば、それは時間的にも私たちの宇宙と相関性は皆無であろう。そして無関係であるのなら、宇宙Aが存在した事実と、仮に私たちの宇宙が存在Bであるとして、それらの間を関係づける何ものもないであろう。そもそも私たちは私たちや私たちの宇宙全体を存在であるとしたものと、そうではない存在とを比較したり、相関性を確認したりすることなど出来はしないのだから。
断っておくが、その比較や相関とは、今眼前にあるパソコンと電話という存在しているもの同士の比較や相関とは訳が違う。何故なら私の眼前にあるパソコンと電話はあくまで私たちの知る空間内での出来事でしかないからである。
つまりそのように存在を別の存在と比較したり相関性を論じたりすることが出来ないということが即ち世界が不浄であることの証拠である。何故なら私は既に首と顔の付け根が痛いとかそういう不具合という現実を離れた私であることが出来ないのだから。だからこそ思惟において思念において神を我々は想念上希求するのだ。それは認識上ではない。想念上なのだ。つまり想念上では私たちは神の如く自分を、自分の肉体から離れるということを想像出来る。勿論幽体離脱的な経験を持つ者ならいる。しかしそれはあくまで例外的なこととしての経験なのである。常に恣意的にそれが可能であるようなものとして神を想定し得ても、我々は実はそういう能力保持者にはなれないのである。そのなれなさが、そのようになれることを我々に神と呼ばせる。神のみが存在=宇宙Aと存在=宇宙Bという想念を確実性の下にあるかないかを見ることが出来るのだ、と私たちはするのである。
しかし仮に私たちが住むこの宇宙を存在Bとする(それは私たち以前にも私たちの存在とは何ら無関係な別の存在として宇宙があったかも知れないという想定の下にそうしているのだが)と、それが誕生したのが仮に百億年前であるとして、ビッグバン以前には何も存在していなかったことになり、そしてそれ以前に別の宇宙が存在Aとして存在していて、その存在ごとある日消滅したとしたら、その間、つまり存在Aと存在Bを存在せしめる間が仮に一秒であっても、一兆年であったとしても無時間であるのと同じことになるだろう。何故なら何も存在しない状態では時間そのものが存在し得ないからである。すると何も存在し得ないということを挟み、存在Aと存在B(私たちが住む宇宙)との相関を確認し得る存在者という仮定(思念、想念)は矛盾を来たす。従って神は存在し得ないということに論理的にはそうなる。だから神は不浄であるなら存在し得る、という認識を持ってしまう。しかしそれは神が存在して欲しいと思う我々の思念能力がでっち上げてしまう一つの思惟傾向であるということにもなる。あるいはこう言ってもよい。神が存在し得たとしても、それでもそれは無限の能力を保持しているわけではない、と。そして神のなし得る能力は有限である、と。
<付記 神がもし不浄であるなら存在Bにとってのみ神は存在し得る。しかし全知全能の神が存在するならそれは必然的に存在Aと存在Bを超越的視点から俯瞰し得ねばならなぬ。が存在Aと存在Bは事実上何の実在的関係を持たぬとすれば、それを超越する視点を持てる存在はあり得ない。それは「神が存在する」という定義を矛盾させる。しかもそもそも神が不浄であるという仮定そのものも神は絶対に不浄であってはならぬという我々の語義とも矛盾する。従って神は実在せず、我々の情報概念でしかないと言い得るのだ。>
すると神は偶像であるし、私たちの知らない存在Aも偶像であるが、偶像とはそれが存在し得るということが確証し得ないものも多く含むことになる。すると「私のよく知る世界」から恐らくそれは正しいものであると私も確信するところの「私たちのよく知る世界」=「私たちにとって親しい世界」という真理、つまり存在B(勿論その中でも知り得ないことの方がずっと多いのであるが、仮想上では存在し得る全ての存在物とそれが存在する限り私は邂逅する可能性はある)ではない存在と、私が存在Bの中で私が終ぞ知り得ることなく終わる存在とは、私にとって価値的には等価であることになる。私という存在は私以外の今現在生きて生活している大半の地球市民にとって存在しないのと同じなのであるから、その意味では私にとっては存在Aにかかわる全ても、私たちの宇宙であるところの存在Bの中で生活する大半の地球市民も、宇宙の未だ人類にとって知り得ない領域や性質も全て仮想上での存在、つまり偶像である存在Aと価値論的には等価であることになる。そしてこれが重要であるが、私にとっても恐らく私たちにとっても存在し得るか否か定かではない存在Aも、存在Bの中の未確認の存在も、それが不浄であるかどうかは確定し得ない。たまたま我々が知る存在Bの中に存在し得るものであるなら、我々が不浄でないのなら、それと同じように不浄でないであろうと例えば化学的にとか物理学的にそう思われるだけのことである。
付記
知人で友人の谷口一平氏に対して私が第二章の結論とほぼ同一内容のメールを送信したのだが、それへの返信が届き、更に私はそれに返信した全部をここに記載する。
河口ミカルさま
メールありがとうございます。
ゾンビのお話ですが、おっしゃるとおり、ビンゾなどという得体のしれない存在よりは、ゾンビの方がよほど人間的であるということはいえるでしょうね。ゾンビは意味機能の 遂行能力があり、感情的・情緒的な反応をおこなえるわけですからね。ぼくとしては、 人間的かどうかというところには関係なく(ですからむろん、昆虫や非高等生命への優越感情にもかかわりなく)ビンゾの存在をみとめ、まさにゾンビがビンゾを偶有する という地点から考察をすすめてゆきたいとは思っていますが、河口さんの立場がそれなりに理解できないわけではありません。もちろん、ビンゾが「あるかのように思えてしまう」理由はどこまでも考究してゆくことができるでしょう。現象判断のパラドクスは、根本的に解くことのできない対立であるような気がします。
「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。
責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。
短いですがとりあえず。
谷口一平 拝
谷口一平さま
今回のあなたの返信はなかなかいいですね。
>「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より 先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、 どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを 先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。
このご質問に対する返答はこうですね。私は意味が先でもあなた(つまり私にとっての最初の他者ですが)が先でもないということですね。意味が把握された時あなたも把握され、あなたが把握された時意味も把握されるからです。廣松も永井も、そのことの一方からの解釈と捉えればよいでしょう。
寺山の関係一元論はよく知りませんが、それは間主観性とも実質論でもないのでしょう。でも案外私の言っていることに近いかも知れません。つまり関係が意味を派生させるというのが私の考えです。関係を理解することは二つのものやことの差異を理解することですから、その時意味は納得する形で得られますね。
>責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ 少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に 「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有 するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなく なった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。 あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、 他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。
このことに関してお答え致しますと、本当はかなり長い論文例の「感情と意味」のあなたに渡した分の後続編ですが、大体23ページ(パソコンワードで四十八行×四十字)位のものを今のところ執筆致しまたのでご関心があれば添付送信致しますけれど、簡単に説明致しますとこうなります。 私には(だから恐らく私たちも)「よく知る世界=親しみのある世界」と「よく知らない世界=親しみにない世界」があり、それは勿論個人毎に内容も領域や所在も異なります。しかし少なくともその二つの総和こそが「世界」であるという認識は大半の存在者が持っている筈です。ですから世界とはその切れ端はファジーです。私が言う責任転嫁とは人間関係にも勿論適用出来ますが、「私がよく知る世界」外のこと(例えば私にとって法曹界も、芸能界もよく知りません)には私は責任を負いかねます。つまり例えば私はあなたにそれらのことを告げることが出来ません。そしてそれはあなたにとっても恐らくそうでしょう。私は私が住む町をあなたに案内出来ますが、あなたほど京都を他人に案内することが出来ません。従って自分の能力外のことは他者一般(誰かと特定など出来ない。特定出来たのなら、その知らない領域に私が責任を持ってしまうことになるから)へと責任転嫁します。
ですからあなたのお尋ねの他者も厳密に言えば私にとっては偶像とも言えますね。そしてまさに役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去っていくという流れが後押しすることを私たちは日々していますよね。これってその通りだと思います。触れられない実質というよりも、私は谷口君のことを責任持てませんよね、そういう風に理解されるとよいのではないでしょうか?「人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。」とはまさにその通りです。死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?
