Sunday, May 16, 2010

<感情と意味>第三章 第四節 意味・観念としての理想・理性と原罪・受肉そして「世界」 

 大雑把に言えば、ユダヤ・キリスト教文化圏の宗教的慣例や儀礼性の全ては、肉に始まって肉に終わると言ってよい。カインによって殺害されるアベルは羊の肉を神に捧げたし、それに対して穀物を捧げたカインは弟を殺害することによって理性を得たのだ。理性はそれが隣接しているが故にその存在理由を知っている悪を必要とするのであり、アベルには理性は要らない。
 時代が下ってキリストが登場し、受肉という観念がキリスト教布教後に定着する。カントが他律といったことの背景には受肉を通して原罪(主に肉欲)を克服するということの必要性から遡及された考えがある。他律に感けるということは快楽に耽るということだからだ。キリストは神性と人性との一致としてその存在が問われることになった。そう認識することで人という親しみある存在が初めて理想であるところの神と合体したのだ。だからこそそこに意味の世界が親しさと親しくなさ(理想や神はその象徴である)の合体として理解されたのだ。欧米の哲学はそういった宗教的観念を生むユダヤ・キリスト教的宗教対話全体への対話と理解しなくてはその本質が見えてこないところがある。
 日本人は余暇の過ごし方が欧米人に比べて下手だと言われるが、それは中島義道氏的(「たまたま地上に僕は生まれた」、「英語コンプレックス 脱出」)に言えば欧米人からの暴力であるということになる。しかしそもそも日本人にとっての快と欧米人にとっての快がその性質を異にするというところがあるのだからある程度仕方ない。祭りに関しての常識も日本人と欧米人とでは確かに異なっている。
 謝肉祭(カーニヴァル)は肉を抛るということから道化・滑稽・歓楽が許されるとされるが、それは形を変えた意味の世界の獲得でもある。
 意味は親しいものとそうではないものの差別に起因するとした。欧米では親しいものとは家族であり、肉を運んでくれる父親であり、父親が公の原点である。母親は公において第一に親しい者である父以前的な意味で最大級の親しい者、血肉である。父が家の柱を支えている。その柱に支えられた家を母が子を儲け守るのだ。アメリカやカナダでは感謝祭をする。私たち日本人も祭をするが、肉よりは穀物への感謝である。
 しかし私たち日本人にとっても恐らく意味は親しいものへと最初は向けられて、その後親しくはないものにも拡張される。観念は一方で肉の報酬があり、原罪があり、それを克服する過程で得た労働を価値として認定することを通した共同体の作為にその根源がある。意味は個人のものであっても、意味を統一することが共同体の仕事だからだ。意味は個々に異なっていてもそれが統一されることで観念が派生するというわけだ。私は第三章において意味は「一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しない」と言ったが、それは意味世界を個が意識していることを集団管理体制の名において理解している為政者によって統括されている概念規定性において意味が「誰にとっても同一の意味を持ち得る」という幻想を与えられていることを示してもいる。
 誰にとっても同じであると「思わされている」だけであり、本質的には違うのだ。しかしその本質は隠蔽されなくてはならない。隠蔽されること自体が一つの理性の束となって作用しているのだ。理性も本来は個的なことであり、個人の肉体の欲望と衝動に起因する筈であるが、それもまた一般化される。つまり一方では個人毎に異なる本質があるということがあり、他方その本質は隠蔽される必要があるという隠蔽自体を招聘する本質がある。
 つまり本質と本質否定の本質との奇妙な共存が私たちの社会を現実に機能させている。そのことを明確に示し得た哲学者はヘーゲルだった。しかしその隠蔽を悪として捉えたのはニーチェが最初だったのかも知れない。しかしニーチェ以前にもホッブスもルソーもその前哨戦的な役割は果たしていた。
 デカルトの私は永井均によると確かに神への抵抗だったのだろう。それを近代的自我と表現することをよしとしても非としても、エゴやスーパーエゴといったフロイト的観念もまたデカルト的コギトを出発点としていることだけは確かである。
 しかし言語行為はそれ自体が既に責任倫理を携えており、対他的責任の産物である。対他的に責任を明示的にすることを通して意味世界が開示される。意味とは責任が取り得るという親しい世界と、それと隣接して神秘化されやすい親しくない世界、それがあるとだけは理解出来るが、それ自体はよく知られていない世界、つまり責任を取り得ない世界との間に生じる。自分だけしか知らないことというのがあるが、自分だけ知らないことというのもあるからこそそれを伝え合うという行為が成立し得る。つまり自分だけが知っている世界を他者に提供することで、その報酬を得る、つまり自分だけが知らなかった世界を自分が知る世界へと取り込む(教わる=告げ知らされる)という形で言語行為が成立しているという事実自体が、意味を責任が取り得ること(自分だけが知っている世界)のトレードオフとして責任を取り得ないこと(自分だけが知らない世界)をも獲得するという意味を言語行為において責任論的に成立させている。
 だからこれ以上は報酬を得ることを望むまいという決意(そのことによって限定的ではあるが確実な報酬が得られるし、そのことを我々は皆選択している)が他者全般という偶像を自分だけの力は所詮限られているという諦念と共に派生させているのだ。私たち個にとって偶像は共同体成員としては権力者であり責任統括者全般であるが、私とあなたという二人にとっては二人以外の全ての他者であり、要するに他者全般である。
 前章で触れたことの繰り返しになるが、ある意味では私たちが持つ理想という観念が人間は動物とは違うという観念を生んだとも言える。つまり哲学的ゾンビとは、私たちが実は直観的に昆虫とさして変わりがないのではないかと思う気持ちを出来る限り有効に抑制するために儲けられた概念なのかも知れないのである。自然科学では人間もまた生存機械であり他の生物と同様ただ必死に生きているだけであると捉える。しかしそうではないとどこかで思いたい気持ちもずっと消えずに残り、だからこそゾンビという概念を提出することによって、哲学ではゾンビならぬビンゾ(永井均氏の提出した概念)を考える余地を作ったのだ。この二つを対にすることによって哲学の存在理由を探ったのだ。しかし私も実はただの昆虫(彼らには感情はないと生命学者たちは考えている)と同じゾンビ体でしかないのであって、偶然的に私たちだけある固有の言語という手段を持ってしまっただけのことである。
 第二章の結語で私が「要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである」と述べた根拠はそこにある。
 尤も言語が感情を整えているという側面はあるだろうが、言語がなくても感情はあり得る。事実哺乳類以上の知性的生命体は感情を持っている。
 それなのに人間だけは違うのだという想念は観念としての理想が生んでいる。だからヒーロー志向的偶像対象と同時にマイナーの極致である犯罪者や死刑囚たちは生贄の対象と言う形でやはりそれもまた偶像なのである。私たちの深層心理には要するに生贄が磔にされるところを見物したいという野次馬根性があるのだ。生贄にされるところを見物する野次馬根性とは実は人間がややもするとただの動物になり下がると言うことをどこかで知っていた我々の祖先が「しかしやはりそうであってはいけないのだ」ということを覚醒するために我々に恐らく付与された心理なのだ。実はそれもまた原罪を構成することに一役買っている。だから前節で私があまり世渡りの巧くない読者に向けた書いた指南では、原罪を熟知している成員はブラックジョークを理解することが出来るという意味で言ったのだ。何故ならブラックジョークとは生贄にされるところを見物する野次馬根性の持ち主であるということに対する自覚が生むものだからだ。つまり我々が観念としての理想を持つということの本質には同時に理想を持たなくてはならないくらいに原罪を背負っているのだという風に己の原罪について自覚的である必要があり、その二つ、つまり理想を抱くということと、原罪があることは抱き合わせで理解されなくてはならない。そう考えてしまうのもやはり私たちが言語を持ってしまったということに起因するのだ。言語を持つということは物語を持つということへと必然的に能力開示を促進する。物語自体にも原罪は潜んでいた。
 しかしそれを知るにはあまりにも安穏としているがために理想や理性という観念だけを知ろうとして、その背後に原罪という観念が控えていることに対して無自覚な成員は日本には多い。つまり観念としての理想も理性も実は原罪そのもの、つまり我々の性悪的部分が作っているのである。日本人の中にも性悪的概念は何らかの形で存在した筈なのだ。勿論仏教が導入されてから煩悩という概念は移入されたのだが、それ以前的にもあった筈だ。
 しかし恐らく理想という観念よりももっとずっと早く「世界」という概念は出現していた筈である。私たちは皆「私にとって親しみのある(私のよく知る)世界」と「私にとって親しみのない(私のよく知らない)世界」の総和が「世界」であることを知っている。勿論人類は最初はもっと漠然とした、茫漠たる「世界」しか持っていなかったであろう。つまり最初人類にとって世界は神やら存在と明確には分かち難いものとして実感されていたに違いない。しかし何かがそれを世界として位置づけさせた。それこそが「自分」だったのかも知れない。これはデカルトの「私=コギト」とも違う。デカルトの言う「私=コギト」は永井が言うように神=創造者に対する抵抗を示したものだったのだ。そして私たちはデカルトの提唱した私を生きる。だから人類にとって最初「自分にとって見える」世界こそが「世界」となっていたのだろう。つまりヴュー自体の所有者という意識である。しかし意識はその時点では世界そのものへの意味づけ、つまり「世界」の構成ということのためにただ張り付いていただけである。しかし勿論それは私たちにとっても本質的には変わらずにそうなのである。ただ私たちは意識をデカルトの恩恵の範疇で格別のものとして捉えがちなだけのことなのだ。
 人類にとって最初は確かに「世界」は「あるということだけは分かるがよくは知られない」ものだった筈だ。しかし徐々に「自分にとって見える」世界は「自分たちにとって見える」世界になっていき、やがて名辞が形成されるようになる。空、雲、海、川、林、森、鳥といったように。それらの名辞が定着していった時私たちは「世界」を「よく知る世界という窓を通してよく知らない世界を見る」という意識を持った可能性はある。これはデネット的カルテジアン劇場に近い感覚のものである。

