Tuesday, April 26, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第二章 理解と距離

 元々私達は相手の顔色・表情・仕草である程度なら相手の意志を読み取れるし、大体のこと、つまり機嫌がいいか悪いかくらいは察知し合える、と知っている。
 しかしそのことは直ちに全てを了解し合えていることを決して意味しない。それどころか相互にそれ以上詮索し合わぬという相互不可侵了解によって必要以上の相手への問いを封殺している。勿論突然相手が血相を変えて傍らにいるこちらのことを顧みず、地団駄を踏んだり、憤りのあまり倒れ込んだりすれば、「どうしたのか」という問いを間髪を入れず発するだろう。しかしそうでない限り、こちらに何らかの問わねばならぬ理由がない限り、私達は問い質す理由を、多少異変があったと察知した場合すら知ろうとしないだろう。
 勿論親密さ、相手との対人関係の利害の深さにも依存し、その「問い質し」の決行の有無はそれに左右されよう。しかしいずれにせよ他者の事情を、自分の事情の様に隅から隅まで知ること自体は既に我々の胸中では試みることすら断念することこそ、他者への配慮と判断している。
 つまり配慮とは知りたいという欲求の封殺、つまり了解範囲の限定化、或いは全的了解の断念によって成立しているのである。それは逆に言えば、「了解し合う」こと、つまり相互了解をし合う(つまり相槌を打ち合う)こと自体が全的には「知り得ない」「分かり得ない」ことを相互に容認し合うことに他ならず、他者理解が相互に「知り得なさ」「分かり得なさ」の強制的納得によってのみ最終的には成立することを私達が誰との間でしようとも、相互に了解し合っていることを意味する。
 従って親しき仲での相互理解が勝手知った間柄での「知ったことにする」「分かったことにする」という言わば半ば欺瞞的な納得の上に成立していることを意味し、本当は何ら理解し合っていなかったのだ、ということへの相互覚醒をいつ何時招来しないとも限らないある脆弱さを理解が兼ね備えていることを意味する。
 従ってある部分、同僚間、友人間、いや夫婦間の信頼さえ相互理解を持続すること自体が極めて欺瞞的であり、社会的には形式的な契約関係の上の成立していることが了解される。つまりそれはある意味ではいつでも解除し得る関係であるとも言える。
 勿論通りすがりの旅先で道を尋ねる地元の他者等も含めて実は、全ての他者との間にも、当然のことながら強制的欺瞞的納得が親密な間柄の様に長期持続的ではないなりに、単発的、瞬発的にそれが発揮されているのである。
 つまりその相互不可侵的欺瞞的納得自体への不服の断念こそが、言語行為上の相互理解の不文律なのである。
 又実は倫理とはそこから発生しているとも言えるのだ。
 倫理的判断、つまり私達が自然に他者へ必要以上問い質しを断念させるもの(それは警察や検察が被疑者に対して保持され得るべきもの)こそ、他者への配慮だとすれば、それはとりもなおさず全てを了解されることから派生する他者への羞恥を「私」が、私が相手から「私」に纏わる全てを追及されることで付帯する羞恥を、私が内的に想定し得る限り、相手も又同様の心理へと追い込まれるであろう、という類推によってである。
 その類推も実は厳密に言えば、「私」と内的なものの感じ方は違うかも知れない、という全的な了解の断念によって成立している。そこにも実は個的な内部での欺瞞的納得を私達は自分でも気が付かぬ内に適用している(相互了解の相互不可侵的「分かり得なさ」「知り得なさ」の半ば強制的欺瞞的納得こそが、その内的納得を齎しているのか、それとも逆に内的納得こそが他者との相互了解上の欺瞞的納得を齎しているかとの問いは無意味であり、同じ一つの納得の中の二つの顕現である)。
 倫理的他者への眼差しも思念も共に、私達のその内的相互了解的欺瞞的納得の「飲み込み」自体への懐疑心のなさによって成立している。これは永井均による「倫理とは何か」「翔太と猫のインサイトの夏休み」等での重要な視点である(恐らくそれ以外でも多くの哲学者達がそれを問うている筈である)。