つまり絶対的他者であるところの死者の生前のことなんて私には責任をもてませんからね。それは過去でもそうですね。過去自体は誰も責任を取れませんからね。誰も過去に戻れないのだから。
その時私は再び私が知る世界と、私がよく知らない(「よく」と付け加えているのは、あるということくらいは知っているから。例えば京都の伏見というところがあるということくらい私は知っている)世界(死もそうですし、死者もそうです)、つまり責任を負いかねる世界との間に意味があることを知ります。何故って意味とは知るということと知らないということ(親しいということと親しくないということでもよいし、馴染みがあるとないでもいいし、慣れていると慣れていないでもいい)の二つを同時に知っていなければ理解出来ないからです。どちらか一方であるということはあり得ません。知っていることだけでもし充足しているとしたのなら、その場合私(たち)は希望も、欲望も、期待も、関心も、予想も、好奇心も、思考さえもが一切ないということになりますから。それでは知っていることを知っているとも捉えられません。
意味を所有することが偶像崇拝することなのではなく、例えば自分で存在するかどうか確かめようがないけれど、あるかも知れないと思える例えば宇宙の物質とか、私と顔がそっくりでペニスの形まで殆ど変わりないフィンランド人がいるかも知れないと思うこと、それも偶像です。偶像とは「あるかも知れないと思えるような存在」つまり偶有的なことです。つまり存在が確証し得ないものは全て偶像です。神然り、我々の存在する宇宙をそれ以前にひょっとしたらあったかも知れない宇宙Aに対して宇宙Bとすると、宇宙Aは偶像です。あるいは宇宙Bに存在するかも知れない未知の物質も偶像です。
つまり偶像は我々には、あるいは私にとって責任を負えないからです。しかし責任の負える微々たる世界と、責任の負えない広大な世界があることを私も恐らく私たちも知っているのです。その責任の負えることと、負えなさという二つの関係を把握することから意味が派生すると考えます。
それから「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」とはまさに私も同じですね。しかし恐らくビンゾはゾンビであってもそうでなくてもいいですが、恐らくそういう風に<私たちは「何か」?>という問い自体が生んでいる何らかの幻想であることだけは確かではないでしょうか?
何故ってこれも論文に詳しく書きましたがクオリアや意識だけが浮上することなど不可能ですからね、クオリアや意識とは要するに私が今日これからどういうことをしようと計画を立てたり、それを実行したりする中で目的や意図、願望といったさまざまな感情や思考と切り離してなど存在し得ないからです。その他にも記憶、想起もあるでしょうし、健康状態とか生理的作用もあるでしょうしね。でも案外その「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」ことが文学自体の存在理由となり、作品化され得るとは言えないですかね?つまりそこから先がいよいよ文学の出番ということですよ。
まあそんなところでしょうか?今執筆中のものを少し時間を置いてその内送信致します。
河口ミカル
キリスト教の神の概念以前的にもそういう意味でなら、私たち日本人にも「カミ」はいた。それは不浄と言う観念と密接に生み出されてきたのだろうと私は思う。つまり努力しても報われないこと、全てを飲み込むくらいに無情な自然の脅威、不条理的、理不尽な現実が公平や平等と言う観念も生んだだろうが、それらの観念が定着した時とは、不浄という相も変らぬ現実への認識が定着した時でもあった筈だ。
観念としての理想は不浄な現実、あるいは現実が不浄であるという認識が生んだ、と言うより同一の基盤を持っていると考えられる。不浄と理想は同時的発生のものであろう。
すると理想を具現化するところの神は恐らくどの民族においても想念されただろう。神とは日本人にとって自然の守り神という側面も大きかっただろうが、少なくとも日本人にとってもユダヤ・キリスト教徒たちやイスラム教徒たちと同様どこかで永遠と言う想念と結びついている。勿論私たちは欧米人ほど永遠と言う想念に囚われていない。それでも観念上では永遠を理解出来る。だから必然的に神とは偶像なのである。理想もまた偶像なのだ。それは私たち全てに対しての他者であり、大いなる責任転嫁をし得る対象なのだ。
つまり神という偶像は人間にとって絶対的他者の別名であり、絶対的孤独の別名なのだ。つまりだからこそ私たちはデカルトが「私」を持って神に拮抗したことの意味を噛み締めることが出来るのだ。それは神が絶対的孤独であることを知っているから、では私たち自身は確固とした孤独であり得るのかという問い、つまり自分が自分を作るという意味で自己の神足り得るのかという試練としてコギトは私たちの前に立ち塞がっているのである。
しかしそのように自己の神足り得るコギトの前には、コギトという窓から見た「世界の見え」に対して不浄であると認識する主体としての「私」がいるということ、つまり自己の神足り得るか否かということは、そもそも「世界の見え」自体を構成しているのが「私」であり私の身体であることを知らなくてはならないが、私の身体は確かに私が作ったのではない。やはり私の両親であるが、私の両親も私を作る能力自体を作ったわけではない。するとそこにもやはり人類にとって神が立ち塞がった根拠が見えてくる。私は格別有神論者ではない。従ってその能力は自然に付与されたと感じる。しかしその能力を付与したものがたとえ神ではなく自然であったとしても、自然自体はやはり神的存在によって作られたと思えてしまう。勿論そうではないだろう。それは私たちの思惟の一つの傾向でしかない。自然は自然によって作られたのでも、自然自体で生まれたのでもなく、そもそも既にあったものなのだ。いつ生まれたのか、宇宙が生まれたということはあるかも知れないが、その宇宙が生まれるために生まれられるものとしての「世界」はあったのだ。そこでカントの「純・理」中、第四二律背反が想起される。それは世界の素地だったのかも知れない。宇宙が誕生する以前にも別の宇宙は存在し得たのかも知れないが、私たちにとっての宇宙と、それ以前の宇宙に何ら空間的な関係がないのであれば、それは時間的にも私たちの宇宙と相関性は皆無であろう。そして無関係であるのなら、宇宙Aが存在した事実と、仮に私たちの宇宙が存在Bであるとして、それらの間を関係づける何ものもないであろう。そもそも私たちは私たちや私たちの宇宙全体を存在であるとしたものと、そうではない存在とを比較したり、相関性を確認したりすることなど出来はしないのだから。
断っておくが、その比較や相関とは、今眼前にあるパソコンと電話という存在しているもの同士の比較や相関とは訳が違う。何故なら私の眼前にあるパソコンと電話はあくまで私たちの知る空間内での出来事でしかないからである。
つまりそのように存在を別の存在と比較したり相関性を論じたりすることが出来ないということが即ち世界が不浄であることの証拠である。何故なら私は既に首と顔の付け根が痛いとかそういう不具合という現実を離れた私であることが出来ないのだから。だからこそ思惟において思念において神を我々は想念上希求するのだ。それは認識上ではない。想念上なのだ。つまり想念上では私たちは神の如く自分を、自分の肉体から離れるということを想像出来る。勿論幽体離脱的な経験を持つ者ならいる。しかしそれはあくまで例外的なこととしての経験なのである。常に恣意的にそれが可能であるようなものとして神を想定し得ても、我々は実はそういう能力保持者にはなれないのである。そのなれなさが、そのようになれることを我々に神と呼ばせる。神のみが存在=宇宙Aと存在=宇宙Bという想念を確実性の下にあるかないかを見ることが出来るのだ、と私たちはするのである。