Thursday, May 13, 2010

<感情と意味>第三章 第三節 偶像崇拝的逃避の効用 

 しかし私たちは偶像崇拝的逃避に感ける無自覚者に対する認識と共に、その一定量の保持者が、有効にそれを活用していることに目を向け、偶像崇拝的逃避自体が我々の生活上で何らかのメリットを齎している事実にも注目する必要がある。
 それを考える上でまずもし偶像崇拝的逃避が一切ない生活とはどんなものになるかを想像すればよい。偶像崇拝することによって対他的に自分に出来ないことは他者に委ね、自分の中の欠如を知り、その欠如を少しでも埋めようと決意する時人間は向上しようという意志を持つ。だから逆に何に対しても偶像崇拝を一切出来ない成員は何に対しても「世界とは所詮こんなものである」という判断並びに諦観を抱いてしまうのだ。つまり偶像崇拝をすることで一旦は自己内の能力の限界を知ることによって、逆にその欠如に対する方策を考えるというところに偶像崇拝することで一旦捨て去る責任を安易に取り得ると考えることを諦めることや自己内の能力に対する過信を捨て去ることが、もし一切の偶像崇拝的逃避がない状態であるならなされ得ないのである。だから逆に理性的偶像崇拝逃避自覚論者とは、この偶像崇拝を有効活用する術に長けた人物であると言ってよい。
 
