Monday, April 2, 2012

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第七章 家族観の固定化と教育に見られる親のエゴイズム、そして他者と自己、素の自分なんてない①


 我々は自己というものがどういうものかを知らない。何故なら何時も他者と接していれば他者をどう見るかに追われ、自分一人で過ごす時間は、自分の未来のこととか、今迄してきたことなどを振り返るが、それらは全て自分自身のことであり、過去に関する記憶であり、それを通した未来への展望(願望とか、予定とかそういった全て)でしかなく、それは自己という固有の客観的姿ではない。
 自己はだから外面的にどうであるかを知りたいと望めば他者に問い質すしかない。何故なら自己とは自分がどういう風に他者から見えているかということへの意識だからである。その意識は他者が半分は決め、その他者の持つ自分への像に対して自分でどうその見られている像を維持したり修正したりしようかと考える主体である。
 我々は生まれ落ちた時からずっと自分自身にとってどの他者が自分に対して協力的であるかとか、どの他者が自分にとって警戒すべき対象となり得るかを査定することだけで過ごしてきている。これは厳密に言えば運命でも宿命でもなく、現実である(人生を価値的に見れば、その価値自体への感慨的溜息から我々はそれを運命とか宿命と捉えたいだけである)。
 我々は他者と接する時、親しくなっていく他者に対して友情であるとか、或いは家族となる配偶者とか親子関係に於いて愛情であるとかの感情とか気持ちで接すると思うが、実は信頼であれ友情であれ愛情であれ、それらは皆形式である。形式という語彙を使うと何処か味気ないとか、無味乾燥で即物的で人間味を感じないと言うのなら、それら一個一個を固有の価値と呼び換えてもいい。
 要するにそれにある他者が、自分にとってどういう感情や気持ちで接しているかという心情的事実から、ある他者を愛しているとか、ある他者を信じているとか、その様に自分内部の規定に当て嵌めているのである。その事自体に「それでは余りに人生全体を形式として考え過ぎる」と非難したとしても尚、それは人生自体をそう考える事は形式的で物足りないと捉える価値でしかないのだ。その事にまず気がついておく必要がある(そうでなければ以降私が書く事の意味を捉え損ねるだろう)。
 人間は他者全般に、それがどんなに気心の知れた家族であれ他人であれ、最終的にはある他者はある感情や気持ちを喚起する存在であるという内的な規定なしに接する事は出来ない。端的にそれは精神病理的に分析しても(私はその種の専門家ではないが)普通の事である。
 と言う事は、我々は誰しも他者へのそういった認識の上で意思疎通しているわけであり、それは行動原理的には社会学的に分析し得る事であるとか、色々に捉える事は出来るが、もっと日常的な事実であり、文学等は全てそういった日常的な自己と他者との遣り取りの中から書かれているものである。
 だから我々は他者と接している時にはその特定の他者と接する時にしか発しない内的な他者像への査定と認識と、それを自分自身で「信用している」とか「尊敬している」と規定し得る何かを持って相手へ臨んでいるのであり、その瞬間は勿論の事、一人で物思いに耽ったり、考え事をしている時でさえ素の自分である、ということは在り得ないのである。
 何故なら一人で居る時には次に誰かと、或いは何らかの集団と一緒に居合わせる機会を想定して、その時の為に自分自身で外面的に自分を他者一般に晒す為の自己を模索しているからである。
 しかし人間は誰しも何らかの家庭環境とか生育環境から自らを社会に同化させてきたのであり、その人間形成期に於ける家庭環境や育成環境(それは地域社会から、どういった他者と出会ってきたかということ迄含めた)に多大の心理的影響を蒙っている。それは端的にどの個人に於いても何らかの形で固有のバイアスを持って社会に臨んでいるという事以外ではない。
 どういう性格でどういうタイプの職業の両親や育ててくれた人と関わり、その過程でどんな教育的な訓戒やアドヴァイスを得てきたかという事は多大の人格形成に預かっている。そしてそれは各家庭、個人毎でも全て違う。当然本人の性格とか資質といったものも多分に作用しているが、その個人の性格や資質は、あくまでどういう経緯で育っていったかという事実関係とかその性格に大いに影響を蒙っているのだ。
 しかし当然のことながら他者とはどの人間も心の中に抱いている全ての他者への感情を言葉や態度によって示す事はない。こちらもそうであるなら向こうもそうである。だからこそ相手に対してある相手に対してならこういう事は気兼ねなく言えるし、こういう事に於いては信用出来るし、こちらに対する接し方でも信頼出来ると査定している。その人に拠って違う接し方と心の置き方こそが私が形式とか価値と呼んだものである。
