Tuesday, November 11, 2014
何処迄も何時迄も、動き止まり、果てしなく広がり狭まる(インターミッション・詩)
何処迄も広がり、何処迄も此処の内に入り込む。
時間は先へ先へ進み、誰もが最後は死ぬ。
どんどん老いてゆくけれど、どんどん若くなり、しまいにゃ母体へと戻り、父親の精子になり、そうやって辿って行けば全ての生命の祖先へと辿り着く。
時間の未来は宇宙の広がりに似て、過去は宇宙の誕生を目指す。
過去への旅は宇宙の点への果てなき入り込みみたいだ。
移って広がりを掴み、限りない動きの果ての無さもあれば、止まって縮まり内側に入り込んでゆく動きの果ての無さもある。
一方で益々速さを増してゆこうとすれば、他方益々速さを落としてゆこうとする。
果てしなく速さを増せば、空間はまるで止まっている様に見え、時間だけが経つ気がして、果てしなく遅さを増せば、時間はまるで止まっている様に見え、空間だけが迫っている様に見え、時間も空間も無と永遠が同一のものの様になる。
真っ直ぐに移動し続け加速を増せば、果てしなく動きを止めている様。
止まった侭みたいに鈍くゆっくり動けば、点を求めているみたい。
果てなき止まっているみたいな動きは果てなく動かない様にする動き。
迷いのない点の様に真っ直ぐ移動するのと、果てなくじれったく真っ直ぐでないみたいな真っ直ぐさが持っている、何時迄経っても到達しない、しつっこい点みたいであること。
心は世界なのか?
気持ちの移り行きはあてのない宇宙の旅みたいだ。
否気持ち自体が宇宙で、宇宙の旅が気持ちの移り行きなのだ。
心は宇宙が作り、宇宙は心を作る。
心は宇宙、宇宙は心なのだ。
心は何処迄も何時迄も止まらない、内にも外にもずっと。
(2014.11月から11日迄)
Sunday, April 27, 2014
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十五章 田辺元『哲学入門‐哲学の根本問題』解析からカント三批判書の存在理由を考えるChart1
田辺元は『哲学入門‐哲学の根本問題』に於いてマルクスをマルキシズムに拠って曲解された(そういう語彙を使用していないが)マルクス自体は、全くマルキシズムで提唱されている性質のものと違うと述べている。特に初期論文である『デモクリトスと自然哲学とエピキュロスの自然哲学の相違』という極短い卒業論文から、その思想は多分にデモクリトスに負っているそれ迄の哲学と異なってエピキュロスの思想を反映したものである、と解析している。その箇所で田辺は原子自体が自然界を統一する自然法則に拠って全く偶然性を介入させない筈だというそれ迄の思想に対して、つまり自然法則的必然性に対して偶然性の可能性を示唆したのだ、という論理を展開している。その偶然性を田辺は「原子の必然的運動逸脱の可能、それる可能」と言っている。そしてそれは歴史解釈でも展開され、「あらざるをえざる」を必然、「あらざるをえる」を偶然として、歴史を後者として規定した。そして我々の心の衝動の様な状態を自然であるとした時、動く事自体が無の有化であり、逸脱可能であるが故に理論的にはそれは偶然の部に入ると考えている。
しかしこれはやはり凄く唯物論的視座での認識であると言えよう。
何故なら我々の心の方を基軸にすれば、あくまで何かをしたい、何かが欲しいという形で行動へ移すとすれば、それはあくまでどうすればそのしたいことが実現し得るか、どうすれば欲しいものが手に入るかという形で、其処には明確な行為因果的な道筋が形成される。従ってある欲求が衝動的に発生したとしても、その欲求実現の為に払われる行為全体は意図的なものであり、又其処で得られた成果や達せられた目的も当然偶然的な事ではなく、その意志の道筋に沿った必然的なものになるだろう。この考えはデカルトのコギトを据えて考えてみれば極自然なことである。従ってデカルトは自分自身の心を田辺の認識の様に偶然性としては決して捉えなかったであろう。
このことから、田辺元はあくまで哲学史的にはデカルト系譜の哲学者ではない。ヘーゲル主義的認識を出発点にしていて、その後マルクス、そしてハイデッガーも翻訳しつつ、その哲学論理を批判するという展開を採っている。