 これから先は全く観点を変えて考えてみたい。本来哲学とか言語学とか学問と処世術は何の関係もない。しかし世の中には大勢何故自分は巧く社会に対応して生活していけないのかと悩んでいる人がいる。そこで本節の内容の残りをそういうタイプの人へ向けて書いてみたい。だから自分の信念を一切曲げずに処世ということを考える必要など自分にはないと考えられている方はこの節の先は読み飛ばして頂いてよい。

 まず人生はそう長くない。しかもさまざまなストレスに苛まれること必定である。そこで他者と会話したり、対話したりする時に、相手があまり信用出来ないタイプの人である場合、なるべくなら相互に衝突を避けてしかも相手にあまり侮られることなくその時間を終了させたいと願っている人へ向けてハウツー的指南を書いてみたい。
 本来サラリーマンやビジネスマンたちはゴルフの話が無難であるとか、接待の際に切り出す話題において、避けるべき内容とそうではなく無難である内容をその都度選択している。しかし重要なことは、ビジネスシーンであれ、地域社会であれ相手に対してこちらがより有能であり、能力的にも教養的にも信頼するに足る成員であるという印象を持たれるように少なくともこれ見よがしではない形でさりげなく示せればこれに勝るものはないと言ってよい。
 そこで常々私は市民感情というものを考慮した時、我々が抱く偶像自体への観念において二つのタイプのものを誰しも抱いていると思う。それはヒーロー志向的偶像観と、アンチ・ヒーロー志向的偶像観である。後者はヒール志向的と言い換えてもよい。
 正論というものは公平であり、適度に安定した思想を持つ成員には常に求められるから、市民感情として健全かつ道義的な感情を抱いているということを表明するという観点からも、多くの成員が贔屓にしたり、認可したりする偶像を自分も賛同出来るという意志を、少なくともあまり抵抗を感じずに済む対象を選択して話題に出すということは効果的である。そして一定の賛同を相手から得られたなら次の段階では、最初に切り出したものよりは多少マイナーな認知度の存在に対して相手の趣味嗜好、あるいは社会的地位や伺える思想に応じて切り出すことが効果的である。つまり相手に対する趣味や信条の傾向を把握するにつれて少しずつマイナープレゼンスへと移行させていくのである。そしてもうこの相手に対しては擬装的態度を表明する必要がないと判明したのなら、かなり俗なレヴェルの話題をしても構わないと言えるだろう。つまりそうであるか否かの判断を適切にし得るか否かということがかなり大事なのである。それ以前に既に我々はこの方法を取るのであれば、もうこれ以上は移行出来ない相手かそうではないかということくらいなら分かる筈である。だから最初に示した対象に対する反応を見てその顔色からもっとマイナーなものを相手が話題として望んでいるか、逆にもっと杓子定規なものを望んでいるかということの直観的な判定こそが重要なのである。だから後者であるなら、あなたは最早長時間相手と真意を探り合う努力を出来る限り速やかに断念して、手続き的な常套手段で切り上げるに越したことはない。逆にもっとマイナーな話題へと移行を望んでいるのなら、マイナーレヴェルの偶像対象を話題対象として模索することが望まれる。
 そして相手を信用するに足ると判断し得たのなら、最終的にはいっそアンチ・ヒーロー的な偶像嗜好を表明することがより人間同士の信頼を得ることへと直結する。例えばその究極は好きなタイプの犯罪者を話題にするのである。そこまでする勇気がないのであれば少なくとも当初は有望視されていたのにもかかわらず期待を裏切った偶像、つまり敗残者的な立場の偶像、例えば例の朦朧会見をしたかつての財務大臣のようなタイプの政治家が実は自分は好きであるというような告白が相手次第では効果的な信頼獲得へと繋がるのである。その偶像対象は惨敗的イメージが強烈であればあるほどいいのである(この文章を最初に書いた時には例の大臣は存命中であった。冥福を祈る)。
 どんな人間でも表の顔と裏の顔というものがあり、その双方をTPO的に使い分けている。この使い分けが有効になされ得るか否かもまた、ある部分かなり偶像崇拝的逃避の心理を有効活用し得るか否かにかかっている。つまり話題をシフトさせる可能性としてよりマイナー度の強烈なタイプの偶像対象を模索し得る相手かそうではないかということの判定こそが私は偶像崇拝的逃避心理を有効活用し得るということであると思う。
 再度断っておくがこれはあまり社会的地位的な意味で成功していないタイプで、しかも極度に世渡りの下手な臆病な成員にのみ適用し得るアドヴァイスである。それくらいのことならとっくに分かっている、と言えるタイプの成員はもっと高度な段階に進んでいいのだ。いきなり相手と哲学や精神分析の話をしてもいい。しかしそういう話題を出すことの可能な相手というものは常に限られる。そこで相手がそういう風にいきなり高度な話題を共有し合える相手かどうかを判定するために私が先に述べた方法はかなり効果的である。
 私の経験では一般に知的教養度の高い成員ほど反体制アートや反戦文学、あるいはブラックジョークを理解し、そういう話題に共鳴し得る。つまり彼(女)は体制的なポーズと日常生活上でのプライヴェートな信条を常に二本立てで両立させて生活しているからである。つまり適度に本音と建前を使い分けつつ、仕事や社会的地位を離れて考えると、より青年期に夢想した幾多のロマンティックなアイデアに満ちているということが、人間性において魅力を醸し出しているものだ。逆にそういうタイプではない成員に対しては、一定の正論をパロディー化するような高度のジョークは一切通じないと踏んで至って健康的であると一般にされる建前的な話題を選択することが無難であろう。そしてそういうタイプの成員とは一対一の対話を長時間することは避けた方がよい。
 要するにユーモアをもともと解さないタイプの成員に対して高度なジョークや反体制的メッセージを辛辣に語ると言うことは無意味なのである。何故ならそういうタイプの成員は逸脱するということの意図的な知性を理解することがないからである。彼らは端的に品行方正であることと自らの嗜好とが完全に一致している、と言うより一致していなければいけないということ以外の選択肢が思い浮かばないからである。
 責任の取り方は高度なものから通り一遍のものまで様々である。つまり誰しも集団同化意識と、個的自由領域沈潜的態度の両方を持っているが、得てして前者が義務的に肥大している成員は後者を持つ余裕をなくしている。そしてそれを十分持っている成員に対する嫉妬の感情を持っている。従って仮にそういう余裕を持っている人が自分よりも社会的地位的に上位にいる人間であるなら問題ないが、逆に自分より下位な人間であるなら、精神的に許容し難いのである。そこでことあるごとにそういうタイプの成員を見下す機会を伺っている。「お前は偉そうなことを言っても、社会的に成功していないではないか」と。
 偶像崇拝的逃避を巧く調節することの出来る成員は、一切の個的自由領域沈潜的態度を他者には悟られまいとする。そうすることによって、他者からの羨望の眼差しを向けられることで示さなくてはならない横柄な態度を採ることを未然に自己に対して防いでいるのだ。そうしながら、休日や一人でいる時間を彼は楽しむ。
 巧くやっていかれることを祈る。