 そしてそれは青年期にはやはり大人になる迄育てて貰った両親からの影響、例えば幼い頃から躾けられた事から教訓的に言葉を通して伝えられた事等が大きく自分自身の判断(世界や社会内の事、対人関係の全て)に逐一左右している。両親や育ててくれた人の持つ社会観や境遇から得た彼等独自の世界観が青年の心には深く影を落としている。
 しかし中年の秋も深まっていくに連れ、自分自身の青年期に経験した事、体験した事の方が両親や育ててくれた人達からの影響より大きくなっていく。
 私が形式とか価値と呼んだ事は従って何か言葉上での観念とか概念とかだけでなく、勿論そういった言葉上、観念上、概念上での理解も含まれているものの、それを部分とする様なもっと大きな出会い、つまり身体的であり、体感的であり、痛みや悩み(これも精神的且つ身体的肉体的でもある)の蓄積といったものである。要するに頭の中だけの事ではないという事である。
 それは記憶に刻まれている。どういう体験内容、どういったコミュニティに親しんできたかといった事が判断や思考の契機となっている。
 例えばウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で最終部で触れられているスペクトル盲に就いて、私はあの図を見るとまず先にアヒルの形として目に飛び込んで来る。しかし私とは逆にウサギの形として目に飛び込んで来る人も居るだろう。それはその形の認識に対して私個人の経験内容とか、出会って来たものの内容とか種類とかその出会いの性質や性格に拠るものと思われる(それは精神科医の人も私があるシンポジウムに参加して質問した時にそう返答されていた)。それは知覚や判断の私自身の否定し難い傾向を記憶内容が司っている証拠である。
 だから価値観念的な事は青年期は両親や育てた人達の価値観念的なバイアスに拠って先入見を刷り込まれている訳だから(それは人に拠ってはかなり老齢に達しても拭い難く残存している場合すらある)、そこからの自己自身での独立という意識がかなり青年期を過ぎてからは重要となってくる。率直に言って人を育てるという事は自らの価値観念のエゴイズムに育てる相手、つまり子供を巻き込んでいくという事以外ではないのだ。
 だからその洗脳に近い形で刷り込まれた観念自体を自己対象化して、第三者的な目でメタ認知し得た時初めて大人の判断というものを持つ事に成功する(その点で幼形のまま中年を迎えている人が意外に多いという事が一つの日本人の精神的問題でもあるのだ)。
 この様な認識はある意味では発達心理学などの分野で専門的に研究されているかも知れない。しかしここからここ迄が哲学で、ここからは何学であるという認識も、実はかなり個々人で異なっている。どういう形で哲学と関わっているかとか、それは哲学でなくても医学でも心理学でもどの様な専門の領域でもいいのだが、それはかなり考究していく際には揺らぎとか大きな振り幅があったっていいのである。
 その極めて社会制度的な職業分担的な規制が強ければ強いほどその学問や専門分野にとっても、その事に関わる個人にとっても、その規制を外部から観察出来る一般の人達にとっても不幸な事ではないだろうか?
 その仕切りの様なものをどういう立場の人達であれ感じ取っているのなら、その事自体も問題とするべきではないだろうか?
 そして今回の結論としては、その様に対人関係的には家族から他人の友人や知人と接する際にも、その都度の他者としての相手へのこちら側の認識に応じて、その接し方の違いに於いて我々は人間関係の形式とか価値に自己自身を賛同させ、相手とその対自的賛同の地点に導く様にしている、という意味ではTwitterの対人関係が自己固有のタイムラインを保有してそれを常に眺めているにも関わらずフォロワー同士でレスし合う場合には、明らかに向こうも又自分と「同じ様なタイムラインを眺めながら」レスしているのだ、という幻想にツイートする行為自体が乗っかっている事がそれを象徴している。しかし向こうはまるで自分とは違う(多少重なった共有し合うフォロワーやフォロウしているユーザー<ツイーター>は居るにせよ)タイムラインの内容でこちらに接しているという事を忘れるべきではない様な意味で、向こうは向こうでこちらが向こうと共有していると思っている価値観念や形式とは違った価値観念と形式で接して居るという事なのである。
 そしてだからこそ、相互に素の自分というもの自体も対自的にも対他的にも幻想なのである。何故なら私は一人で居る時も誰かと一緒に居る時はどういう風に相手から見られているか、周囲から感じ取られているかという事の不安や疑問の中でしか一人で居る自分というものを意識する事は出来ないからである。つまりそういった他者一般、或いはその時々で特定の他者と接するという社会的行為の人生上での散発的ではあるもののかなり人生の大半の時期を持続しているそういった接しの在り方への自己自身からの認識からしか、一人で過ごす時間の意味を特化出来ないからである。