しかし仮に私たちが住むこの宇宙を存在Bとする(それは私たち以前にも私たちの存在とは何ら無関係な別の存在として宇宙があったかも知れないという想定の下にそうしているのだが)と、それが誕生したのが仮に百億年前であるとして、ビッグバン以前には何も存在していなかったことになり、そしてそれ以前に別の宇宙が存在Aとして存在していて、その存在ごとある日消滅したとしたら、その間、つまり存在Aと存在Bを存在せしめる間が仮に一秒であっても、一兆年であったとしても無時間であるのと同じことになるだろう。何故なら何も存在しない状態では時間そのものが存在し得ないからである。すると何も存在し得ないということを挟み、存在Aと存在B(私たちが住む宇宙)との相関を確認し得る存在者という仮定(思念、想念)は矛盾を来たす。従って神は存在し得ないということに論理的にはそうなる。だから神は不浄であるなら存在し得る、という認識を持ってしまう。しかしそれは神が存在して欲しいと思う我々の思念能力がでっち上げてしまう一つの思惟傾向であるということにもなる。あるいはこう言ってもよい。神が存在し得たとしても、それでもそれは無限の能力を保持しているわけではない、と。そして神のなし得る能力は有限である、と。
<付記 神がもし不浄であるなら存在Bにとってのみ神は存在し得る。しかし全知全能の神が存在するならそれは必然的に存在Aと存在Bを超越的視点から俯瞰し得ねばならなぬ。が存在Aと存在Bは事実上何の実在的関係を持たぬとすれば、それを超越する視点を持てる存在はあり得ない。それは「神が存在する」という定義を矛盾させる。しかもそもそも神が不浄であるという仮定そのものも神は絶対に不浄であってはならぬという我々の語義とも矛盾する。従って神は実在せず、我々の情報概念でしかないと言い得るのだ。>
すると神は偶像であるし、私たちの知らない存在Aも偶像であるが、偶像とはそれが存在し得るということが確証し得ないものも多く含むことになる。すると「私のよく知る世界」から恐らくそれは正しいものであると私も確信するところの「私たちのよく知る世界」=「私たちにとって親しい世界」という真理、つまり存在B(勿論その中でも知り得ないことの方がずっと多いのであるが、仮想上では存在し得る全ての存在物とそれが存在する限り私は邂逅する可能性はある)ではない存在と、私が存在Bの中で私が終ぞ知り得ることなく終わる存在とは、私にとって価値的には等価であることになる。私という存在は私以外の今現在生きて生活している大半の地球市民にとって存在しないのと同じなのであるから、その意味では私にとっては存在Aにかかわる全ても、私たちの宇宙であるところの存在Bの中で生活する大半の地球市民も、宇宙の未だ人類にとって知り得ない領域や性質も全て仮想上での存在、つまり偶像である存在Aと価値論的には等価であることになる。そしてこれが重要であるが、私にとっても恐らく私たちにとっても存在し得るか否か定かではない存在Aも、存在Bの中の未確認の存在も、それが不浄であるかどうかは確定し得ない。たまたま我々が知る存在Bの中に存在し得るものであるなら、我々が不浄でないのなら、それと同じように不浄でないであろうと例えば化学的にとか物理学的にそう思われるだけのことである。
付記
知人で友人の谷口一平氏に対して私が第二章の結論とほぼ同一内容のメールを送信したのだが、それへの返信が届き、更に私はそれに返信した全部をここに記載する。
河口ミカルさま
メールありがとうございます。
ゾンビのお話ですが、おっしゃるとおり、ビンゾなどという得体のしれない存在よりは、ゾンビの方がよほど人間的であるということはいえるでしょうね。ゾンビは意味機能の 遂行能力があり、感情的・情緒的な反応をおこなえるわけですからね。ぼくとしては、 人間的かどうかというところには関係なく(ですからむろん、昆虫や非高等生命への優越感情にもかかわりなく)ビンゾの存在をみとめ、まさにゾンビがビンゾを偶有する という地点から考察をすすめてゆきたいとは思っていますが、河口さんの立場がそれなりに理解できないわけではありません。もちろん、ビンゾが「あるかのように思えてしまう」理由はどこまでも考究してゆくことができるでしょう。現象判断のパラドクスは、根本的に解くことのできない対立であるような気がします。
「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。
責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。
短いですがとりあえず。
谷口一平 拝
谷口一平さま
今回のあなたの返信はなかなかいいですね。
>「意味」を、私‐あなた関係のなかにおいて捉えようとする見方は、面白いですが、「意味」より 先に「あなた」を措定してしまうことは、ぼくにとっては飛躍に思われます。ぼくの立場としては、もちろん「意味」が先にあって、それが「あなた」を作り出すという考えです。この対立もしかし、やはり解くことのできない対立であるのかもしれません。河口さんは、「関係」ということを、 どのぐらい重要視されるのでしょうか。関係(差異)と個物(実質)という対立において、どちらを 先行させるのかということですね。廣松渉の共同主観性論は関係があってはじめて個物が成り立つという考え方ですし、逆に永井などは実質論者であると思います。以前ブログで論じたこともあるのですが、たとえば寺山修司の肉体言語観などは、関係一元論的であるようです。
このご質問に対する返答はこうですね。私は意味が先でもあなた(つまり私にとっての最初の他者ですが)が先でもないということですね。意味が把握された時あなたも把握され、あなたが把握された時意味も把握されるからです。廣松も永井も、そのことの一方からの解釈と捉えればよいでしょう。
寺山の関係一元論はよく知りませんが、それは間主観性とも実質論でもないのでしょう。でも案外私の言っていることに近いかも知れません。つまり関係が意味を派生させるというのが私の考えです。関係を理解することは二つのものやことの差異を理解することですから、その時意味は納得する形で得られますね。
>責任転嫁という論点は、なかなか難しい。まあでも、人間関係などというものは、多かれ 少なかれ責任転嫁的であるということは、ぼくもそう思いますけれどね。しかし、意味の本質に 「責任転嫁性」を置いてしまった場合、それは批難することはできるのでしょうか。意味を所有 するということが偶像崇拝するということであるのなら、むしろどんどん偶像を作って、役に立たなく なった偶像はどんどん捨て去ってゆく、という流れが、むしろ後押しされるのではないですかね。 あるいは、もし「責任転嫁」ということが批難できるのであるならば、それは関係の網目のむこう側に、 他者という触れられない「実質」を、じつは置いていることにはなりませんか。たとえば人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。
このことに関してお答え致しますと、本当はかなり長い論文例の「感情と意味」のあなたに渡した分の後続編ですが、大体23ページ(パソコンワードで四十八行×四十字)位のものを今のところ執筆致しまたのでご関心があれば添付送信致しますけれど、簡単に説明致しますとこうなります。 私には(だから恐らく私たちも)「よく知る世界=親しみのある世界」と「よく知らない世界=親しみにない世界」があり、それは勿論個人毎に内容も領域や所在も異なります。しかし少なくともその二つの総和こそが「世界」であるという認識は大半の存在者が持っている筈です。ですから世界とはその切れ端はファジーです。私が言う責任転嫁とは人間関係にも勿論適用出来ますが、「私がよく知る世界」外のこと(例えば私にとって法曹界も、芸能界もよく知りません)には私は責任を負いかねます。つまり例えば私はあなたにそれらのことを告げることが出来ません。そしてそれはあなたにとっても恐らくそうでしょう。私は私が住む町をあなたに案内出来ますが、あなたほど京都を他人に案内することが出来ません。従って自分の能力外のことは他者一般(誰かと特定など出来ない。特定出来たのなら、その知らない領域に私が責任を持ってしまうことになるから)へと責任転嫁します。
ですからあなたのお尋ねの他者も厳密に言えば私にとっては偶像とも言えますね。そしてまさに役に立たなくなった偶像はどんどん捨て去っていくという流れが後押しすることを私たちは日々していますよね。これってその通りだと思います。触れられない実質というよりも、私は谷口君のことを責任持てませんよね、そういう風に理解されるとよいのではないでしょうか?「人が死んだとき、 死者に対してわれわれはいかにしても関係をとりむすぶことができなくなります。まさにこのような 無関係性こそ、永井的な〈他者〉であると思いますし、真に「責任転嫁」を逃れた存在であると思います。」とはまさにその通りです。死者とは責任転嫁を逃れた存在ですが、私が責任転嫁し得る存在であるのではないでしょうかね?