Sunday, May 9, 2010

<感情と意味>第三章 第二節 偶像崇拝的逃避無自覚者による弊害とは何か 

 本節では具体的に偶像崇拝的逃避無自覚者のよって齎される実害について考えてみたい。まず私は次のようにその実害を捉えている。

① 偶像崇拝的逃避を習慣化すると、新しい能力や未発見の潜在能力を自己内において開発することを怠ってしまう。
② 偶像崇拝的逃避を他者にも適用すると、社会にとって新たな才能や能力を持った者がその才能や能力を発揮する場を提供することを阻んでしまう

 つまり大きく分けてまず自分自身を発展させることを著しく阻害すると同時に、他人に対しても発展的な事態を展開させることを阻んでしまう。そして自分自身が進化しないようでいて、そのことに無頓着な成員とは往々にして自己能力開発努力を怠らない成員に対して多大な嫉妬を覚えるようになる。それどころかそういう前向きで将来ある人材を発見するや否や即座に爪弾きにしていこうという悪意さえ抱いてしまう。
 通常人間は自分自身が進歩しようと心がけているのなら、他人に対してもそのような努力をすることと、そういう機会を与えることに躊躇しなくなるものである。社会の発展や進歩とは、ある意味ではこういう精神的なこと如何だとさえ言い得るのだ。勿論そういったことが出来る限りスムーズに行っていたとしても尚犯罪がなくなる社会などは到来しないであろう。しかし少なくとも理性的偶像崇拝逃避自覚論者が多くなればなるほど私たちは自分自身の潜在能力を開拓することがしやすくなる筈である。要するに世間的な滓に対して理性的偶像崇拝逃避自覚論者は抵抗の意図を少なくとも捨てていないと言うことだけは言える。これはつまらぬ慣例や習慣を撤廃することを勇気を持って実行する事、勿論最初はそれを自分の生活において実践することから始めるのが最もやりやすい仕方だろう。
 偶像化作用とは、自らの努力を怠ることの理由づけに利用されがちなのだ。それを私は偶像崇拝的逃避と呼んだのだ。