Friday, October 14, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第六章 存在の確信には羞恥があり、存在の認知には時間がある

 私達にとって極めて重要な事実としての個としての社会性は羞恥にあると言ってもよい。だからこそ本論では理解と他というレヴェルで考えてきた。しかしその社会的個や個の社会内での羞恥はもっと根源的な羞恥によって包まれている。それは何か?
 それは我々自身の卑小さである。それを誰しも理解している。否理解以前的に存在レヴェルで確信している。我々の力は限られている、世界に与えることの出来る力など高が知れたことだ、という風に。それは社会内的なことだけではない。もっと世界、地球、宇宙内での自らの存在に対する余りにも小ささに対する覚知によってである。
 古代の人類は或いは宇宙という形で我々が実感するものは神であったかも知れないし、その神という存在はもっと恐れるべき何かであり霊力的なことであったかも知れない。それは洋の東西に関わらず我々自身の非力に対する覚知に於ける存在し続けたであろう我々には計り知れない力である。只現代人はそれをある程度科学的認識で理解出来るだけである。自然の力自体のどうにもならなさは東日本大震災を経た日本人である我々には当然理解出来るし、世界中で何らかの形でどの民族もそういった経験はしてきている。それが神による怒りであると古代の人類の様に即座に判断しないだけである。
 カントの「判断力批判」では崇高さという形で自然に対する畏怖の念は汲み尽くされていた。その崇高なることは専ら我々にとっては空間的なことからである。
 最も論理的に割り切れないと感じさせるものこそ空間である。それは私が今居る部屋という空間ではない。それはあくまで仕切られた空間であるが、その仕切りを作っているのはもっと広い空間であり、それは無限に地球上に広がっている。
 だから空間こそが最も非言語的であると我々は知っている。それを表現上で最も巧く反映させているものこそ絵画である。絵画は人類による空間恐怖をさえ誘引する空間の持つ非論理性、エロスを存在として我々が認めつつ、しかし言語的思考者としての我々自身の存在と、その空間的無限性との間に媒介される盾の様なものである。
 だから逆に我々にとって最も論理的に理解出来るものこそ時間である。時間とは時間自体の感覚によってであるよりは、より言語的認識、言語的思考法それ自体が生み出している。端的に論理自体が時間を作っているのだ。論理なしに我々は時間自体を認識し得ないだろう。それは何故か?それは過去と現在と未来という最も基本的な思惟自体が論理空間上での秩序だからである。
 勿論永井均が考えている様に常に今だけが我々にとって最優先されている。しかし今意識を生じさせているのは過去があるということ、記憶の上で想起される全てが「過去」という名で呼ばれ得るという覚知なしに我々は今を理解することは出来ない。又今という意識は「これから」という意識によっても支えられている。今がこれからを支えているのか、これからが今を支えているかと言えば両方言えるかも知れないが、何か今している行為自体が常にこれからを志向している。従って行為を支える欲求と意志がこれからという意識を作っているし、それが心の中に存在すればこそ我々は今を特化し得る。
 そしてその時間認識、つまり想起され得る過去と、今している行為に於いてこれからのことを考えられ得る今という一連の連なり自体を我々はたまたま時間と名付けている。
 空間は常にある地点より先が想定される。それをカントは背進と呼んだ。従って全体として思い描くことがどうしても出来なさが発生してしまう。常に向こうがある、先があるという風に。そしてこの全体として思い描くことの出来ないという直観こそが無限性の母である。これが無限性の理解を可能にしている。
 それに対して時間は違う。時間は確かに空間同様その先はある。どんな過去でもそれより過去はある。しかし空間の様に「行く」ことが出来ない。勿論何億光年も先に空間的にも到達出来ない。しかしもし何らかの乗り物があれば可能だと空間なら想定出来るが、それが時間では出来ない。尤も現在ニュートリノが光より速いと立証されつつあるから、それを応用すれば我々にタイムマシーンさえ作れるかも知れないとまで言われつつある。
 空間が概念化されて感じられるのは天文学的な意味で夜空を見る時かも知れない。そこでは遥か彼方の銀河まで見渡せる。しかしそれは既に我々が概念的理解を得ているからである。そしてそれは言語的認識、言語的思考力によってであるし、それが時間を生み出しているとしたら、その生み出された時間認識によって実際には旅行することの出来ない銀河系の彼方をも図式化することが出来るし、想像上の旅行を試みることも出来る。
 その際には広大な空間を目の前にした存在自体が抱える自らの卑小さに対する羞恥はない。従って広大な空間自体の存在の認知には時間的理解、つまり言語的認識と言語的理解の産物が関わっているのだ。
 だからグランドキャニオンであれグレートバリアリーフであれ、広大な空間を目の前にして我々が自らの存在の卑小さ、つまり物理的卑小さを確信することが出来るが、それはそれだけ自らの身体の小ささを実感させながら、その認知に於いて自然全体へ羞恥的感情を呼び起こすことをカントは崇高さという語彙で示したのだ。
 ともあれ空間は時間と違って時間が経たなければ来ない未来ではない。既に現在存在する。只遥か彼方に行くには時間がかかる。そして銀河系全体を俯瞰する様に空を見上げること、銀河系の図を描くことは空間全体を認識すること、そこに現在認識が介在しているが、それを一瞬で俯瞰出来る様に鳥瞰するのだが、時間はそれが出来ない。それにも関わらず時間さえ中島義道が指摘している様に「時間を空間化」しつつ我々は図式化する。そうすることで過去・現在・未来の前後関係、先後関係を把握し、時間の全体を、ある期間、例えば我々の人生とか要するに区切られた単位として保険、遺産相続その他の必要性などから考える。
 しかしやはり未来は決して来るとは言えない。それまでに世界が消滅する(例えば地球自体が巨大隕石と衝突するなどして壊滅するか、我々人類全体が絶滅するかも知れない)可能性もある。そうなっても時間自体は、我々が把握する認識された時間は存続するだろう。しかしそれは概念理解可能な存在者の不在の時間であり、図式化することによって我々が我々自身の未来の為に役立てるものではない。ここで矛盾が明確化する。つまり我々は常にありもしないかも知れない未来を想定してしか言語行為が出来ない、ということである。だからこそ我々は記憶されたことを過去としてそれが現在に連なるという理解で、やがて未来が来るものとして全ての言語行為を行う。言語的認識、言語的思考には論理が必要であり、論理的理解が時間を作り、それに従って我々は同僚や上司部下に仕事を依頼したり命令したり、命令されてそれに従ったりする。
 時間は論理的思考が作り、その論理的思考内での時間認識に沿って未来には消滅しているかも知れない世界内部で(実際何時かは世界も地球も消滅することは分かっていて)あれこれ未来への意志、願望を相互に語るのだ。それは仕事上での建前であると言っても、それは建前的に語るという本音であり我々の意志と願望なのだ。
 全ての他者に嘘だけをついて虚偽的報告する成員が居たとしても、それはあくまでそうすることで生命を繋いでいる以上そういう欺瞞的生活自体が本音である。生きる為の本音である。従って嘘をも含めた言語活動全般を行うことそれ自体が、時間認識を論理的把握から発生させつつ全うされる我々の生きていく上での唯一の方法であり本音なのである。
 だからこそ逆に時々旅行という空間的移動をしたくなる我々にとって空間だけが論理から逃れられる唯一の世界の構成要素であり、それは明らかに構成要素としているものの、唯一論理的に割り切ることの出来ない存在レヴェルのメジャーな存在の謎であり、我々は太刀打ち出来はしない代物なのである。そこから我々は卑小な存在である身体にあらゆるリビドーを含めた欲求を抱いているという羞恥的事実を改めて実感し、身体という物理的存在事実にエロス的救いを求め、時間に対する待ち切れなさ、或いは悠久の時間内での余りに短い一生を覚知しつつ、空間だけはしかし今現時点で遥か彼方には行けないことを知っていても、同時に自己身体が存在し得ている様に共存していると太刀打ち出来ない代物を時間と対抗する為の味方にするのである。それはそういう一種の存在者の羞恥的性格による気休めなのである。