つまり絶対的他者であるところの死者の生前のことなんて私には責任をもてませんからね。それは過去でもそうですね。過去自体は誰も責任を取れませんからね。誰も過去に戻れないのだから。
その時私は再び私が知る世界と、私がよく知らない(「よく」と付け加えているのは、あるということくらいは知っているから。例えば京都の伏見というところがあるということくらい私は知っている)世界(死もそうですし、死者もそうです)、つまり責任を負いかねる世界との間に意味があることを知ります。何故って意味とは知るということと知らないということ(親しいということと親しくないということでもよいし、馴染みがあるとないでもいいし、慣れていると慣れていないでもいい)の二つを同時に知っていなければ理解出来ないからです。どちらか一方であるということはあり得ません。知っていることだけでもし充足しているとしたのなら、その場合私(たち)は希望も、欲望も、期待も、関心も、予想も、好奇心も、思考さえもが一切ないということになりますから。それでは知っていることを知っているとも捉えられません。
意味を所有することが偶像崇拝することなのではなく、例えば自分で存在するかどうか確かめようがないけれど、あるかも知れないと思える例えば宇宙の物質とか、私と顔がそっくりでペニスの形まで殆ど変わりないフィンランド人がいるかも知れないと思うこと、それも偶像です。偶像とは「あるかも知れないと思えるような存在」つまり偶有的なことです。つまり存在が確証し得ないものは全て偶像です。神然り、我々の存在する宇宙をそれ以前にひょっとしたらあったかも知れない宇宙Aに対して宇宙Bとすると、宇宙Aは偶像です。あるいは宇宙Bに存在するかも知れない未知の物質も偶像です。
つまり偶像は我々には、あるいは私にとって責任を負えないからです。しかし責任の負える微々たる世界と、責任の負えない広大な世界があることを私も恐らく私たちも知っているのです。その責任の負えることと、負えなさという二つの関係を把握することから意味が派生すると考えます。
それから「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」とはまさに私も同じですね。しかし恐らくビンゾはゾンビであってもそうでなくてもいいですが、恐らくそういう風に<私たちは「何か」?>という問い自体が生んでいる何らかの幻想であることだけは確かではないでしょうか?
何故ってこれも論文に詳しく書きましたがクオリアや意識だけが浮上することなど不可能ですからね、クオリアや意識とは要するに私が今日これからどういうことをしようと計画を立てたり、それを実行したりする中で目的や意図、願望といったさまざまな感情や思考と切り離してなど存在し得ないからです。その他にも記憶、想起もあるでしょうし、健康状態とか生理的作用もあるでしょうしね。でも案外その「ゾンビがビンゾを偶有するという地点から考察をすすめてゆきたい」ことが文学自体の存在理由となり、作品化され得るとは言えないですかね?つまりそこから先がいよいよ文学の出番ということですよ。
まあそんなところでしょうか?今執筆中のものを少し時間を置いてその内送信致します。
河口ミカル
Sunday, May 16, 2010
<感情と意味>第三章 第四節 意味・観念としての理想・理性と原罪・受肉そして「世界」
大雑把に言えば、ユダヤ・キリスト教文化圏の宗教的慣例や儀礼性の全ては、肉に始まって肉に終わると言ってよい。カインによって殺害されるアベルは羊の肉を神に捧げたし、それに対して穀物を捧げたカインは弟を殺害することによって理性を得たのだ。理性はそれが隣接しているが故にその存在理由を知っている悪を必要とするのであり、アベルには理性は要らない。
時代が下ってキリストが登場し、受肉という観念がキリスト教布教後に定着する。カントが他律といったことの背景には受肉を通して原罪(主に肉欲)を克服するということの必要性から遡及された考えがある。他律に感けるということは快楽に耽るということだからだ。キリストは神性と人性との一致としてその存在が問われることになった。そう認識することで人という親しみある存在が初めて理想であるところの神と合体したのだ。だからこそそこに意味の世界が親しさと親しくなさ(理想や神はその象徴である)の合体として理解されたのだ。欧米の哲学はそういった宗教的観念を生むユダヤ・キリスト教的宗教対話全体への対話と理解しなくてはその本質が見えてこないところがある。
日本人は余暇の過ごし方が欧米人に比べて下手だと言われるが、それは中島義道氏的(「たまたま地上に僕は生まれた」、「英語コンプレックス 脱出」)に言えば欧米人からの暴力であるということになる。しかしそもそも日本人にとっての快と欧米人にとっての快がその性質を異にするというところがあるのだからある程度仕方ない。祭りに関しての常識も日本人と欧米人とでは確かに異なっている。
謝肉祭(カーニヴァル)は肉を抛るということから道化・滑稽・歓楽が許されるとされるが、それは形を変えた意味の世界の獲得でもある。
意味は親しいものとそうではないものの差別に起因するとした。欧米では親しいものとは家族であり、肉を運んでくれる父親であり、父親が公の原点である。母親は公において第一に親しい者である父以前的な意味で最大級の親しい者、血肉である。父が家の柱を支えている。その柱に支えられた家を母が子を儲け守るのだ。アメリカやカナダでは感謝祭をする。私たち日本人も祭をするが、肉よりは穀物への感謝である。
しかし私たち日本人にとっても恐らく意味は親しいものへと最初は向けられて、その後親しくはないものにも拡張される。観念は一方で肉の報酬があり、原罪があり、それを克服する過程で得た労働を価値として認定することを通した共同体の作為にその根源がある。意味は個人のものであっても、意味を統一することが共同体の仕事だからだ。意味は個々に異なっていてもそれが統一されることで観念が派生するというわけだ。私は第三章において意味は「一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しない」と言ったが、それは意味世界を個が意識していることを集団管理体制の名において理解している為政者によって統括されている概念規定性において意味が「誰にとっても同一の意味を持ち得る」という幻想を与えられていることを示してもいる。
誰にとっても同じであると「思わされている」だけであり、本質的には違うのだ。しかしその本質は隠蔽されなくてはならない。隠蔽されること自体が一つの理性の束となって作用しているのだ。理性も本来は個的なことであり、個人の肉体の欲望と衝動に起因する筈であるが、それもまた一般化される。つまり一方では個人毎に異なる本質があるということがあり、他方その本質は隠蔽される必要があるという隠蔽自体を招聘する本質がある。
つまり本質と本質否定の本質との奇妙な共存が私たちの社会を現実に機能させている。そのことを明確に示し得た哲学者はヘーゲルだった。しかしその隠蔽を悪として捉えたのはニーチェが最初だったのかも知れない。しかしニーチェ以前にもホッブスもルソーもその前哨戦的な役割は果たしていた。
デカルトの私は永井均によると確かに神への抵抗だったのだろう。それを近代的自我と表現することをよしとしても非としても、エゴやスーパーエゴといったフロイト的観念もまたデカルト的コギトを出発点としていることだけは確かである。
しかし言語行為はそれ自体が既に責任倫理を携えており、対他的責任の産物である。対他的に責任を明示的にすることを通して意味世界が開示される。意味とは責任が取り得るという親しい世界と、それと隣接して神秘化されやすい親しくない世界、それがあるとだけは理解出来るが、それ自体はよく知られていない世界、つまり責任を取り得ない世界との間に生じる。自分だけしか知らないことというのがあるが、自分だけ知らないことというのもあるからこそそれを伝え合うという行為が成立し得る。つまり自分だけが知っている世界を他者に提供することで、その報酬を得る、つまり自分だけが知らなかった世界を自分が知る世界へと取り込む(教わる=告げ知らされる)という形で言語行為が成立しているという事実自体が、意味を責任が取り得ること(自分だけが知っている世界)のトレードオフとして責任を取り得ないこと(自分だけが知らない世界)をも獲得するという意味を言語行為において責任論的に成立させている。