Wednesday, May 5, 2010

<感情と意味>第三章 第一節 偶像崇拝的逃避

 私たちはたいてい誰でも自分にとって容認出来ない(感性的に)感覚や、考え方、あるいは職業といった偏見を持っている。それが我慢出来る範囲内のものであれば殊更非難することなどないだろうが、たまりかねると時々非難をしてみたくなる。しかしそれも公的に可能なのは許される範囲内のことである。しかし親しい間柄ではそれをよくする。
 嫌いな職業を友人や家族に告げることくらい誰もしている。そして頭の悪い人というのは、思い遣りもないとそう考えたりする。礼節を重んじる人が礼儀や配慮でしていることを頭の悪い人は、そういう態度を自分に対して採る人に対して自分の方が優位にあると思い込み、その者を利用出来ると思ったり、見下す材料になると思ったりする。それは一種の軽蔑であるが、そういう軽蔑を容易に他者になす人に対しても、それをされた者は軽蔑する。そしてそういう人に対しては容易に近づかないように心がける。これらは一つの差別である。
 しかし同時に「あの人は別格だから」と無自覚に崇拝するような場合それもまた一種の差別に他ならない。尊敬心というものさえ実は一つの差別感情である。つまりそれは自分とは違う人であるという認識を持つことによって「自分にとって親しみのある存在ではない」とか「自分にとって馴染みがない特別の能力を持っている存在」として別格に扱うことなので、それもまた差別感情なのだ。
 だから軽蔑と尊敬という心理は裏腹であり、一つの感情の表裏であることが分かる。尊敬的認識や、崇拝的意識といった一切はそういう形で自分とはかかわりのないものに対して責任を負うことを拒否(宣言)していることだから、それ自体一つの差別感情なのである。住んでいる町にも知らない場所というのはあり、道を聞かれて知っている範囲内ならその人に返答するが、知らないことに関してたいてい人は「知りません」と返答して、そのことに関する知識の責任を拒否する。親しくない人とあまり関わりを持ちたくはないと思うこともその人の言動全体に対して信用もしなければ、疑いもしないという静観を決め込み、関わり自体を避けることだから、その人の存在全体に対して無責任を決め込むことである。それは親しい間柄の人や家族に接する時と差別してその人の存在を扱っている証拠である。勿論道を歩いていて誰かが急に道端に倒れたら、救急車を呼ぶとか警察官を呼ぶとかするだろうが、その程度の社会的な責任(しかしその時道を歩いていた人が自分一人だけでないのなら、法的にそれをしなくても罰せられることがない)がある程度である。
 つまり特に都会ではそうなのだが、災難が自己に対して降りかかりそうに思えることであるなら、自分で責任を取らねばならぬもの以外に関しては自分とは一切関わりのないことであると知らぬ存ぜぬを通すことで他者からの責任転嫁を未然に防止し、自らは内的には積極的に他者に対して責任転嫁していくことこそが、生活する上での知恵である。これを誰も否定することは出来ない。
 だから逆に自分の生活に殆ど関係のない幾多の偶像に関して私たちはおぼろげな知識しかないし、認識も、関心もない。しかし自分の生活に物質的にも精神的にも大いに関わりのあるものに対しては別扱いをする。それ自体も一つの差別である。そういう意味において生活者、存在者の全ては差別者であると言ってもよい。
 本節では差別感情の中でも保守的で怠惰な尊敬心を扱おうと思う。これをすることによって、逆に自分がそのような尊敬する者と同じような立場になることなどないだろうから、そういうこと一切を尊敬することの出来る人に任せておけばよいとすることによって、その尊敬する人の発揮し得る能力に関して自分に関しては努力することを怠ることを私は勝手に偶像崇拝的逃避と呼んでいる。そして私に考えるところこれを実行していない人間など一人もいない。この心理が異様に強い人々は社会の至るところ跋扈している。例えば盲目的にエリートやインテリを持ち上げ、先生、先生と呼ぶようなタイプの人々である。このような呼称を使用することで、積極的に自分の側からその呼称で呼ばれる人たちの専門とする職業領域に関する権威や発言権をそう呼ぶ人たちに対して委譲しているのだ。そして不思議とそのように容易に権威づけすることによってエリートやインテリを持ち上げる人は、そうしない人たち、つまりあまり権威を持ち上げないでいる人たちに対して軽蔑心を抱き、時には、その自分が持ち上げる権威者の前で侮辱したりする。
 つまり権威持ち上げ者とは往々にして自分が尊崇する権威を権威として持ち上げないこと自体を自分のような立場にある者に対する侮辱と受け取り、自己防衛的に偶像崇拝的逃避をしないタイプの成員をいじめようとするのである。だから逆にこの偶像崇拝的逃避は少なからず誰でも一定の割合でしていることであるのだが、この逃避を回避する能力こそが自己に対して自分もまた差別する存在であるということを認識し、他者に相対する時に配慮すべしであると認識し得る知性の持ち主であるということになる。このような自己内の差別意識に自覚的で常に他者に対して公平でありたいと願うタイプの人を取り敢えずここで理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者(的を省略する)と呼ぶことにしよう。
 私は通常この理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者ならば、あまり表立って他者を愚弄したり、軽蔑したりすることが少ないだろうと思っている。何故なら権威を盲目的に持ち上げること自体が、そういう惰性的判断でする行為をしない勇気ある者を差別する、軽蔑する傾向があると思うからである。権威に対して盲目的に阿ることでその権威者からの実利を期待するということのない理性的自己内偶像崇拝逃避自覚論者は他者の立場を独立したものとして認めているだろうからである。そもそも軽蔑という心理は尊敬すべきエリアに対して無頓着な者へと向けられる心理に根差していると思われるからである。
 だから理性的偶像崇拝逃避自覚論者ならば、権威というものが差別感情を跋扈させるということを熟知している筈である。権威というものは全てこの偶像崇拝的逃避が形成すると私は考えるのだ。権力も確かにそういう一面があるが、権力は私たちが生活上必要であると考える。しかしその必要である権力自体を必要以上に持ち上げ、そうすることでそうしない成員を軽蔑する特権を得るような成員、つまり偶像崇拝的逃避無自覚者が権威を著しく歪曲したものへと持っていく。自らの性癖に対して無自覚であり、それを極力抑制しようと努めないタイプの成員を私はここで自己内偶像崇拝的無自覚者であるとしておこう。
 人間とは不思議なもので、自分が住む地域を愛する一方、自分が住んでいないエリアをどこか偶像化している。だから時々観光旅行に赴いたりするのだ。
 あるいは自分が就いている職業を愛する一方、そこから離れたいという欲望も常に持っている。そして自分がよく知る世界の汚さを知っている一方、往々にして自分のよく知らない世界に対して偶像化する傾向もある。だから恐らくここでも理性的偶像崇拝逃避自覚論者であるなら、どうせどこの世界も似たり寄ったりであると類推し得る余地を常に残すことだろう。そういう意味では理性的偶像崇拝逃避自覚論者は懐疑的である。しかしこれもあまり度が過ぎると逆に相反する立場であった筈の偶像崇拝的逃避無自覚者に成り下がってしまう。つまり理性的偶像崇拝自覚論者ならば、理性的であるのだから、当然「どこの世界も似たり寄ったりだろう」と思う一方、「しかし違うかも知れない」ということへの思念も忘れないのである。つまりここが偶像崇拝的逃避無自覚者との大いなる違いである。