Friday, March 4, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第一章 羞恥と欺瞞

 世界が四人で構成されているとしよう。この四人共別々で勝手に考えている、とされるのが私達の住む世界での通念だ。
 しかしもしこの四人の脳が何らかの仕方で離れ離れになっていたとしても相互に全部四つの脳の意志が一つに纏められているとすると、この四人は態々会って話し合う必要がない故に、そういった脳の在り方をする世界では私達の世界での様な言語行為は人類学的にも進化しようがない。
 しかしたまさか私達の世界では四人の脳は別々で勝手に考え、その四つの脳が一つの脳として統括されるということはない。そこで私達は自分自身の脳からのみ世界の全てを把握し、その把握されたもの全てこそが世界である。
 それはある意味では他者の脳(脳は心と言ってよい)から、自分自身の脳(の中で考えていること)を容易に察知され得ぬという覚知を自分自身に齎すと同時に、他者の脳の中を読み(知り)得ないという事実を突き付ける。
 この時、例えばその四人の内一人が私だとすれば、私は残りの三人に対し、私の脳の中の全てを知って欲しくないという欲望を自然に持つ。何故なら私の脳の中の幾分かは、私が私以外の三人と渡り合う為に、その三人の脳の中を推し量ろうと画策してもいるからだ。私はその部分での私の思考だけは容易に私以外の三人には察知されたくはなく、他の三人のこと以外の当たり障りのない、私の脳の中の考えだけを、三人から察知されてもいいと考え、その様に、私以外の三人と接する様になるだろう。
 これを私の中に芽生えた羞恥と呼ぶこととしよう。
 しかし、私はこの私の中の羞恥が私以外の三人にもあるのではないか、と思う。
 そう思って私が三人と接すれば、三人共確かに、私が私の中のこの三人には知られたくはないと思い三人に接する様な接し方を、この三人は私に対して採る様に思える。
 この時私は確信する。私以外の三人にも私と同じ様な他者には知られたくはない羞恥があるに違いない、と。
 つまり私も残りの三人も恐らくこの様にして、相互に相手と接する。それは言い換えれば、私も私以外の三人も常に残りの相手全てには知られたくはない故、仮に相手がそれを知ろうと努めても、決して相手へ悟られない様にする部分が自分にも相手にもあることだから、結局「分からないこと」を相互に携え合って生活するということを意味する。
 それは痛さとかくすぐったさ、痒さの様なことも、積極的に告げる(痛さなどは仕事に支障をきたすからそうだ)ことを厭わぬ部分と、逆にそうではない(例えば電車の中などで好みの異性へ性的な感触を想像力等を伴って身体で感じたとかの様な)部分があることでもあり、告げずに済ます部分は概ね「分からないこと」となっていく。
 そして言語行為では「分からないこと」(他者に関しては)が相互にある、ということを、暗黙の内に容認し合う形で、全ての言語的意思疎通し合う様になる。この時「言わなくてもよい」権利を「プライヴァシー」と呼び、にも関わらず逆に、相手のプライヴァシーに就いて直接聞くことなく忖度し合うことを「駆け引き」と呼び、その「駆け引き」言語を相互に暗示し合わぬ限りで、相互に暗黙に容認し合うことを「取り引き」と呼ぶこととしよう。
 ここで言語的意思疎通を私達は相手にとっては「分からないこと」を相互に認め合い、その「分からなさ」(それは痛いので仕事を休みたいという請求をして(告げて)よく、そうしなければいけないことをも含めて)が相互に携えられているということを了解し合う(「分かる」)ことを通して、成立していることを知る。
 それをもっと簡単に言えば、言語的意思疎通とは相互に相手のことは全て「分からない」ことを前提に、ということは「分からなさ」を「分かる」こととして育まれる、ということとなる。
 これは私達の世界でのある部分では、四人の人間の脳が相互に一つに統括され得なさが必然的に齎す言語行為(言語的意思疎通)の発生論的必然性であると同時に、言語的成立条件としての論理的必然性である、とも言える。