しかしカントはデカルト系譜をよく知ってはいたが、やはり全くデカルト的コギトを超えようとしたとは言える。つまり後にヘーゲルに拠ってマルクスの持っていた唯物論的認識を発生させ得る体系的思想、それは多分にアリストテレス的視座なのであるが、それを資質的には受け継いだマルクスの視点とはデカルトは異なっていたが、カント自身はヘーゲルの『精神現象学』(1807)を知らずに生涯を終えるが、既に少しずつ台頭していたヘーゲルの事を知っていなくても尚ヘーゲル的存在の台頭を予感したかも知れない。カント三批判書は1781年に『純・批』、1785年に『実・批』、1788年に『判・批』が発表されている。カントは1804年に八十歳で死去するので、その三年後に当時三十七歳だったヘーゲルに拠って発表された『精神現象学』はカントへのオマージュという意識もあったであろう。ヘーゲルは1831年に71歳で死去し、マルクスは当時十三歳の少年であった。因みにマルクスは『資本論』第一巻を1867年に四十九歳で発表している。結局『資本論』はロンドン移住後に書かれたが、完成することなく1883年に六十七歳で死去する。マルクスの膨大な遺稿とノートが存在する。二年後にエンゲルスが第二巻を、そして更に九年後の1894年に第三巻を発表する。
ハイデッガーはその六年後の1889年に生まれている。田辺元はその時四歳の少年であり、西田幾多郎は田辺より十五歳年長なので、十九歳の青年であった。
先程衝動という語彙を田辺解説で使用したが、この語彙は西田に拠る『弁証法的一般者としての世界』(1934年)(西田六十四歳)に頻繁に登場する重要な概念アプリである。西田は終戦を待たず1945年の六月に急逝する。七十五歳であった。田辺は1962年に七十七歳で死去している。
デカルトは1596年に生まれ1650年に死去するので、僅か五十四年程の人生であったが、カントが生まれたのがデカルトの死去後七十五年後1724年なので、ほぼ一世紀程の時間差を持っていると言っていい。カントは田辺も指摘している様に、論理体系的な部分があり、それはアリストテレスへのオマージュであると言えるが、実際その思想はデカルトコギトとカントの死去後にヘーゲルが到達した体系論理的な視座との中間にあるとも言える統覚Aperceptionという概念アプリを提出した。
この統覚はデカルトコギト程緻密に認識的ではないが、ヘーゲル‐マルクス的唯物論的体系性へ依拠する程メタ概念的でもない。西田が『善の研究』で示している当為とは、恐らくカントの言う統覚にそれ程離れていない。
西田の当為は凄く意識的意図的な私とか、その目論見とかではない。しかし完全に不随意運動的な神経作用の様に完全身体自動的なものでもない。その中間にある何かだと思われる。意識と無意識を繋ぐ架け橋的なもの、或いは意図と非意図を繋ぐ架け橋の様なものと言っていいだろう。その分では西田哲学の本質はやはり西欧哲学文脈だけから理解する事も難しい。恐らく田辺哲学の方がより西欧哲学文脈から継承している部分が大きい。勿論自身の種の論理が戦争へと利用されていった経緯から『懺悔道の哲学』を発表しているので、その懺悔道では当然東洋思想も多く彼は引用している。しかしその後で書かれている『哲学入門‐哲学の根本問題』は懺悔道を構築する為に必要であった東洋思想を西欧哲学へと転化させている、と少なくとも論文自体からは読み取れる。
そしてその際に重要なこととは、西田が明らかに閉鎖系的な体系性に依拠させようとする分で論理的構築である哲学を、東洋思想が準拠する開放系的な完成拒否性を提唱していると言えて、それは要するに哲学思想の純粋宗教実践思想性への昇華、或いは同化という目論見である事が窺える。その兆候は充分『弁証法的一般者としての世界』で観られ、完全に結実するのが『場所的論理と宗教的世界観』だったのである。
しかし田辺はそれをもう一度哲学史的文脈の中に再構成しようとした。その意図の中で『数理の歴史主義的展開』中の論文である『場所的直観説の不備、時空「世界」の歴史性』があったと考えられる。
次回はその田辺に拠る西田批判と西田が目指したものの分岐的意味合いを、前回取り上げた『弁証法的一般者としての世界』『場所的論理と宗教的世界観』を取り上げつつ、田辺論文『場所的直観説の不備、時空「世界」の歴史性』へと対比させつつ、その際にカント的「統覚」をキーワードに考えていってみよう。(つづき)