Thursday, April 22, 2010

<感情と意味>第三章 意味と関係・責任と偶像 序

 意味は事象全般に対して抱かれる感情が決定するが、その感情の決定に人間の場合多く言語が手助けする。勿論動物にもそれなりに意味はあるだろう。それは感情と明確に切り離されていないだろうが、生活上好ましい事態とそうではない事態、あるいは親しみのあるものとそうではないものの区別はどのような動物でもつく。その意味では我々もそれと同じように親しみのあるものとそうではないものとか、生活上好ましいこととそうではないことという区別から出発している。しかしそこに他者に説明し得るようなものとしての明確な意味を見出すのに幸い私たちには言語というものが与えられているのだ。言語を通して明確に説明可能であるところの意味が得られているからこそ私たちは事物を関係づけられ、位置づけられる。しかしその意味も事物の関係や位置づけから得られてもいる。動物でも何らかの関係づけなら出来る。我々も最初はそういう仕方だっただろうし、赤ん坊ならそういう仕方を誰でも最初は取るだろう。しかし後に言語を習得する過程で我々はそれを誰かに説明するということが出来るようになるのである。
 対象となる事物に対して、あるいは現象に対して私たちが一定の感情を抱くからこそ、そこに対象や現象(以後事象に統一)に名辞を与えているのだが、名辞を与えるということの中には、個物に対して一般性という認識がなければならない。その一般性が曲者である。要するに一般性とは理解によるものである。その理解とは自分にとって身近なものごと、親しいものごと、馴染んだものごと、慣れたものごとと、そうではないものごとという両極を持った階層性においてなされていると私は考える。そして自分にとってよく知るものごとほど責任の負える範囲内のものごとであり、そうではないものほど責任の負えないものごとであり、後者こそ偶像化されやすい、と言うより偶像とはそのような親しくはないし、よく知らないし、馴染みもないが、存在することだけは知っていることに対して設置されていくおぼろげな像に起因する。そしてその自分にとって親しくなくよく知らないものごとの領域における行為やその他一切に対して私たちは勝手にさせておくという態度を決め込む。それを私は一括して責任転嫁と呼ぶ。偶像とはだから一切の責任転嫁を余儀なくさせるものであり、地球に住む我々は火星のことをよく知らないし、火星に異変が起きても、すぐさま地球にいる我々に影響を及ぼさない限り、専門家である宇宙物理学関係の人々以外なら、さして関心も抱かないだろう。火星のことは火星に任せておけというわけである。
 私たちは好むと好まざるとに関わらず、自分にとって馴染み深いものごとや、よく知っているものごとに対してなら、関心を示し、それが否定されると躍起になり、誰かに説明してくれと頼まれると情熱を持って説明しようとする。しかしそれほどよく知らないものごとに対しては、もしよく知っているのなら関心を抱くかも知れないものごとに対してさえ、そもそも知らないし馴染みがないものごとであるから、必然的に誰かが熱心に会話していることでも、ちんぷんかんぷんであり、そういうものごとに対してはただ静観を決め込むものである。そしてそのような態度を採るということの内には、肯定も否定もしない、出来ないという諦めがある。その時私たちは責任という概念を発生させていない。つまり自分にとって馴染みのあることを、そうではない人から尋ねられた時私たちは自分に責任を感じる。しかしその逆で誰かに何かを尋ねる時尋ねる者は、その尋ねる当のものごとに対してよく知らないからこそ尋ねているのであり、端的にそのものごとに対して責任を持てないと同時に、そのことを尋ねる人に対して責任を転嫁している。その尋ねるべき他者にそのものごとに対する責任を認めている。勿論その者によって「自分もよく知らない」と返答して責任を負わされることを拒否されるかも知れない。だからそう言われれば別の人に尋ねればよいだけのことであり、最初から責任を負ってくれる人に巡り合うとばかりは限らない。
 つまり全ての意思疎通にはこのような原理が働いていると捉えることが可能である。つまり何かを語るということの内には、その語りを聞いて貰う相手に対して、自分の側から説明するものごとがあって、そのものごとを語ることにおいては自分が責任を負っているのである。そして何かを誰から聞かされるということは、その者が私に対して嘘を報告したり、私を騙そうとしたりしているのでない限り、その語りの内容そのものにその者が責任を負っているということを意味する。勿論今私が例外として述べた虚偽申告ということの意味もかなり重大なものであるが、実はそれすら、それを報告した瞬間においては、取り繕ってその場を切り抜けるということを嘘つきは実行しているのであり、それはその場を切り抜ける責任を負っていることになる。
 つまり私たちは自分にとって親しみのある世界に対して責任を負いやすいと言うことを前提に、逆に馴染みのない世界に対しては、そもそもその世界に対する認識自体が漠然としているのだから、ぼんやりとした像しか思い浮かばない。だからその世界にどのような者に対して責任を負わせるべきであるかなかなか自分の中で明確に他者に説明し得るような考えなど思い浮かばない。だからこそそういう自分にとって未知の世界を切り盛りしていけるように感じられる成員に対して我々は偶像視するようになる。言ってみれば全ての自分にとって未知の世界の住人は、それだけで一つの偶像であると言ってよい。
 これらのことが私の考えるコミュニケーションを通して構築される人間社会の実相なのである。つまり責任とは親しみのあるものごとに対する親しみを持てる者から、そうではない者への特権であり、偶像とはそういう責任外のものごとに対して我々が持ち得る心理が茫漠としたままの形で形成されていく「知らないこと」・「親しくないこと」・「馴染みがないこと」・「慣れていない」こと全般を象徴する一つの認識像なのである。
 だからこそ私たちは権力者や為政者たちが失墜した時その敗北に対して同情するどころか(同情するに足る魅力ある敗者も時には存在するが、それは個人毎に対象が異なるだろうし、それは一般化され難い)非難するのである。それは今では使われなくなった語彙とか単語といったものにも適用されることである。あるいは習慣、法律、流行といったことにおいてもそれらを確認することはたやすいだろう。
 私たちはしかし全ての偶像に対して同じような態度を採るわけではない。自分にとって切実な偶像に対しては躍起になるだけのことであり、あまり自分に関係のない偶像に対しては、それがどのように処遇されようがあまり関心を抱かない。アートに関心のない人にとって世界的に著名なアーティストが死んだり、その作品がいかに高額で取引されたりしても一切何の感情も喚起されないだろうし、自分にとって専門外のことに対してなされる言及に対しても同様であり、その時私たちは静観を決め込む。
 しかし自分の生活において大きな関わりのある偶像、例えば自分の勤める会社の世間的風評や認知度とか、株式時価相場とか、給料とか、上司や部下たちとの対人関係とか、会社自体の将来性とか、要するにそれら一切の偶像は私たちにとって見過ごすことの出来ないことである。ニュースを見ていても、自分の職業や、自分の住む地域に関連あるニュース内容のものにはすぐに眼が行く。それら一切の偶像は、こちら側から主体的に相手に対してその偶像があまり芳しくないものであるのなら、批判的な言及や請求をすることだろう。
 私たちにとって最初の偶像は多くは親かも知れない。だから一定程度の知恵を持った子供なら親に対して自分に対する愛情、その他生活上の必要最低限の処遇に対して何らかの請求をするということは当然の行為だろう。つまり扶養されている立場の子供は親に対して責任はない。だから逆に子供の立場から親に親の子供にとるべき責任を請求する。そのようなものとして私たちは私たちにとっての偶像に対して、それが自分の生活上で重要な影響力を行使するものに対しては請求する。為政者にはもっと生活レヴェルが安定し、楽で幸福な生活を保証してくれるタイプの偶像へと挿げ替えたいと願う。それは端的に責任をその偶像がなし得るべき能力に関しては一切自分の側からは責任を負わないと言うことを意味する。
 序の中での結論としては、意味が二つのものごとにおける関係が生じさせるということと、自分にとって親しみがありよく知ることに対して、我々はそのことに対して自分ほどではない人に対して責任を負うということが自然であること、そして自分にとって親しみがなく知らないことに関しては漠然とした他者(特定の人に対して指定することが出来ない、何故ならそのことに関する知識がないので判断が下せない)へ全てを委譲する。その時責任転嫁が行為事実として発生する。だから全ての成員は責任を負うことと、責任を負わないことの二つにおいて意思疎通を図り、社会的行為をし、生活を成立させているということを前提として述べておきたい。