Friday, February 25, 2011

存在と意味・第二部 日常性と形而上性 序・「語る」と「語らない」の並立から考える哲学

 私達にとって「語る」はどの様な意味を持つのだろうか?「語らない」の意味は「語る」の意味に規定される。しかしそれは少なくとも沈黙ではない。沈黙は一種の饒舌である、だからこそそれは「語らない」ことで何かを多いに「語る」。しかしこれは「語らない」の本質ではない。「語らない」の真性の性質はあくまで「語らない」である。
 本論では言語、或いは言葉を「語る」ことに起因させる。それはジャック・デリダが「グラマトロジーについて」で原(アルシ)エクリチュールから言語を考えたことと丁度逆のベクトルである。しかし本論では書くこと、読むことの本質も「語る」「語らない」の本質の規定から読み解くことが可能であると説く。
 要するに「語る」と並立された「語らない」はあくまで「聴く」であり「受け留める」であり「考える」であり「理解する」であり、「語らない」ことで言外のニュアンスを伝えると、ある種の日本人が得意な戦略だとされることではない。即座に応答しないということ以外の意味を「語らない」は持たない。
 しかしそれを語る前にやはり「語る」とは何かを考えていかねばならない。しかしやはりそれも「語らない」をも対比的に捉えていかざるを得ない。
 例えば「語らない」を「語る」を無視することである、と捉えれば、それも本質から外れる。何故なら「語る」を無視することは「語らない」時間に「語る」ことを期待する者に、その期待を拒絶する意味合いがあるからである。故にこれは「語らない」の真性の本質に逆らう。
 だから「語る」は「語らない」を含み込むのではなく、あくまで並立するのである。
 これはある部分では西欧形而上学に対する批判的立場でもある。何故なら西欧形而上学は「語る」ことの中に全てを含み込ませようとする意図でもあるからである。
 しかしそれでは既に我々のコミュニケーションの内実も、意志や自由や行為の本質も解明され得ない。そこで本論では東洋的なこととか日本的なこととしてではなく、もっとユニヴァーサルなこととして「語る」と「語らない」の並立に就いて考えていこうということなのである。
 だから逆に「語らない」が学問に対する芸術とか、経済に対する文化といった様な相並び立つ存在として「語る」の傍らに存在しているという価値観から言えば、「語る」の本質は常にそれ自体充分意味していることだけを、それ以上でもそれ以下でもなく「語る」という意味以外ではない。「語る」はあくまで、それだけで充分で、本質を余す所なく伝えることだけによって成立している。従ってそれは冗長性(これはドゥルーズ=ガタリによって「ミル・プラトー」で大きく取り上げられていたが)でも欠損でも未完成でもない。完成という試行錯誤すら無効化する様なある自立した結晶の様なものである。