だからこれ以上は報酬を得ることを望むまいという決意(そのことによって限定的ではあるが確実な報酬が得られるし、そのことを我々は皆選択している)が他者全般という偶像を自分だけの力は所詮限られているという諦念と共に派生させているのだ。私たち個にとって偶像は共同体成員としては権力者であり責任統括者全般であるが、私とあなたという二人にとっては二人以外の全ての他者であり、要するに他者全般である。
前章で触れたことの繰り返しになるが、ある意味では私たちが持つ理想という観念が人間は動物とは違うという観念を生んだとも言える。つまり哲学的ゾンビとは、私たちが実は直観的に昆虫とさして変わりがないのではないかと思う気持ちを出来る限り有効に抑制するために儲けられた概念なのかも知れないのである。自然科学では人間もまた生存機械であり他の生物と同様ただ必死に生きているだけであると捉える。しかしそうではないとどこかで思いたい気持ちもずっと消えずに残り、だからこそゾンビという概念を提出することによって、哲学ではゾンビならぬビンゾ(永井均氏の提出した概念)を考える余地を作ったのだ。この二つを対にすることによって哲学の存在理由を探ったのだ。しかし私も実はただの昆虫(彼らには感情はないと生命学者たちは考えている)と同じゾンビ体でしかないのであって、偶然的に私たちだけある固有の言語という手段を持ってしまっただけのことである。
第二章の結語で私が「要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである」と述べた根拠はそこにある。
尤も言語が感情を整えているという側面はあるだろうが、言語がなくても感情はあり得る。事実哺乳類以上の知性的生命体は感情を持っている。
それなのに人間だけは違うのだという想念は観念としての理想が生んでいる。だからヒーロー志向的偶像対象と同時にマイナーの極致である犯罪者や死刑囚たちは生贄の対象と言う形でやはりそれもまた偶像なのである。私たちの深層心理には要するに生贄が磔にされるところを見物したいという野次馬根性があるのだ。生贄にされるところを見物する野次馬根性とは実は人間がややもするとただの動物になり下がると言うことをどこかで知っていた我々の祖先が「しかしやはりそうであってはいけないのだ」ということを覚醒するために我々に恐らく付与された心理なのだ。実はそれもまた原罪を構成することに一役買っている。だから前節で私があまり世渡りの巧くない読者に向けた書いた指南では、原罪を熟知している成員はブラックジョークを理解することが出来るという意味で言ったのだ。何故ならブラックジョークとは生贄にされるところを見物する野次馬根性の持ち主であるということに対する自覚が生むものだからだ。つまり我々が観念としての理想を持つということの本質には同時に理想を持たなくてはならないくらいに原罪を背負っているのだという風に己の原罪について自覚的である必要があり、その二つ、つまり理想を抱くということと、原罪があることは抱き合わせで理解されなくてはならない。そう考えてしまうのもやはり私たちが言語を持ってしまったということに起因するのだ。言語を持つということは物語を持つということへと必然的に能力開示を促進する。物語自体にも原罪は潜んでいた。
しかしそれを知るにはあまりにも安穏としているがために理想や理性という観念だけを知ろうとして、その背後に原罪という観念が控えていることに対して無自覚な成員は日本には多い。つまり観念としての理想も理性も実は原罪そのもの、つまり我々の性悪的部分が作っているのである。日本人の中にも性悪的概念は何らかの形で存在した筈なのだ。勿論仏教が導入されてから煩悩という概念は移入されたのだが、それ以前的にもあった筈だ。
しかし恐らく理想という観念よりももっとずっと早く「世界」という概念は出現していた筈である。私たちは皆「私にとって親しみのある(私のよく知る)世界」と「私にとって親しみのない(私のよく知らない)世界」の総和が「世界」であることを知っている。勿論人類は最初はもっと漠然とした、茫漠たる「世界」しか持っていなかったであろう。つまり最初人類にとって世界は神やら存在と明確には分かち難いものとして実感されていたに違いない。しかし何かがそれを世界として位置づけさせた。それこそが「自分」だったのかも知れない。これはデカルトの「私=コギト」とも違う。デカルトの言う「私=コギト」は永井が言うように神=創造者に対する抵抗を示したものだったのだ。そして私たちはデカルトの提唱した私を生きる。だから人類にとって最初「自分にとって見える」世界こそが「世界」となっていたのだろう。つまりヴュー自体の所有者という意識である。しかし意識はその時点では世界そのものへの意味づけ、つまり「世界」の構成ということのためにただ張り付いていただけである。しかし勿論それは私たちにとっても本質的には変わらずにそうなのである。ただ私たちは意識をデカルトの恩恵の範疇で格別のものとして捉えがちなだけのことなのだ。
人類にとって最初は確かに「世界」は「あるということだけは分かるがよくは知られない」ものだった筈だ。しかし徐々に「自分にとって見える」世界は「自分たちにとって見える」世界になっていき、やがて名辞が形成されるようになる。空、雲、海、川、林、森、鳥といったように。それらの名辞が定着していった時私たちは「世界」を「よく知る世界という窓を通してよく知らない世界を見る」という意識を持った可能性はある。これはデネット的カルテジアン劇場に近い感覚のものである。
時代が下ってキリストが登場し、受肉という観念がキリスト教布教後に定着する。カントが他律といったことの背景には受肉を通して原罪(主に肉欲)を克服するということの必要性から遡及された考えがある。他律に感けるということは快楽に耽るということだからだ。キリストは神性と人性との一致としてその存在が問われることになった。そう認識することで人という親しみある存在が初めて理想であるところの神と合体したのだ。だからこそそこに意味の世界が親しさと親しくなさ(理想や神はその象徴である)の合体として理解されたのだ。欧米の哲学はそういった宗教的観念を生むユダヤ・キリスト教的宗教対話全体への対話と理解しなくてはその本質が見えてこないところがある。
日本人は余暇の過ごし方が欧米人に比べて下手だと言われるが、それは中島義道氏的(「たまたま地上に僕は生まれた」、「英語コンプレックス 脱出」)に言えば欧米人からの暴力であるということになる。しかしそもそも日本人にとっての快と欧米人にとっての快がその性質を異にするというところがあるのだからある程度仕方ない。祭りに関しての常識も日本人と欧米人とでは確かに異なっている。
謝肉祭(カーニヴァル)は肉を抛るということから道化・滑稽・歓楽が許されるとされるが、それは形を変えた意味の世界の獲得でもある。
意味は親しいものとそうではないものの差別に起因するとした。欧米では親しいものとは家族であり、肉を運んでくれる父親であり、父親が公の原点である。母親は公において第一に親しい者である父以前的な意味で最大級の親しい者、血肉である。父が家の柱を支えている。その柱に支えられた家を母が子を儲け守るのだ。アメリカやカナダでは感謝祭をする。私たち日本人も祭をするが、肉よりは穀物への感謝である。
しかし私たち日本人にとっても恐らく意味は親しいものへと最初は向けられて、その後親しくはないものにも拡張される。観念は一方で肉の報酬があり、原罪があり、それを克服する過程で得た労働を価値として認定することを通した共同体の作為にその根源がある。意味は個人のものであっても、意味を統一することが共同体の仕事だからだ。意味は個々に異なっていてもそれが統一されることで観念が派生するというわけだ。私は第三章において意味は「一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しない」と言ったが、それは意味世界を個が意識していることを集団管理体制の名において理解している為政者によって統括されている概念規定性において意味が「誰にとっても同一の意味を持ち得る」という幻想を与えられていることを示してもいる。