Thursday, April 8, 2010

<感情と意味>第二章の結論

 要するに<私>やビンゾがある意味では進化論動物行動学者である長谷川真理子氏の指摘されているように生き物は皆一生懸命に生きているということこそが、<私>を無化せざるを得ない。もともとそんなものがないからこそ、あるかの如く思えるというところに永井氏の本意があるのではないかということが第二章の主旨でもあるのだ。
 ゾンビであるということを哲学的に述べるということは、哲学的願望を私たちが抱いてしまうということを覚醒したかったからではないだろうか?哲学的願望とは何かについては次章以後述べていく。
 何故私たちはただのゾンビであってはいけないのか?
 例えば生命学者の多くは昆虫には恐らく感情などないとしているのだが、我々はただ単なる昆虫や非高等知性生命ではないという意識がゾンビという概念を生んだのではないかと私は思うのだ。すると永井氏が概念設定したビンゾということにはそういう本意もあったのではないだろうか?
 何故なら私たちの行動や日常の思念は、殆どが社会生活上での、自己内での目的、意味に満たされていて、思考でも生理作用でも心理的内的=外的世界でもない意識やクオリアといったことは殆ど幻想に近いのではないだろうか?
そもそも心理的を現象的と峻別するところに無理があるのである。
 永井氏はブトムとして現象的世界を捉えているが、それは氏がアブトムと呼ぶようなものによって逆に捻出されてきた概念であるように私には思えるのである。ビンゾと言うことを言うと、どこかゾンビが何か極めて非人間的である気がするのだが、そもそも心理的であるということはよく「考えること」はするのであるし、思考もする、理路整然に他者に何かを説明もし得るのだ。するとゾンビという概念自体、恐らく私的言語があり得ると言う想定の下でなされた概念設定なのである。
 要するに人間は親しくなることによって対他的(親しい人同士以外の人に対して)に共謀関係になるということである。例えば相互に似た欠点や弱点を持っていることを親しい間柄の人間同士でいる場合には、敢えて触れずにいるということが即ち対他的には共謀関係を構築しているということを意味し、親しくなっているということなのである。
 何故なら私と来場者であるあなたが仮に親しい関係にあるとして、ではその<私とあなた>の外部の人からすれば、それは相互に欠点や弱点を触れずにいるという馴れ合いに映る。つまり意味とは私にとっての意味であり、あなたにとっての意味であり、あるいは私とあなた二人にとっての意味なのだ。意味が私たちの身体や存在をも規定する。
 親しくなるということ、あるいは自分の使っている道具に親しみを持つということ、あるいは自分の住む町に親しみを持つということ、全て私たちにとってその存在に意味があるということと私は捉えたいのだ。
 だからホームの向こうに見える他人たちは、「私にとっての世界」における私の関心における構成要素だが、彼らが私の視線に気づかなければ彼らにとって私は存在し得ないから意味がない、無意味であると捉えたいのである。何故かと言うと私たちは存在し得るもの(私たちが存在すると認めるもの)には必ず意味を付与するし、そういうものしか意味を付与し得ないからである。そこに私は親しい間柄というものが、対他的に責任転嫁し得る関係と捉えると、責任転嫁するのに都合のよいものを偶像であると捉えるのだ。偶像は失墜すれば挿げ替えればよい。そういうのが責任転嫁だと考えるのである。つまり共同体は私とあなたの間の親しみと合意が拡張されたものであると考えるのである。この考え方は明らかに中島義道的ではなく、吉本隆明的である。要するに二人にとっての偶像とは他者一般、他者全般であり、共同体にとっての偶像とは権力者であり、CEОであり何らかの形での責任統括者のことである。意味とは従って私にとっての意味であるなら、私にとって親しみが持てて、しかもそれが私にとって(私の生存にとって)重要である場合のみなのだ。私にとって親しみが持てても、それが重要ではないばかりか、弊害になるのならそれは意味ではない。
 対他的には責任は他者に示されるから心理的である。そしてその時意味あるということは意識されていて、説明されなければならない。(そうでなければ言語行為は成立し得ない)そういう風に自分に対して、あるいは親しい間柄で反省的に説明し得るもののみを意味と私は捉えたいのである。つまり責任・自由・意味・偶像という関係で全てを捉えてみたいのである。
 そして責任転嫁こそが他者存在全般を偶像化し得ると私は捉えるのである。何故なら私一人で出来ることなどたかが知れているからである。だから意味はその常に間にあると捉えるのである。責任を取れるということと、責任を取れないということの間、自分と他者の間、<私とあなた>とそれ以外の人たちとの間、という風に。
 因みに私は<親しくなる>としたが、<馴染む>でもいいし、<慣れる>でいい。つまりそれらの間には殆ど哲学的には違いはないと言ってよい。
 