 意味は行為によって派生する。意味自体が行為を突き動かすのは、意味了解を我々自身果たして後のことである。しかしその事実を我々はつい忘れる。つまり意味が行為を我々に急き立てる。しかし我々はそもそも赤ん坊の時にはいはいをして、次第に人の名を、自分の名を、挨拶を習得していく様に言葉を習得していく過程で、派生してくる意味を価値として受け取る。しかしその意味自体が価値として我々を呪縛して我々は大人になる。そして芸術家とは意義深い仕事だ、とか公務員は世間一般の人達の幸福の手助けをするとかといった職業倫理とか社会的使命とかいった生自体を意味づける定義を信条として生活していく。
 しかしそれは社会慣習とそれへの同化を果たしつつある私達の条件反射的社会行動から条件づけられた考えにしか過ぎない。だからこそ「語る」ことはその中で意味に支配され、次第に「語る」こと自体を、それ自体として受け入れる余地を失っていく。
 例えば職業であるから文章を書くとか、それは市役所で書類を作成することもそうであるし、作家であるから頼まれてエッセイを書くとかもそうである。しかしそれは意味を規定通りに一切の疑いを持たずに決められた行為の為に従属させているのである。行為自体は決められてなどいない。そして決められた行為に従属する意味などに意味はない。そんなものはない。あるのは只意味を作っていくべきである、ということと、行為自体に何らかの価値があるべきだ、ということだけである。
 何かの為に行為があり、意味があるのではなく、行為自体にするべき価値があり、意味自体に作られるべき価値があるのであり、行為と意味とは我々は存在しているということの証なのである。従ってそれらは無規定的に可能性として与えられているだけで、踏襲すべき体のものではない。
 行為が意味づけられたり、意味が行為によって立証されたり、それはそういう風に逆転を果たしつつ我々は生活しているが、行為自体に何かやはり最初から価値があった筈なのである。三輪車に最初に乗った時もそうであった筈だし、最初に隣のみよちゃんと遊んだ時もそうであった筈なのである。しかしみよちゃんは大人になり、自分も大人になり、そこで我々は意味から入って時間を節約しようとする。
 時間の節約は端的に、生活上で何か仕事をすることが、義務であるが故に、一時義務から解放されるオフの時間を安らぎあるものとして過ごそうという刹那的な人生の解放感への価値から派生している。しかし仕事自体に生き甲斐を見出せないのなら、それは義務ではなく苦役であり、拷問であろう。或いはオフの時間がオンの時間の辛さと憂さを晴らす為にのみ存在し得るのなら、それこそ一時の快楽でだけ人生を肯定しようとする儚い試みということになろう。刹那自体を追求しているのなら未だいい。しかしそういう生き方が出来る様になる為には全ての義務を履行して、全ての規制の価値を踏襲してかいなければならない。しかしそれが出来る者は極めて少ない。何故ならそれを可能化する為には限りなく生活上、経済力上のパワーを必要とするからである。
 それが出来る者を真に世間的俗人であるとするなら、その者の構成する全ての対話では「語る」ことの中に「語らない」ことも吸収させ得るであろう。彼のする「語らない」こそは全て予め意味化されたサインであろう。それはそれでそれが完全に成し遂げられるなら、それは俗人の極みであり、権力施行である。つまりそういった価値自体の、行為意味充足性自体の体現だけで生を送るとしたら、それは本論の主張とは全く真逆の、しかしそれはそれで極めて完成された意図的人生である。全ての無言はそれ自体沈黙としての言語として意味づけられている。
 しかしそれをし得る権力と、それを成し遂げられる冷徹さと、それだけを価値とし得る須らく完璧なる残酷でさえあると言ってよい保守性を保持し得ぬ者に、その理想を語る資格はあるまい。従って我々一般的な人間は「語らない」ことを完璧に意味づけられた沈黙として戦略として利用することを潔く諦め、肯定的な諦観、つまり俗人の極みが成し遂げられる否定的なまでの、ペシミズムの極致の、ニヒリスティックなまでに伝統的コードと有有職故実性に遵守した従順なる諦観を持てるだけの精神的ゆとりのない者には、創造的な諦観が必要なのである。創造的諦観とは、私は宮本武蔵の様には生きられない、織田信長の様には生きられない、坂本龍馬の様には生きられないが故に、人が言うことを聴く時も、自分の意見を語る時も「語る」ことだけでなく、「語らない」ままにして、結論を即座に提出することを控えて、常にエポケーを懐に忍ばせて、あるがままに他者存在を受け入れ、自己を他者に恣意的に構えることなく、生活していくことしか残されてはいない。
 これは本質主義と実在主義の一致にのみ、生を意味づけていくということに他ならない。そこでは当然プラトニズムへの懐疑、デカルト主義への懐疑、デヴィッド・ルイスの可能世界論への懐疑を持ち込まざるを得ない。しかしそれを持ち込む為に今一度それらの思想を我々の前に批判対象として提出させなければいけない。
 次回からはその都度そういった批判対象の慎重なる検証を旨として記述を行っていくことになるだろう。常に一人の批判対象だけを提出させるわけではなく、あくまで常に並行させて提出させ、批判対象の中にも肯定的部分、或いは価値再考的部分を見出し、我々自身にとって「創造的価値」のあるものとしてその都度修正して完成させる意図も必要であろう。
 取り敢えず本論では、「語る」ことの余白に位置すると思われる「語らない」時のことに焦点を当てて考えていこうと思う。そうする中で炙り出される「語る」ことこそが、真性の意味であり、冗長的でも欠損しているのでもないメッセージであると受け取ることが可能である。しかし「語らない」ことの本質には無駄を省くとか、先ほど述べた時間の節約とは当然相反する考えがある。それを理解する為に、まさに「理解する」とは何かという問いを次回から暫く関わっていきたい。