Sunday, July 10, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第五章 理解と距離2

 既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったことが了解される。ある意味では人間の変化は人間が考える主体であるが故に「彼は変わった」と思っていても、そこに「そもそも彼はああいう風に変わる要素があった」と判断する。しかし今回の東日本大震災は少し違う。尤も科学が進歩すれば、その時は「やはり今となってはあの地震は予知し得たことだった」となるかも知れない。
 ガブリエル・タルドによる「模倣の法則」に於ける<歴史上の幾つかの原初的発明とその模倣>(85~89)にもよく書かれているし、或いはダニエル・デネットによる「ダーウィンの危険な思想」中の第四章3回顧的戴冠:ミトコンドリア・イヴと姿の見えない起源(P.134~140)にもよく書かれているのだが、要はリチャード・ドーキンス語ミーム(「利己的遺伝子」)に近い行為模倣的伝播と遺伝的伝播は内的メカニズムに於いてはいずれも、まさに「既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったが、そうなってしまった現在から、そうなる以前の状態があることを何らかの形で知り得た段階で、どこかで何らかの偶然(的契機)がある、と認識、理解することが出来るということに於いて相同だ、ということだ。
 勿論それがどの地点であったかということを究明することが、まさに人類がどの地点で言語行為を恒常的に慣用させていったかということを特定するのが極めて困難であることと同じ様に困難だし、デネットの言う「誰をミトコンドリア・イヴとするか」はどの様な形質とか表現型の元祖とするか、という性質の差への着目に依拠する。
 タルドの言う食肉用であった馬を乗用にした地点の特定に於ける困難さとは確かに性質は異なる。タルドの言う横の遺伝(収斂進化もその一つである。その点はRichard Dawkins Mount Improbableに詳しい)も縦の遺伝(それは同じくドーキンスの「祖先の物語」に詳しい)のアナロジーはしかし、デネットの言うある一点に於いて私達に確実な真理を伝えてくれる。 
 それは全く同一な他者は存在せず、他であること、他者とは即ち一つの個、或いは自己にとって「異」性そのものでしかない、ということである。
 アナロジーは同を基本として普遍性を、「異」性は分化・細分化を志向することは言うまでもない。だが少なくとも理解とは「異」性の持つ距離を前提とした、その無化と言ってよいだろう。
 或いは少なくともその努力の結果の「まるで距離がないことに様にしか感じられない」という心的状態であることだけは間違いない。