誰にとっても同じであると「思わされている」だけであり、本質的には違うのだ。しかしその本質は隠蔽されなくてはならない。隠蔽されること自体が一つの理性の束となって作用しているのだ。理性も本来は個的なことであり、個人の肉体の欲望と衝動に起因する筈であるが、それもまた一般化される。つまり一方では個人毎に異なる本質があるということがあり、他方その本質は隠蔽される必要があるという隠蔽自体を招聘する本質がある。
つまり本質と本質否定の本質との奇妙な共存が私たちの社会を現実に機能させている。そのことを明確に示し得た哲学者はヘーゲルだった。しかしその隠蔽を悪として捉えたのはニーチェが最初だったのかも知れない。しかしニーチェ以前にもホッブスもルソーもその前哨戦的な役割は果たしていた。
デカルトの私は永井均によると確かに神への抵抗だったのだろう。それを近代的自我と表現することをよしとしても非としても、エゴやスーパーエゴといったフロイト的観念もまたデカルト的コギトを出発点としていることだけは確かである。
しかし言語行為はそれ自体が既に責任倫理を携えており、対他的責任の産物である。対他的に責任を明示的にすることを通して意味世界が開示される。意味とは責任が取り得るという親しい世界と、それと隣接して神秘化されやすい親しくない世界、それがあるとだけは理解出来るが、それ自体はよく知られていない世界、つまり責任を取り得ない世界との間に生じる。自分だけしか知らないことというのがあるが、自分だけ知らないことというのもあるからこそそれを伝え合うという行為が成立し得る。つまり自分だけが知っている世界を他者に提供することで、その報酬を得る、つまり自分だけが知らなかった世界を自分が知る世界へと取り込む(教わる=告げ知らされる)という形で言語行為が成立しているという事実自体が、意味を責任が取り得ること(自分だけが知っている世界)のトレードオフとして責任を取り得ないこと(自分だけが知らない世界)をも獲得するという意味を言語行為において責任論的に成立させている。
だからこれ以上は報酬を得ることを望むまいという決意(そのことによって限定的ではあるが確実な報酬が得られるし、そのことを我々は皆選択している)が他者全般という偶像を自分だけの力は所詮限られているという諦念と共に派生させているのだ。私たち個にとって偶像は共同体成員としては権力者であり責任統括者全般であるが、私とあなたという二人にとっては二人以外の全ての他者であり、要するに他者全般である。
前章で触れたことの繰り返しになるが、ある意味では私たちが持つ理想という観念が人間は動物とは違うという観念を生んだとも言える。つまり哲学的ゾンビとは、私たちが実は直観的に昆虫とさして変わりがないのではないかと思う気持ちを出来る限り有効に抑制するために儲けられた概念なのかも知れないのである。自然科学では人間もまた生存機械であり他の生物と同様ただ必死に生きているだけであると捉える。しかしそうではないとどこかで思いたい気持ちもずっと消えずに残り、だからこそゾンビという概念を提出することによって、哲学ではゾンビならぬビンゾ(永井均氏の提出した概念)を考える余地を作ったのだ。この二つを対にすることによって哲学の存在理由を探ったのだ。しかし私も実はただの昆虫(彼らには感情はないと生命学者たちは考えている)と同じゾンビ体でしかないのであって、偶然的に私たちだけある固有の言語という手段を持ってしまっただけのことである。
第二章の結語で私が「要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである」と述べた根拠はそこにある。
尤も言語が感情を整えているという側面はあるだろうが、言語がなくても感情はあり得る。事実哺乳類以上の知性的生命体は感情を持っている。
それなのに人間だけは違うのだという想念は観念としての理想が生んでいる。だからヒーロー志向的偶像対象と同時にマイナーの極致である犯罪者や死刑囚たちは生贄の対象と言う形でやはりそれもまた偶像なのである。私たちの深層心理には要するに生贄が磔にされるところを見物したいという野次馬根性があるのだ。生贄にされるところを見物する野次馬根性とは実は人間がややもするとただの動物になり下がると言うことをどこかで知っていた我々の祖先が「しかしやはりそうであってはいけないのだ」ということを覚醒するために我々に恐らく付与された心理なのだ。実はそれもまた原罪を構成することに一役買っている。だから前節で私があまり世渡りの巧くない読者に向けた書いた指南では、原罪を熟知している成員はブラックジョークを理解することが出来るという意味で言ったのだ。何故ならブラックジョークとは生贄にされるところを見物する野次馬根性の持ち主であるということに対する自覚が生むものだからだ。つまり我々が観念としての理想を持つということの本質には同時に理想を持たなくてはならないくらいに原罪を背負っているのだという風に己の原罪について自覚的である必要があり、その二つ、つまり理想を抱くということと、原罪があることは抱き合わせで理解されなくてはならない。そう考えてしまうのもやはり私たちが言語を持ってしまったということに起因するのだ。言語を持つということは物語を持つということへと必然的に能力開示を促進する。物語自体にも原罪は潜んでいた。
しかしそれを知るにはあまりにも安穏としているがために理想や理性という観念だけを知ろうとして、その背後に原罪という観念が控えていることに対して無自覚な成員は日本には多い。つまり観念としての理想も理性も実は原罪そのもの、つまり我々の性悪的部分が作っているのである。日本人の中にも性悪的概念は何らかの形で存在した筈なのだ。勿論仏教が導入されてから煩悩という概念は移入されたのだが、それ以前的にもあった筈だ。
しかし恐らく理想という観念よりももっとずっと早く「世界」という概念は出現していた筈である。私たちは皆「私にとって親しみのある(私のよく知る)世界」と「私にとって親しみのない(私のよく知らない)世界」の総和が「世界」であることを知っている。勿論人類は最初はもっと漠然とした、茫漠たる「世界」しか持っていなかったであろう。つまり最初人類にとって世界は神やら存在と明確には分かち難いものとして実感されていたに違いない。しかし何かがそれを世界として位置づけさせた。それこそが「自分」だったのかも知れない。これはデカルトの「私=コギト」とも違う。デカルトの言う「私=コギト」は永井が言うように神=創造者に対する抵抗を示したものだったのだ。そして私たちはデカルトの提唱した私を生きる。だから人類にとって最初「自分にとって見える」世界こそが「世界」となっていたのだろう。つまりヴュー自体の所有者という意識である。しかし意識はその時点では世界そのものへの意味づけ、つまり「世界」の構成ということのためにただ張り付いていただけである。しかし勿論それは私たちにとっても本質的には変わらずにそうなのである。ただ私たちは意識をデカルトの恩恵の範疇で格別のものとして捉えがちなだけのことなのだ。
人類にとって最初は確かに「世界」は「あるということだけは分かるがよくは知られない」ものだった筈だ。しかし徐々に「自分にとって見える」世界は「自分たちにとって見える」世界になっていき、やがて名辞が形成されるようになる。空、雲、海、川、林、森、鳥といったように。それらの名辞が定着していった時私たちは「世界」を「よく知る世界という窓を通してよく知らない世界を見る」という意識を持った可能性はある。これはデネット的カルテジアン劇場に近い感覚のものである。
Thursday, May 13, 2010
<感情と意味>第三章 第三節 偶像崇拝的逃避の効用
しかし私たちは偶像崇拝的逃避に感ける無自覚者に対する認識と共に、その一定量の保持者が、有効にそれを活用していることに目を向け、偶像崇拝的逃避自体が我々の生活上で何らかのメリットを齎している事実にも注目する必要がある。