付記 今回は取り上げなかったが、ウィトゲンシュタインに拠る「私的言語」という概念アプリは明らかにデカルトコギト系譜的命題だと言える。ハイデッガーと同年に彼より少しだけ早く生まれているこの哲学者が現代哲学へ多大なエスプリを与えた事は言う迄もない。尤も今取り組んでいる命題を突き詰める為に再度彼に登場願う事もあるが、それ迄にしておかなければいけない作業は多く存在する。(Michael Kawaguchi)
Monday, April 14, 2014
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十四章 西田幾多郎『弁証法的一般者としての世界』解析からカント三批判者の存在理由を考えるChart1
カント三批判書の持つ空間的意味とは恐らく生者にとっての空間と死者にとっての空間とは全く異質のものであることの根拠の問題なのであり、それが恐らく『純・理』での神の存在証明(それは神の永遠の不死をも誘発する存在証明であるが)という概念を提示させているものと考えられる。つまり神が永遠的と考えられるのは、あくまで生者としての我々から観た場合のことなのであり、死者はそうではない、ということだ。死者は神の永遠性を把捉し得ない。だから死者とは神の一部だとも言える。
カントは空間の事は殆ど字句的には示さない。しかし彼の哲学の背景には生者と死者の問題が横たわっている。背進という考えの中にそれを読み取れる。二律背反的に背進が成立するのは、我々が死者ではない、思惟し、思索し、熟考する事が出来るからだ。だから西田幾多郎が考えていた意味的統一に対する場所的統一とは死者の時間である。となれば当然意味的統一は生者の時間である。となると西田が『弁証法的一般者としての世界』から『場所的論理と宗教的世界観』へ至る中で模索していた合目的的統一という対象論理性を超えた有機的統一という誠(『場所的論理と宗教的世界観』四の後半に出て来る概念)とは、<一般的限定即個物限定、個物的限定即一般的限定>という別語でも示されているが、それは生者である我々の意識界で介在する対象論理を超えた中心のない円を育む時間、つまり死者の永遠を生者にとっての日常に取り込む、死を日常化させるという試みだと言う事も出来る。
今回は『弁証法的一般者としての世界』一の大意から考えていこう。
西田の言う「無限大の円でなくして、中心のない円でなければならない」とは、西田が別の場所で「夢といえども社会的・歴史的限定を離れたものではない。しかして我々は我々を、行為的自己として、我々が有ると考える」という一節へと論点が譲り渡されている。
つまり、「我々は我々を、行為的自己として、我々が有ると考える」とは、正に俗な社会を生きる、社会のレイバータイムに観られる利潤を獲得する為に費やされる時間の長さ(つまりコスト)の中に自己を埋没させて、其処で社会的自己としてのアイデンティティを証明している生者の時間の概念規定である。しかしだからこそその頽落した時間の中で我々は中心のない円を自覚し、見出していくべきなのだ。それは死者の時間が絶対的に我々の様ではない、ということ、つまり自己がないということ(まさにそれこそが西田の言う自己否定を誘発するのだが)、そしてその死者性を生者である我々が取り込め、と西田はそう言うのである。
だからこそ「単なるコギト・エルゴ・スムの自己は抽象的自己たるを免れない。我々の主観的世界と考えるものは、上に我々が内的統一(この語彙が重要である。筆者注加入)として直線的と考えるものは、その根柢において円環的でなければならぬといった意義において、円環的でなければならぬ。しかもそれは私のいわゆる無の場所的限定という意義をもっていなければならない」という箇所は、ベルグソン的純粋持続を意識しているものの、それを超え得るものを志向している。
そのことはそれより少し先の箇所の「瞬間は固、摑み得るものではない。瞬間は現在の自己否定すなわち自己拡散によって成立する」そして「各人が各人の時をもつと考えられる」「現実の世界が世界自身を限定すると考えられる時、無数の瞬間が成立する」「時の統一においておのおのの瞬間が消えて生まれるということは、各瞬間が無限大の円の周辺を廻るというごとき意味でなければならない、否中心なき円の周辺を廻るというごとき意味をもたなければならない。各人が各人の時をもつと考えられる我々の個人的自己というものも、弁証法的に自己自身を限定する世界の自己拡散の方向に考えられるものでなければならない。故に我々の行為は歴史の中から生まれ、歴史の中に失せ行く」といった一連の記述は、歴史とは言う迄もなく生者の特権的時間であり、そうでない死者の時間を取り入れた自己の時間とは中心のない円なのであり、それを生者が日常に取り込む事は、歴史の中に所詮失せ行く時間という移ろいと儚さと空しさの前で自己が自己として生きる事は、本質的には(社会<それは全個としての他者の事である>の規定する時間を一方で知って居つつ、それだけに振り回されず)死者の時間を生の中で会得することである、という主張(当然それは日常的惰性的時間の批判ともなっている)なのである。