Friday, January 21, 2011

世界の影(インターミッション、詩1月17日作)

俺の歩く方向に俺の世界がある
俺の世界に俺自身は見えない
俺は気に入った景色をカメラに収める
そこに俺はいない
俺の影がたまに写り込んでいるだけだ
俺は俺を俺自身で写真には撮れない
俺は俺自身が見た世界の様に俺を撮れないし、見れない
だからこそ俺は歩くことが出来る
俺は俺が歩く姿を正確には知らない
外側から俺が歩く姿を見れるのは俺以外の人だけだ
俺は俺を誰よりも知っている
だが俺は俺の姿を誰よりも知らない
世界はどうなんだろう?
世界もまた俺の様に俺のことを一番俺が知ると言う様に考えることが出来るのだろうか?
世界にも俺が俺の前方を撮る時に写り込む影の様なものがあるに違いない
それは勿論地球の影が月に映ると言う様なものでもない
それはほんの影の中の一部だ

世界は恐らく考える 考えるからこそ世界に関わる俺たちを俺たち自身の考え以外で俺たちを動かす
世界の影は恐らく世界しか知らない 世界しか見れない
世界の影を俺も見たいだって
だって君は自分の影だって全部は知らないだろう
世界が世界の影を全部把握出来るなんてことないんだからさ
君も世界の影を見つめる前に自分の影への気がつかなさに気づくべきなんじゃないのかな?

Tuesday, January 4, 2011

<感情と意味>結論 懐かしさも作られるし、慣れも作られる<感情と意味・最終記事>

 毎日鏡で見ている自分の姿や顔形はいつもの「今日の顔」だ。しかし私は昨日の自分の顔も覚えているし、それよりもずっと前の自分の顔も覚えている。だから例えば三年前の写真を見ると、それよりは今の自分が大分年とっていると感じる。その途端に今の顔を鏡に映して見ると、その写真に見られる自分の顔よりもずっと老けていると知ることも出来る。
 つまり常に今はこれまでの姿の対比で感得される。毎日の顔の変化は余り気がつかない。しかし急激に老ける時以外でも、少しずつ毎日老けていくことは一年前の写真を見て感じる。少し前だとその変化は顕著に示されている。
 要するに懐かしいという感情は、そういったある種の肉体的変化と共に、今の様ではなかった過去の状態を思い出すことによっても作られる。そして今の状態が如何様であっても、過去から決別するかの如く、その状態に慣れていく様に我々は常に自然と考えも感じ方も移行させている。
 懐かしいという感情と、慣れとは対極のものかも知れない。何故なら懐かしいとはそれ以前の状態を恋焦がれているということであるが故に、現在の若干の否定が含まれているからだ。
 しかしにも拘らず恐らくこの二つは相補的でもあるのだ。何故なら懐かしさを一方で感じつつ、しかし今は今でよいと決然と考えることによって、全てを過去化しているのが我々の心の実態だからである。
 ある部分では忘れていたことを思い出す時には確かにそれが懐かしく感じられる。しかし昨日のことの様に克明に覚えていることは懐かしくはない。従って記憶力が少し減退した時こそ懐かしさは襲ってくるとも言える。つまりかなり老いが訪れる年齢でも明確な記憶が今の様に常に蘇ってくるのであれば、それは常に今であることに慣れていて、今こそが最高であると思えることだから、必然的に懐かしさとは別種の感情でも過去を捉えられるとも言えるからだ。要するに現在自分が立たされている状況をどれくらい愛せるかということに尽きる。従ってこれはある部分では哲学的だが、ある部分では哲学的でなくてもいいのだ。
 もし私達の感情が途切れることなく死の瞬間まであるとすれば、それは常に過去にあったことを意味づけ、それは当然現在からのことだが、又過去に比して今はどうであると感じられることから発生する意味に全てがある筈だ。本ブログでは最初の「存在と意味」から二段目の「感情と意味」をお届けしてきたが、今回で一度この「感情と意味」を締め括ろうと思う。
 本ブログは次回からは再び存在に少し重きを置いて考えてみたい。時間論も含有させていきたいと考えている。価値論や形而上学的要素も付け加わるが、かなり現代的なテーマを別ブログ「トラフィック・モメント」とも併行させて考えていきたい。少し休みを置いて再びお会い致しましょう。