それを考える上でまずもし偶像崇拝的逃避が一切ない生活とはどんなものになるかを想像すればよい。偶像崇拝することによって対他的に自分に出来ないことは他者に委ね、自分の中の欠如を知り、その欠如を少しでも埋めようと決意する時人間は向上しようという意志を持つ。だから逆に何に対しても偶像崇拝を一切出来ない成員は何に対しても「世界とは所詮こんなものである」という判断並びに諦観を抱いてしまうのだ。つまり偶像崇拝をすることで一旦は自己内の能力の限界を知ることによって、逆にその欠如に対する方策を考えるというところに偶像崇拝することで一旦捨て去る責任を安易に取り得ると考えることを諦めることや自己内の能力に対する過信を捨て去ることが、もし一切の偶像崇拝的逃避がない状態であるならなされ得ないのである。だから逆に理性的偶像崇拝逃避自覚論者とは、この偶像崇拝を有効活用する術に長けた人物であると言ってよい。
これから先は全く観点を変えて考えてみたい。本来哲学とか言語学とか学問と処世術は何の関係もない。しかし世の中には大勢何故自分は巧く社会に対応して生活していけないのかと悩んでいる人がいる。そこで本節の内容の残りをそういうタイプの人へ向けて書いてみたい。だから自分の信念を一切曲げずに処世ということを考える必要など自分にはないと考えられている方はこの節の先は読み飛ばして頂いてよい。
まず人生はそう長くない。しかもさまざまなストレスに苛まれること必定である。そこで他者と会話したり、対話したりする時に、相手があまり信用出来ないタイプの人である場合、なるべくなら相互に衝突を避けてしかも相手にあまり侮られることなくその時間を終了させたいと願っている人へ向けてハウツー的指南を書いてみたい。
本来サラリーマンやビジネスマンたちはゴルフの話が無難であるとか、接待の際に切り出す話題において、避けるべき内容とそうではなく無難である内容をその都度選択している。しかし重要なことは、ビジネスシーンであれ、地域社会であれ相手に対してこちらがより有能であり、能力的にも教養的にも信頼するに足る成員であるという印象を持たれるように少なくともこれ見よがしではない形でさりげなく示せればこれに勝るものはないと言ってよい。
そこで常々私は市民感情というものを考慮した時、我々が抱く偶像自体への観念において二つのタイプのものを誰しも抱いていると思う。それはヒーロー志向的偶像観と、アンチ・ヒーロー志向的偶像観である。後者はヒール志向的と言い換えてもよい。
正論というものは公平であり、適度に安定した思想を持つ成員には常に求められるから、市民感情として健全かつ道義的な感情を抱いているということを表明するという観点からも、多くの成員が贔屓にしたり、認可したりする偶像を自分も賛同出来るという意志を、少なくともあまり抵抗を感じずに済む対象を選択して話題に出すということは効果的である。そして一定の賛同を相手から得られたなら次の段階では、最初に切り出したものよりは多少マイナーな認知度の存在に対して相手の趣味嗜好、あるいは社会的地位や伺える思想に応じて切り出すことが効果的である。つまり相手に対する趣味や信条の傾向を把握するにつれて少しずつマイナープレゼンスへと移行させていくのである。そしてもうこの相手に対しては擬装的態度を表明する必要がないと判明したのなら、かなり俗なレヴェルの話題をしても構わないと言えるだろう。つまりそうであるか否かの判断を適切にし得るか否かということがかなり大事なのである。それ以前に既に我々はこの方法を取るのであれば、もうこれ以上は移行出来ない相手かそうではないかということくらいなら分かる筈である。だから最初に示した対象に対する反応を見てその顔色からもっとマイナーなものを相手が話題として望んでいるか、逆にもっと杓子定規なものを望んでいるかということの直観的な判定こそが重要なのである。だから後者であるなら、あなたは最早長時間相手と真意を探り合う努力を出来る限り速やかに断念して、手続き的な常套手段で切り上げるに越したことはない。逆にもっとマイナーな話題へと移行を望んでいるのなら、マイナーレヴェルの偶像対象を話題対象として模索することが望まれる。
そして相手を信用するに足ると判断し得たのなら、最終的にはいっそアンチ・ヒーロー的な偶像嗜好を表明することがより人間同士の信頼を得ることへと直結する。例えばその究極は好きなタイプの犯罪者を話題にするのである。そこまでする勇気がないのであれば少なくとも当初は有望視されていたのにもかかわらず期待を裏切った偶像、つまり敗残者的な立場の偶像、例えば例の朦朧会見をしたかつての財務大臣のようなタイプの政治家が実は自分は好きであるというような告白が相手次第では効果的な信頼獲得へと繋がるのである。その偶像対象は惨敗的イメージが強烈であればあるほどいいのである(この文章を最初に書いた時には例の大臣は存命中であった。冥福を祈る)。
どんな人間でも表の顔と裏の顔というものがあり、その双方をTPO的に使い分けている。この使い分けが有効になされ得るか否かもまた、ある部分かなり偶像崇拝的逃避の心理を有効活用し得るか否かにかかっている。つまり話題をシフトさせる可能性としてよりマイナー度の強烈なタイプの偶像対象を模索し得る相手かそうではないかということの判定こそが私は偶像崇拝的逃避心理を有効活用し得るということであると思う。
再度断っておくがこれはあまり社会的地位的な意味で成功していないタイプで、しかも極度に世渡りの下手な臆病な成員にのみ適用し得るアドヴァイスである。それくらいのことならとっくに分かっている、と言えるタイプの成員はもっと高度な段階に進んでいいのだ。いきなり相手と哲学や精神分析の話をしてもいい。しかしそういう話題を出すことの可能な相手というものは常に限られる。そこで相手がそういう風にいきなり高度な話題を共有し合える相手かどうかを判定するために私が先に述べた方法はかなり効果的である。
私の経験では一般に知的教養度の高い成員ほど反体制アートや反戦文学、あるいはブラックジョークを理解し、そういう話題に共鳴し得る。つまり彼(女)は体制的なポーズと日常生活上でのプライヴェートな信条を常に二本立てで両立させて生活しているからである。つまり適度に本音と建前を使い分けつつ、仕事や社会的地位を離れて考えると、より青年期に夢想した幾多のロマンティックなアイデアに満ちているということが、人間性において魅力を醸し出しているものだ。逆にそういうタイプではない成員に対しては、一定の正論をパロディー化するような高度のジョークは一切通じないと踏んで至って健康的であると一般にされる建前的な話題を選択することが無難であろう。そしてそういうタイプの成員とは一対一の対話を長時間することは避けた方がよい。
要するにユーモアをもともと解さないタイプの成員に対して高度なジョークや反体制的メッセージを辛辣に語ると言うことは無意味なのである。何故ならそういうタイプの成員は逸脱するということの意図的な知性を理解することがないからである。彼らは端的に品行方正であることと自らの嗜好とが完全に一致している、と言うより一致していなければいけないということ以外の選択肢が思い浮かばないからである。
責任の取り方は高度なものから通り一遍のものまで様々である。つまり誰しも集団同化意識と、個的自由領域沈潜的態度の両方を持っているが、得てして前者が義務的に肥大している成員は後者を持つ余裕をなくしている。そしてそれを十分持っている成員に対する嫉妬の感情を持っている。従って仮にそういう余裕を持っている人が自分よりも社会的地位的に上位にいる人間であるなら問題ないが、逆に自分より下位な人間であるなら、精神的に許容し難いのである。そこでことあるごとにそういうタイプの成員を見下す機会を伺っている。「お前は偉そうなことを言っても、社会的に成功していないではないか」と。
偶像崇拝的逃避を巧く調節することの出来る成員は、一切の個的自由領域沈潜的態度を他者には悟られまいとする。そうすることによって、他者からの羨望の眼差しを向けられることで示さなくてはならない横柄な態度を採ることを未然に自己に対して防いでいるのだ。そうしながら、休日や一人でいる時間を彼は楽しむ。
巧くやっていかれることを祈る。