Sunday, June 19, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第四章 存在の形而上性、私の形而上性、存在の記号性、私の記号性

 私も存在も名詞であり記号だ。私の身体存在の外に私は在るか?答えは是(ネー、イエス、ウイ、ヤー、ダーetc)である。
 「私」と一般に言う時、それは私の身体の存在より、より意識、或いは意識内容(思考や現時点での知覚内容、記憶、感情等全ての心的作用)のことを指し、それは「心」とはとどのつまり脳が生み出している、という見解が脳科学者・認知科学者をはじめ心理学者や、より機能論者及び唯物哲学者の採り得る態度である。
 しかし形而上学者はそう考えない。幾らfMRIで説明されても、それは科学的認識ではあるものの、哲学的真実ではない、と考えるからだ。
 しかし「私」を思考や認知の存在事実に対する記号だとすれば、やはりそれはもう一度身体存在レヴェルに問題を戻すことによって一つの大きな命題を得ることは可能となろう。それは「心」とか「魂」とか「気持ち」とか「意識」とか、それ等は我々の身体を離れても(つまり消滅しても)今と同じ様にあり得る、つまり(今)の様に存在し得ようか、という命題である(これはカントも考えていたし、カントの「純・理」を分析したP.F.ストローソンも「意味の限界」に於いて考えていたことである)。
 ごく自然科学的事実を持ち出せば、それは“あり得ない”の一言で済まされるが、それでは私達は納得しない、というところにこそ、実は自然科学(形而下学)以外に形而上学が求められる由縁でもあるし、哲学や形而上学自体も又、何故我々はその魂の不滅が自然科学的にあり得ないということに納得しないのかということを考究する必要がある。
 つまりその納得し得なさこそが哲学を私達に生じさせた理由の大きな一つである、と我々は覚醒することによって、その納得し得なさが苦悩を生み出してきたという事実にも向き合うということである。
 多分にこれは既に宗教の存在理由への問いとも重複する。苦悩の除去の最大のメソッドは宗教で在り続けてきたからだ。
 世界の中の事実という観点を持ち込めば、「私」も又一つの存在事実を示す為の記号でしかなく、心理的には私達はその記号、例えば名前、或いは職業をも請け負い、背負い生きる。
 しかしそれは外的にも確認され得る客観的事実でしかなく、我々の内的な心では「私」とは記号ではない。ある「私」という記号(存在事実としての)を生きるこの「私」の感じ、或いは内容の全てである(私は私しか知らない多くの事実があり、それは一人の他者に全て告げることも出来ないし、それをする必要もない)。
 この「感じ」と内容の全ての反省的意識を取り敢えずここでは「私の形而上性」と呼んでおくこととしよう。するとこの「私の形而上性」は明らかに私自身からの私の生、人生、生きていることの承認ということになり、とりもなおさず私自身の側から私は私の生を「私」という記号、つまり存在事実へと照応させていることとなる。
 このこと自体を私が「私の存在承認している」が故に、「存在の形而上性」と呼ぼう。つまり「存在の形而上性」とは「私の形而上性」を通して私によって承認された私以外の全ての社会成員、或いは存在者からの承認を私自身が請け負う地点で得られた私に対する唯一の記号であり、それは私以外の全ての存在事実としての記号と等価であると私によって認められ、それを他者も私同様に認めることを私から期待もするし、他者も又私に対しその承認の下で私を理解する、そういう場である。
 これは少し古いがサルトルが言った言葉であるが対自的な意識を外在主義的に言う、つまり客観的に言うことと同じである。しかし存在承認自体には必ず価値認識が伴う。そして価値認識は実在の生活を営む中から生じてもいるから、世界の中の「私」という「存在の記号性」と、その「私」自身を生きるという事実の承認という言わば外在的視点、即ち対自己認識であるところの「私の記号性」という二義的な、或いはその二つが一致している地点に「私」が存在している、と言うことが出来る。
 勿論これは私によってそう承認されてもいるし、その承認が私以外の全ての他者、存在者(勿論これはハイデガー的な現存在である)に承認されることを私が見越してもいる。
 私は私の存在事実を私の外側の全てを日々創っている主体として規定し得る(勿論規定され得る形で私は私をそう規定する)。
 この二つの事実(私を私が外側から規定することと、私が私自身そういう存在事実として内側から生きることの二つでもあるし、私自身による私自身<の存在>への承認と、私の私以外の他者、存在者からの承認を私が覚知し得るということの二つでもある)を不可分のものにするものこそ存在に他ならない。
 しかしその存在は必ずしも実在の身体に縛られはしない。そのこと自体が極めて重要である。何故なら哲学はそこを自由にし得るか否かで全てが決するからである。
 そしてその認識を得ること自体が存在論が倫理的命題ともなり、要するに価値論、価値認識論と存在論が不可分でしかあり得ないと規定するところのことでもあるのである。