と言うのも我々は何かをする時連続した時間の中で行為を実感する。そしてそれを今と呼ぶ。しかしそれは瞬間の連続ではない。その点ではベルグソンにせよメルロ・ポンティにせよ同じ事を言っている(各人の哲学の志向する先や目的は違っていても)。しかし「瞬間は固、摑み得るものではない。瞬間は現在の自己否定すなわち自己拡散によって成立する」で言っている様に、それを自己拡散すると言う事は、即ち死者の時間へ生者の時間を送ると言うことに他ならない。死者の時間に思いを馳せる事は、生者の時間を社会的コストから離反させた時間を自己内統一という形で会得する事に他ならないからだ。自己否定しなければ(つまり社会的自己の頽落した時間の中での行為性から自己を解き放たせなければ)真の時間は見えて来ない。西田は真の時間とは死者の時間を会得した末の生者の時間だと此処で考えているのだ。勿論死者は永遠に死者であり、死に時間はない。だから逆にそれは絶対的静止であり、絶対的瞬間の永遠だと(我々生者からすれば)言える。
しかしそれを一旦認めてしまえば、却ってその絶対静止(無時間性)の無限大の集積、絶対的統合として我々の生の時間を把捉し得る、認識し得る。
「真に内的統一として、真に個物から個物に移る、瞬間から瞬間に移る、真に消えて生まれるというには、かえってそれは円環的意義をもたなければならない。これに反し円環的限定が真の円環的限定として、個物を包むという意義を有するかぎり、それは直線的限定の意義をもたなければならない。それは単に無限大の円でなくして、中心のない円でなければならない。」に観られる西田思想の晩年の本質とは無限に発見し得る瞬間(それは正に死者の時間に他ならない)を把捉せよ、という生者にとっての使命、義務、頽落した社会的義務ではなく宗教的自己にとっての義務を述べている、と捉える事が出来る。
西田の言う自己拡散とは自己否定へと至る最良のメソッドである。瞬間に気を取られている訳にはいかない日常的に頽落した時間を無限大の瞬間の集積、絶対的統合として捉える視点を西田はこの語彙に拠って提供している。西田が言う各人とは永井均の<私>でもあるし、認知科学一般で言われるクオリアの未解明性のことでもある。
「我々の自己というものは、かかる世界の自己限定と自己否定との間に考えられる個物的なものなのである。故に我々の自己はパスカルのいうごとく、いつも無限と無との二つの深淵に臨んでいると考えられるのである。全体と無との間にあると考えられるのである。我々の現実の世界が現実の世界自身を規定することから考えられるのである。我々の行為は無から出て無に返ると考えられるとともに、絶対を主体となすということができる。時の瞬間が周辺なき円の周辺を廻ると考えられるごとく、我々の行為も絶対の世界を廻ると考えることもできる。」は、一の最終部の記述である。此処で西田は「我々の行為は無から出て無に返る」そして「絶対を主体となす」とも言う。「時の瞬間が周辺なき円の周辺を廻ると考えられるごとく、我々の行為も絶対の世界を廻る」に拠ってその二つは説明される。
絶対とは永遠の時間にして我々の様な生者しか把捉し得ない永遠という想念の場そのものであり、それは絶対静止的空間(其処に全物質が存在する)であり、その揺ぎ無さは永遠である、そして永遠は我々生者しか把捉し得ない。そしてその中で周辺なき円の周辺を廻る瞬間を見出す事、会得する事を生の極意としている、という意味で西田は明らかに哲学を宗教へ一体化させようとしている、と読む事が出来る。そして「絶対を主体となす」こそ死者の時間(永遠の静止にして永遠に不滅)を生者としての我々の日常的には頽落した時間の中に取り込み死者性を生者性へ導入せよ、そうすることで本質的時間、つまり永遠の中心無き(ある意味ではそれでも尚飽くなき中心への志向を留めることの出来ない)生の時間を自覚せよ、勿論それは生の有限性を語っている(「我々の行為は無から出て無に返る」で示されている)事でもある訳だが、そういう風に読み取る事が可能である。(つづき)