Monday, October 18, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part5 懐かしいという感情とは何か?Part2

 未来という観念は不安と常に一体化している。従ってそれは起源的にも記述以前的前言語的想念の一つだろう。つまり言葉を習得していく以前的に既に我々は漠然とした到来する未来という想念を予兆力として備えている。
 それと懐かしさはどこかで関係がある。
 前回の結論を纏めつつ考えてみると、懐かしさとは「或いはこうであったかも知れない私」があるにもかかわらず「今現時点でこうである私」を可能性としてではなく運命として特化させる意志(運命化)が、今現時点での私以外の可能性へ私によって抱かれる若干の未練なのだ。
 が恐らく運命化によって現在の自分を肯定しつつ、過去に於ける岐路で現在へ繋がる進路を選んだことへの肯定感情があればこそ「或いはこうであったかも知れない私」は淡く美しく思える。
 しかしそれはある意味では未来に対する不安、つまり我々はいつか自分自身の時間が死と共に停止することを知っているからこそ、その不安を除去しようともがくことなのだ。勿論淡々とである。
 未来という予兆力とは現在の消失、現時点の過去化の別名でもあるが、それ(それは概念的理解であるが故に)以前的に言語的想念全体の基盤をなす様な何らかの予兆力である。勿論それは受動的綜合の様な根源性とも違う。運命化による選択進路の美化を支えるものとは後悔的想念の到来への予めの忌避感情である。
 我々は未来という一つの不安を払拭するが為に言語行為を持つと言っても過言ではない。不安に対する忘却の一つの自然な欲求が時間的観念の系列化という作業である。過去、現在、未来と系列的に位置づける。しかし未来は我々にとって常に完全不在であり過去や今自覚しつつある現在とも明らかに違う。それは記述に於いて系列的秩序が形成する最中に現出するものである。だからこそ不安の別名なのだ。
 そんな折確かに我々は過去を「懐かしさ」として捉えることによって運命化しつつ、不安から逃れ、生を意義化することが出来る。過去は完全不在であるが未来の完全不在とは性質が違う。何故なら過去は記憶的に想起され得るものの全体である故だ。
 確かに私が生まれる以前にも系列的に時間は経過していたし、それを概念的に私は把握し得るが、それは私個人の記憶によることではない。従って系列的先後関係を理解する要は記述行為によってである。そして記述行為自体を支えているのは漠然とした予兆力であり、それこそ意志を意志させる礎であると言える。