 要するに形而上学は価値の学問だと言える。しかもそれは「私」の内側(「私」という記号で示される時に、個々内面で感じる固有の感じを示すのではなく生きることから)から考える。社会哲学は世界の中の存在事実(或いはその承認)から考える学問と言ってもよい(勿論そう簡単に二分は出来ないこの両者ではあるのだが)。

Saturday, May 28, 2011

存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第三章 羞恥と欺瞞

 眼差しを向ける側は向けられる側にその事を気づかれたら、何故自分という存在に関心があるか問い質され得る。これは眼差しを向ける側が向けられる側である相手に対して主導権を与えてしまうことである。
 これを極力回避したい欲求こそ羞恥と呼んでいいであろう。何故ならその様に問い質されることは内的な他者への関心を告白せざるを得なくなるからだ。
 内的な他者への関心とは要するに自己内の欠落部分への覚醒を伴っている場合が多いからだ。
 本来感情とは情感性や情緒的側面からのみ認識されがちであるが、功利的判断が後押ししている側面は意外と強く、その二つを容易に分離させることは困難である。
 価値が個に於いて自分以外の誰でもそう思えるだろうという判断自体が「そうである筈だ」と「そうであって欲しい」がそう容易に分離させ得ぬのと全く構造的には相同である。
 その意味では羞恥も又功利的感情とも密接である。
 身体を取り巻く習慣から言えば他人に裸を見られることに於ける人類学レヴェルの羞恥も、他者へ眼差すこちら側から他者へ向ける関心の根拠の説明に伴う羞恥、つまりそうではないことに対する偽装し得なさ等と、私的領域への認知を特定の他者に共有させてしまったり、他者一般(公衆とかの)に周知となること自体を回避したい欲求は、本質的に自己内功利的防衛性の保持自体の暴露という形を取ることと同一の事である。
 相手に裸を見られることは自分の身体的アイデンティティの無防備に対する羞恥を喚起し(後者)、相手にその裸を見たいという欲求を知られるということは覗き者の好奇心自体を知られる無防備に対する羞恥を喚起する(前者)。
 自分自身の嘘偽らざる真意が読まれることとは、他人に裸を見られる羞恥の表情を浮かべられる事によってである。

 意思疎通上の相槌とは理解し合えたことに「する」サインだが、それは相互に相互の羞恥を喚起させない様にする了解である。だからこそよく分からなくても分かったこととして進行させていく時、途中から本当に分かる様になることもあるのだ。しかしこれは相互に羞恥を喚起させない形でのみ可能なのであって、この覗き者と覗かれ者との間の相互羞恥によっては成立しない。理解とエロスの問題は幾分距離がある。勿論両者は無縁ではない。しかしこの二つの間には幾分のクッションがある。それを今後の命題にしていく価値はある。

 相互に相互の羞恥は悟り悟られることは、相手から羞恥心を表情などによって表示されることによって実感される。つまり相手にこちらが相手を理解したということを表示しない限り相手はこちらに対し羞恥を喚起しない。だから相手を理解した旨を相手から示すことを要請されぬ限り、それをおくびに出すということはある意味ではこちらの相手に対する無防備に起因する、と言ってよい。
 これを容易にはしないことがマナーとなっている場合が社会通念上では多い。
 しかしこのマナーを敢えて無視するところに友情とか個人的親密な感情が発生する基盤を作っているとも言える。
 だから逆に言えば相手に羞恥を喚起させずに相手を理解している旨を示せるかということがある種の「付き合い」に於ける大人性を示す度合いになっている。
 つまり相手にリラックスさせてこちら側の羞恥を喚起させることを相手に言わしめる、つまり気楽に何でも言わせる雰囲気を作るということが相手からこちらに対し大人性を発揮することである。これは対人処世術的民間心理学の定石である。
 だからマナー無視というリラックスを相互に暗黙の内に確認出来るというところに社会機能維持的マナー踏襲の中で唯一の憩いであるところの自然人的付き合いを相互に持つ心の余裕を人生に与えている。そしてマナーを一切無視しないという前提の下では信用とか心を許す事態自体を封鎖していくという決意があることになる。
 これは一度親しかった者との間で友情的な関係を維持していくことを解除していく際には持たれる態度であり、意志表示である。
 私は意志表示せず只連絡を怠る様にだけする。
 連絡しないということが最も容易に、しかし無駄な傷つけ合いをせずに交流自体を解除していくことを可能にする。
 ここら辺は哲学的な叙述ではなく友情論であり、対人処世訓的随筆である。
 しかし哲学にも実はそれが必要なのである。つまり俗な感情の遣り取りを注視してから、再び存在論レヴェルの命題に回帰するということに意味があるのだ。
 次回以降は存在の形而上性と記号性、そして理解の持つ「異」性への着目に命題論を移行させていこう。