それを考える上でまずもし偶像崇拝的逃避が一切ない生活とはどんなものになるかを想像すればよい。偶像崇拝することによって対他的に自分に出来ないことは他者に委ね、自分の中の欠如を知り、その欠如を少しでも埋めようと決意する時人間は向上しようという意志を持つ。だから逆に何に対しても偶像崇拝を一切出来ない成員は何に対しても「世界とは所詮こんなものである」という判断並びに諦観を抱いてしまうのだ。つまり偶像崇拝をすることで一旦は自己内の能力の限界を知ることによって、逆にその欠如に対する方策を考えるというところに偶像崇拝することで一旦捨て去る責任を安易に取り得ると考えることを諦めることや自己内の能力に対する過信を捨て去ることが、もし一切の偶像崇拝的逃避がない状態であるならなされ得ないのである。だから逆に理性的偶像崇拝逃避自覚論者とは、この偶像崇拝を有効活用する術に長けた人物であると言ってよい。
これから先は全く観点を変えて考えてみたい。本来哲学とか言語学とか学問と処世術は何の関係もない。しかし世の中には大勢何故自分は巧く社会に対応して生活していけないのかと悩んでいる人がいる。そこで本節の内容の残りをそういうタイプの人へ向けて書いてみたい。だから自分の信念を一切曲げずに処世ということを考える必要など自分にはないと考えられている方はこの節の先は読み飛ばして頂いてよい。
まず人生はそう長くない。しかもさまざまなストレスに苛まれること必定である。そこで他者と会話したり、対話したりする時に、相手があまり信用出来ないタイプの人である場合、なるべくなら相互に衝突を避けてしかも相手にあまり侮られることなくその時間を終了させたいと願っている人へ向けてハウツー的指南を書いてみたい。
本来サラリーマンやビジネスマンたちはゴルフの話が無難であるとか、接待の際に切り出す話題において、避けるべき内容とそうではなく無難である内容をその都度選択している。しかし重要なことは、ビジネスシーンであれ、地域社会であれ相手に対してこちらがより有能であり、能力的にも教養的にも信頼するに足る成員であるという印象を持たれるように少なくともこれ見よがしではない形でさりげなく示せればこれに勝るものはないと言ってよい。
そこで常々私は市民感情というものを考慮した時、我々が抱く偶像自体への観念において二つのタイプのものを誰しも抱いていると思う。それはヒーロー志向的偶像観と、アンチ・ヒーロー志向的偶像観である。後者はヒール志向的と言い換えてもよい。
正論というものは公平であり、適度に安定した思想を持つ成員には常に求められるから、市民感情として健全かつ道義的な感情を抱いているということを表明するという観点からも、多くの成員が贔屓にしたり、認可したりする偶像を自分も賛同出来るという意志を、少なくともあまり抵抗を感じずに済む対象を選択して話題に出すということは効果的である。そして一定の賛同を相手から得られたなら次の段階では、最初に切り出したものよりは多少マイナーな認知度の存在に対して相手の趣味嗜好、あるいは社会的地位や伺える思想に応じて切り出すことが効果的である。つまり相手に対する趣味や信条の傾向を把握するにつれて少しずつマイナープレゼンスへと移行させていくのである。そしてもうこの相手に対しては擬装的態度を表明する必要がないと判明したのなら、かなり俗なレヴェルの話題をしても構わないと言えるだろう。つまりそうであるか否かの判断を適切にし得るか否かということがかなり大事なのである。それ以前に既に我々はこの方法を取るのであれば、もうこれ以上は移行出来ない相手かそうではないかということくらいなら分かる筈である。だから最初に示した対象に対する反応を見てその顔色からもっとマイナーなものを相手が話題として望んでいるか、逆にもっと杓子定規なものを望んでいるかということの直観的な判定こそが重要なのである。だから後者であるなら、あなたは最早長時間相手と真意を探り合う努力を出来る限り速やかに断念して、手続き的な常套手段で切り上げるに越したことはない。逆にもっとマイナーな話題へと移行を望んでいるのなら、マイナーレヴェルの偶像対象を話題対象として模索することが望まれる。
そして相手を信用するに足ると判断し得たのなら、最終的にはいっそアンチ・ヒーロー的な偶像嗜好を表明することがより人間同士の信頼を得ることへと直結する。例えばその究極は好きなタイプの犯罪者を話題にするのである。そこまでする勇気がないのであれば少なくとも当初は有望視されていたのにもかかわらず期待を裏切った偶像、つまり敗残者的な立場の偶像、例えば例の朦朧会見をしたかつての財務大臣のようなタイプの政治家が実は自分は好きであるというような告白が相手次第では効果的な信頼獲得へと繋がるのである。その偶像対象は惨敗的イメージが強烈であればあるほどいいのである(この文章を最初に書いた時には例の大臣は存命中であった。冥福を祈る)。
どんな人間でも表の顔と裏の顔というものがあり、その双方をTPO的に使い分けている。この使い分けが有効になされ得るか否かもまた、ある部分かなり偶像崇拝的逃避の心理を有効活用し得るか否かにかかっている。つまり話題をシフトさせる可能性としてよりマイナー度の強烈なタイプの偶像対象を模索し得る相手かそうではないかということの判定こそが私は偶像崇拝的逃避心理を有効活用し得るということであると思う。
再度断っておくがこれはあまり社会的地位的な意味で成功していないタイプで、しかも極度に世渡りの下手な臆病な成員にのみ適用し得るアドヴァイスである。それくらいのことならとっくに分かっている、と言えるタイプの成員はもっと高度な段階に進んでいいのだ。いきなり相手と哲学や精神分析の話をしてもいい。しかしそういう話題を出すことの可能な相手というものは常に限られる。そこで相手がそういう風にいきなり高度な話題を共有し合える相手かどうかを判定するために私が先に述べた方法はかなり効果的である。
私の経験では一般に知的教養度の高い成員ほど反体制アートや反戦文学、あるいはブラックジョークを理解し、そういう話題に共鳴し得る。つまり彼(女)は体制的なポーズと日常生活上でのプライヴェートな信条を常に二本立てで両立させて生活しているからである。つまり適度に本音と建前を使い分けつつ、仕事や社会的地位を離れて考えると、より青年期に夢想した幾多のロマンティックなアイデアに満ちているということが、人間性において魅力を醸し出しているものだ。逆にそういうタイプではない成員に対しては、一定の正論をパロディー化するような高度のジョークは一切通じないと踏んで至って健康的であると一般にされる建前的な話題を選択することが無難であろう。そしてそういうタイプの成員とは一対一の対話を長時間することは避けた方がよい。
要するにユーモアをもともと解さないタイプの成員に対して高度なジョークや反体制的メッセージを辛辣に語ると言うことは無意味なのである。何故ならそういうタイプの成員は逸脱するということの意図的な知性を理解することがないからである。彼らは端的に品行方正であることと自らの嗜好とが完全に一致している、と言うより一致していなければいけないということ以外の選択肢が思い浮かばないからである。
責任の取り方は高度なものから通り一遍のものまで様々である。つまり誰しも集団同化意識と、個的自由領域沈潜的態度の両方を持っているが、得てして前者が義務的に肥大している成員は後者を持つ余裕をなくしている。そしてそれを十分持っている成員に対する嫉妬の感情を持っている。従って仮にそういう余裕を持っている人が自分よりも社会的地位的に上位にいる人間であるなら問題ないが、逆に自分より下位な人間であるなら、精神的に許容し難いのである。そこでことあるごとにそういうタイプの成員を見下す機会を伺っている。「お前は偉そうなことを言っても、社会的に成功していないではないか」と。
偶像崇拝的逃避を巧く調節することの出来る成員は、一切の個的自由領域沈潜的態度を他者には悟られまいとする。そうすることによって、他者からの羨望の眼差しを向けられることで示さなくてはならない横柄な態度を採ることを未然に自己に対して防いでいるのだ。そうしながら、休日や一人でいる時間を彼は楽しむ。
巧くやっていかれることを祈る。
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