Saturday, October 2, 2010

<感情と意味>結論 感情と意味Part5 懐かしいという感情とは何か?Part1

 私達は日々かなりの分量で不必要な情報を摂取し過ぎている。本来よく考えてみると自分自身にとって本当に必要な情報とは限られている筈だ。しかし一旦会社に行けば同僚達との横の繋がりなどがあって、昼食を共に取り、会話は弾めば自然と社会一般のことを井戸端会議的に交わすこととなろう。
 しかしそこで得られることは人間観察であり、対人関係上での個々の成員の性格把握であり、会話から社会的人格評定を下されるということに対する自覚であり、それ以外、例えば実際に交わされた会話で出て来たエピソードが後日自分の役に立つことなど殆どないと言ってよい。
 勿論同業者間で個人経営者や事業者、或いは特殊技術専門家同士が会話する時には同一業界内での情報交換的意味合いもあるだろうし、同一社内の人とも情報交換は、相手が別部署の人であるなら意味もあるだろう。しかし一番多く接する同僚、つまり同一部署内の人達との会話で出て来る話は同一部署関係の内容以外は多くは社会一般の今時節的に話題となっていることに限られてくる。
 しかしそれらを巡る大半の情報はその時だけのものである。これほど無意味なことはない。
 私達が過去に於いて自分が体験してきたことに関することで大きな出来事がある時以外、今話題となっている人とか、それ以前そうであった人に関する知識などは本来仮に友人、知人、同僚との会話に役立てる意味以外に何の価値があるだろうか?そもそも一人の人間にとって切実な情報など極々限られているのである。
 しかし自分自身にとって切実な経験であったことを今想起する場合、想起自体は突然脳内で「自分の意志」とは別箇にやってくるものであるが故に時々無性に懐かしさを催すこともある。
 ではこの懐かしさを催すということの正体とは一体何だろう?
 例えば上の話でかつて親しくしていた同僚で、今は配置転換で全く遠くに離れて生活している者が突然死んだという知らせが入ってくると、途端に上のその者と交わしたとりとめのない昼食時でも話題となっていたエピソードなどが懐かしさを催すことがある。
 案外大して情報的価値がその時点ではなかったことの方が懐かしいとさえ思えるかも知れないのだ。
 これはある意味では我々が今現在立たされている自己状況全般が、実は過去のある時点で、或いはある時期に於ける思索の結果、決意の下でこうなっている、ということを我々は知っていて、その決定、つまり長期的人生設計上での決定自体が、ある時点での自己人生に対する運命化、つまり「私の生き方は~でよい」という決心に基づいているということ、つまりそれは、それ以外の選択肢に対する断念と、そう断念せざるを得ない形でしか人生を歩めないという諦念によって得られる情感から齎されてきたのだ、とも言える。つまり懐かしさとは、それを失っていったという事実は今現時点で自覚出来て、今得ているものと引き換えに失っていったものに対する固有の感情であるが故に、懐かしさとは端的に自己運命に対するささやかなる恨み節的要素も介在しているのだ。勿論自己運命自体を開示してきたのは自分自身である。しかしその自分自身が止む止まれずに選択してきたことの内には全て簡単に棄て去ることの出来なかったものも多かったに違いない。そこでその得たものと失ったものとの間のバランスが現状に対する満足に於いて、十分過ぎる領域に対する感謝があればあるほど、逆にそうであるが故に、別の部分では当時の自分を棄てて今の自分を選んだという事実に対する記憶と自覚があれば、尚更「或いはこうであったかも知れない自分」というものに対して思惟を巡らせることは常に可能である。
 つまり懐かしさとは恐らく「或いはこうであったかも知れない自分」自身に対する叶わぬ憧れ、今現時点での満足と引き換えに失ってきたものに対する未練とが混ざり合って、固有の切実さを提供するものである。それはある年齢、特に四十五歳を過ぎた時点で、それより十年以上前には普通にしていた習慣とか、頻繁に会っていた知人などに関しては、その様な感慨を抱くことは容易いだろう。しかもそれほど親しくなる前に疎遠になっていった人達は特にそうだ。何故ならその人達と疎遠となっていったということは、そのことと引き換えに別の人達と親しくなっていったということを意味し、それは「或いは別の形でなら親しくなれた人達」というものだからである。
 それは当然引っ越しをする時に何箇所か候補を挙げて結局今住んでいる場所を選んだ場合、「或いは別の形でなら住んでいたかも知れない場所」という形で下見に訪れたことなどが懐かしく思い出されるわけだ。従ってかなり親密にしていて疎遠になったものと同じくらいに、否ある場合にはそれ以上に突然脳内で向こうからやってくる想起対象であるエピソードとは端的に「或いは~であったかも知れない」という要素の些細な、しかしニアミス的にそれ以降遭遇を得ることなく、ある瞬間に於いては極めて切実な印象であったのに疎遠となっていったもの、者、場所たちであると言えよう。