Monday, May 16, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 インターミッション①アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存

 書籍刊行物は何時の時代も残すべき価値のもののみをミーム的に出版者・編集者が断続的に継続的に誰かの言葉を出版し、出版ビジネスとして成立させる様に選別者達も世に送り込んできた。

 しかしウェブサイトはそれとは基本的に全く異なっている。例えばツイッターはツイーター各人異なったフォロワーが居て、異なった人達をフォロウしている。あるツイーターが死ねば、じきそのツイーターのフォロワーはそのツイーターをアンフォロウするだろう(尤もかなり以前にフォロウしていた人なら一々アンフォロウする手間をかけずうっちゃられておかれるだろうが)し、その死したツイーターによってフォロウされていて、ツイッターとして展開していたTL画面は誰にも除去されずに、ウェブサイト自体が消滅しない限り、永遠に表示され続ける。その死者ツイーターのフォロワーが生存し続ける限り、少しずつTLの画面を変えながら、しかし全てのフォロワーが死ねばある時点から全くの静止画像となって消去されずに永遠に残ってしまう。

 しかもツイッターのツイートは良質のもののみが残されるのではなく、全てが残される。そういった意味ではツイッター上での文字の永続性、消去不可能性は非ミーム的なものである。

 このウェブサイトの非ミーム性は、しかし同時にユーザーにとっての使い勝手(利用しやすさ)という面では、完全にミーム的に全てのツールを広める。
 つまりウェブサイトとは、それ自体TLそのものは全て非ミーム的に消去され得ず、送信記録を永続せしめるが、そのダウンロードのメソッド自体は常にミーム的な対ツール的なランダムアクセスなのである。
 これを「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」と呼ぼう。

 この事実からもあらゆる出版ビジネスはその大半が電子書籍化していかざるを得ないだろうが、それはウェブサイト的無限のバックグラウンドを地とする特権的図となってゆくであろう。
 しかしこういった無限のバックグラウンド的地に於ける図の在り方は、そういったウェブサイト的地のなかった時代の図とは自ずと変わっていかざるを得ない。
 ウェブサイト的地を前提にしたミーム化された図は、現在の一般書籍オンリーの時代の文字及びその配列とは自ずと異なった性格を帯びていこう。
 それは一言で言えば、全人類に共通した文字情報のニーズではなくオタク的クラスターのニーズに即応した個別的マニアックなミームの林立、乱立であろう。この点では東浩紀の「動物化するポストモダン」の読みは正しい。

 しかしやがて時代の変遷と共に、無限の永続的情報という非ミーム的地への我々による慣れから、再び意味化がなされていくことだろう。それは東語の「動物化」からの再意味化である。そしてその時かつて乱立していたミーム・クラスターの中から幾つかの纏まりが形成され、新たに古典化していくだろう。

 言葉の感覚、意味の在り方は現在も日々変化していっている。それはミーム的なスピードの速いものほど早く廃り、遅いものほど長く残るという古典的法則を守りながらも職種的階層的に併存している。
 つまりある職種や階層クラスターで永続的なミームは他のクラスターで永続的なミームとは邂逅し難い、ということである。そしてそれはかなりしぶとく容易には相互に融合し合わず、不干渉的に非関係的に併存し続けるだろう。
 しかしその異質のクラスターへの性格づけを大別させ続けるものは、職種・階層と言っても、ある職種が人格のかなりのパーセンテージで充足し得る人々と職種はあくまで生活の為の方便である人々とで大きく分断されてゆくのではないか、と私は予感するのだ。
 これはある意味では権威主義(権威追随)者と反権威主義者のクラスターが相互に相手の是認をし合わぬ相互に自分達を是とすることを譲り合わぬ状況の長期永続を意味しよう。
 私は要するに決して邂逅し合わぬミーム達を「生き方」に於ける価値観、そして社会に対する自己の適合させ方に対するヴィジョンの質的差異(異)に於いて考え予想するのだ。
 端的に人生観の違いとは、ニーズの違いを生む。そして仕事観も娯楽観も社会義務観も国家観も郷土愛観も民族観も大きく違えさせよう。
 そのクラスターの各個別的性質の違いは、大まかに分けて次の様になるのではないか?