 意味は関係が作る。関係がなければ意味は生じない。
 つまり意味とは常に二つのものやこととの間にある(或いは二つのものやことの間の往来や往復にある)からこそ、立場によって意味が異なってくるということを招くと同時に、だからこそ逆に例えば一つの共同体とか国家とか、要するに集団や意味観念が集合された場合、そう変化しないということになるのではないだろうか?
 要するに人間も昆虫と同じでゾンビとしての自分を対他的責任の名において、たまたま昆虫たちのようではない別のタイプの言語をも併せ持った意味世界の中を生き抜いていくしかないのである。

Friday, April 2, 2010

<感情と意味>第二章 第六節 親しくなることのメリットと可能性 

 誰か特定の人に対して親しくなるということは、それはそれでメリットもあるし、可能性もある。何も私は全てが馴れ合いの関係であり否定すべきだと言っているわけではない。
 ただ私は人が人と親しくなる原理として当然考慮に入れるべき本質として、対他的な共謀という心理が深層において介在しているということを忘れるべきではないと言いたいだけである。つまりその心理が裏目に出さえしなければ別に共謀ということにもメリットはあるし、今後も存在者にとって大いなる可能性も秘めている。本節ではそのことに少し注目してみたい。
 私たちが何かに親しみを感じるということは、例えば住んでいる町であれば、郷里を愛する心へと繋がるし、勤めている会社であれば愛社精神を育む。人的な交流であれば、精神と精神がぶつかり合う(衝突という意味だけではなく)対話性や、理解共有ということがあるからだ。そして私はここを強調したいのだが、要するに常に親しくなり過ぎることが共謀関係を歪んだ形に持っていくということだけを意識していさえすれば、どんなに親しいということも弊害となることなどないと言ってよい。何故なら私たちは完全に孤立した状態では一切の発話意図を持つことも、言語行為的な意思表示をすることも出来なくなるし、理解共有という精神的共鳴作用がない地点からは一切の意志発動や、健全な目的を持った希望や未来へのヴィジョンを持つことも出来ないからである。だから逆に共謀関係をより親しい間柄でも批判すべきところは積極的に指摘し合うという関係を常に構築しておくべきだろう。そのためには何故理解し合ってきたかという根拠を問うことを忘れないということと、理解し合っているということの内に対他的(親しい間柄の人間以外の)な批判と相互の利害において結びついているという部分に対する理解が、逆にその長所や利点以外の、例えばナアナアの馴れ合い関係である部分を真摯に摘出するような意志と努力が常に怠られてはならないだろう。そして親しい間柄の人間同士の相互に共通した欠点や弱点に対する理解ということが、明確であればあるほど、そのことに敢えて触れない相手に対する配慮という措置は相互に精神的なメリットになるだろう。しかし敢えて触れない相互に共通した欠点や弱点ではなく、どこにそれがあるか分からないから指摘しようがないという場合、極めて馴れ合い関係に縺れ込むこと自体に対する自覚が希薄化している証拠であるから、危険であると言える。だから精神的に安堵と、自己内にある自己存在理由に対する極度の不審と懐疑を払拭し得て、未来に対して自信を取り戻すという意味での親しくなる関係を維持するためにも、どうして親しくなっていったのかということを親しい間柄で時々検証していく必要性があると私は思う。
 動物行動学者であり進化学者でもある長谷川真理子氏は生き物とは皆一生懸命生きている、とテレビのヴァラエティー番組で述べておられたが、本当に必要な真実はそれだけでよいのであり、何かそれ以上の存在であるかのように見立ててしまうのも、それは私たちが理想という観念を持ってしまったからなのであるが、そのことに関しては第四章中第五節において説明したい。要するにそのことがゾンビであること自体に感けていること自体は別段否定すべきことではなく、要するに生存自体に必死になるということは自らをロボット化するということに他ならず、そのこと自体に卑屈になれるということは、要するに必死に生きていないということを意味するだけなのである。我々は<私>やビンゾといった状態で精神が留まっている暇などない。私たちは寧ろ常にビンゾとは何か、<私>とは何かと問うことの能力を付与されたゾンビなのである。永井均氏が敢えてビンゾという言葉を提出されていることにはそういう予感があるのではないかと私は考えるのである。それは命題論的真理としての可能性を、ゾンビに対し取り得るという形で、逆にゾンビであることが、ではそれは果たしてただ疑念を抱くべきことなのだろうか、それともそんなに依怙地に否定したり忌避したりするべきものではないのではないかという問題を提起する意味で有効な命題論的態度なのである。
 つまりそのように命題論的可能性として何かを概念として提起するということが既にその概念に親しむという行為であり、その概念の有効性に対して対他的に共謀関係を構築すること、つまり真実に肉薄していないタイプの哲学者に拮抗することが出来るからである。