① 集団、及び組織内協調主義且つ他者相互不干渉主義
② 一匹狼的単独行動主義且つ他者相互不干渉主義
③ ①②共、①②の併存に対する容認派と非容認派とへ分派していくだろう。

これはある部分では①はミームをより求め、②はより非ミームを自然とする考えへと落着し、①の②への容認派、並びに②の①の容認派はその中間を普通とし、非容認派は①の唯ミーム派、②の唯ミーム派ということになろう。
 ミームにも意識的ミーム(意味に対して自覚的、意識的)であるものと無意識的ミームとがあり、最初は後者であり、やがてその中でしぶとく長く残っていくものはやがて前者へと変貌していく。

 「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」は一方で我々は誰しもが永続的にメッセージを発信し且つ残すことが出来る一方、それとは別に多くの人々に受ける情報内容(便利な情報か、書き手の個性)を益々追い求めているということだ。
 誰しもが公共掲示板に書き込めはするが、エリートの書き手を別に求めるという偶像希求はミーム的魅力を別に必要だ、ということだ。しかし誰しもが容易にメッセージを送信可能なアップローディッドの非ミーム性が地であるウェブサイト上では皆がミームと認めるものの様相は上述の様に非ミームともずれた異なった存在にならざるを得ない。そしてそれは出版刊行物(紙による)オンリーであった時代のミームとはかなり異なった質の情報となっていくということは容易に想像出来る。

Tuesday, April 26, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第二章 理解と距離

 元々私達は相手の顔色・表情・仕草である程度なら相手の意志を読み取れるし、大体のこと、つまり機嫌がいいか悪いかくらいは察知し合える、と知っている。
 しかしそのことは直ちに全てを了解し合えていることを決して意味しない。それどころか相互にそれ以上詮索し合わぬという相互不可侵了解によって必要以上の相手への問いを封殺している。勿論突然相手が血相を変えて傍らにいるこちらのことを顧みず、地団駄を踏んだり、憤りのあまり倒れ込んだりすれば、「どうしたのか」という問いを間髪を入れず発するだろう。しかしそうでない限り、こちらに何らかの問わねばならぬ理由がない限り、私達は問い質す理由を、多少異変があったと察知した場合すら知ろうとしないだろう。
 勿論親密さ、相手との対人関係の利害の深さにも依存し、その「問い質し」の決行の有無はそれに左右されよう。しかしいずれにせよ他者の事情を、自分の事情の様に隅から隅まで知ること自体は既に我々の胸中では試みることすら断念することこそ、他者への配慮と判断している。
 つまり配慮とは知りたいという欲求の封殺、つまり了解範囲の限定化、或いは全的了解の断念によって成立しているのである。それは逆に言えば、「了解し合う」こと、つまり相互了解をし合う(つまり相槌を打ち合う)こと自体が全的には「知り得ない」「分かり得ない」ことを相互に容認し合うことに他ならず、他者理解が相互に「知り得なさ」「分かり得なさ」の強制的納得によってのみ最終的には成立することを私達が誰との間でしようとも、相互に了解し合っていることを意味する。
 従って親しき仲での相互理解が勝手知った間柄での「知ったことにする」「分かったことにする」という言わば半ば欺瞞的な納得の上に成立していることを意味し、本当は何ら理解し合っていなかったのだ、ということへの相互覚醒をいつ何時招来しないとも限らないある脆弱さを理解が兼ね備えていることを意味する。
 従ってある部分、同僚間、友人間、いや夫婦間の信頼さえ相互理解を持続すること自体が極めて欺瞞的であり、社会的には形式的な契約関係の上の成立していることが了解される。つまりそれはある意味ではいつでも解除し得る関係であるとも言える。
 勿論通りすがりの旅先で道を尋ねる地元の他者等も含めて実は、全ての他者との間にも、当然のことながら強制的欺瞞的納得が親密な間柄の様に長期持続的ではないなりに、単発的、瞬発的にそれが発揮されているのである。
 つまりその相互不可侵的欺瞞的納得自体への不服の断念こそが、言語行為上の相互理解の不文律なのである。
 又実は倫理とはそこから発生しているとも言えるのだ。
 倫理的判断、つまり私達が自然に他者へ必要以上問い質しを断念させるもの(それは警察や検察が被疑者に対して保持され得るべきもの)こそ、他者への配慮だとすれば、それはとりもなおさず全てを了解されることから派生する他者への羞恥を「私」が、私が相手から「私」に纏わる全てを追及されることで付帯する羞恥を、私が内的に想定し得る限り、相手も又同様の心理へと追い込まれるであろう、という類推によってである。
 その類推も実は厳密に言えば、「私」と内的なものの感じ方は違うかも知れない、という全的な了解の断念によって成立している。そこにも実は個的な内部での欺瞞的納得を私達は自分でも気が付かぬ内に適用している(相互了解の相互不可侵的「分かり得なさ」「知り得なさ」の半ば強制的欺瞞的納得こそが、その内的納得を齎しているのか、それとも逆に内的納得こそが他者との相互了解上の欺瞞的納得を齎しているかとの問いは無意味であり、同じ一つの納得の中の二つの顕現である)。
 倫理的他者への眼差しも思念も共に、私達のその内的相互了解的欺瞞的納得の「飲み込み」自体への懐疑心のなさによって成立している。これは永井均による「倫理とは何か」「翔太と猫のインサイトの夏休み」等での重要な視点である(恐らくそれ以外でも多くの哲学者達がそれを問うている筈である)。