Friday, February 14, 2014
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十三章 現実の嘘臭さを克服する処方の持つ運命
現実を嘘臭くしか感じられないとするなら、それは完全に自分の望み、そうである筈だと思う像と現実が乖離していると感じられるということであるから、必然的にそれは現実感覚以前的なイデア的感覚を感性的に何事に対して判断するにしても、捨てられないということを意味しよう。
空間的なことをカントが考えていた様だとは今言えるが、今回は直接彼のテクストへ向かうのではなく、一体哲学的想念とはどの様に形成されるのかということから少し考えてみよう。
空間は時間を運ぶわけではない。何故なら時間が存在すると言い切れる程我々は時間自体の正体を知らない。要するに事物や空間内の全事象が変化する。我々は空間を移動する。移動する際に時間を要す。従って空間は時間的な移動に拠って体感されるし、空間の移動に拠って我々は空間の存在的絶対性を覚知(把捉)する。
その空間とは事物や事象を全て包み込む場だと取り敢えず見做し、その内部での(この内部という考えもそれ自体検証する必要があるが、これも取り敢えずそう単純にしておこう)あらゆる変化や移動、動き一般全体を嘘臭く感じてしまうとしたなら、それは要するに現実以前的な「現実とは~である筈だ」とか「現実は~であるに違いない」という想念が立ち上がっているからだ。
しかし我々はやはり決定的にそういった想念があればこそ、実際の現実で起きることに対して一喜一憂したり、こんなことがあり得るのかと驚いたりする。つまり現実を現実の侭に受け入れることとは、最初から単純になし得ることではなく、現実への否定という形で想念的にはまず立ち現れる。しかしこれはヘーゲル的な視座である。彼は否定ということをあらゆる名辞に対してなし得ると考えた。それが止揚ということを生む。何事かとは何事かではないということと対にしてしか認識され得ない。
現実が嘘の様にしか見えないという感性こそが、現実のどうしようもない抗い難さの前でどう対処するかの全ての判断を促進する。
デカルトは今観ている全事実が幻想かも知れない、悪霊に拠ってそう見える様に仕向けられているのではないかと考えた。しかしその仕向けそれ自体をそう認識すること、つまり現実に今~が起きつつあるということそれ自体を幻想ではないかと疑うこの私だけは否定し得ないとした。今私が目の前で確認出来る全てを私は確かに疑うことは出来る。昨日観た夢の続きかも知れないとも言い得る。つまり昨日夢を観たと察知して起きて今こうしてパソコンの前に居ることそれ自体が、実は昨日の夢の唯の続きで、夢から覚めてパソコンに向かっているという夢かも知れない。そしてそうではないと私は確かに一方では知っている。しかし確かに今起きて文章を打ち込む私の行為それ自体を、もう一人のそれを夢かも知れないとする私は、実は先程の現実の方が実は私が脳内で想念する現実とは~である筈だということよりずっと嘘なのかも知れないと言い得る。何故なら私は恐らく後数十年の間に必ず死に、その後は今世界をこうであるとか、こうであって欲しいとか、そう認識したり把捉したりすること全てが今の様ではなくなるだろう。そしてそうなっていった後の(それは私そのものではないかも知れないが)何かを感じるということがないその状態の方こそ真実に現実であり、今私が仮に現実に対して疑いを持つということ、嘘の様にしか感じられないと思うその感じ方の方こそ全て幻想かも知れないからである。これはある意味ではデカルトの何かが何かであるということ自体を疑う、現実だと思う全てがそうではないかも知れないと思う私そのもの(デカルトはそれだけが疑い得ないものとしたのだが)をも俯瞰する地点に別の私が居ることを意味する。
これは二重の意味での懐疑論である。しかしこの懐疑論はそうメタ私の様なものを規定した瞬間、実はこの規定の仕方自体が一種の痛烈なるどうしようもなく展開するこの現実、世界のあらましの全てをそうなっている、そう展開している(様に見える)ことそれ自体は否定しようがないということを主張してもいるのだ。
事実仮に今私は夢から覚めて起きてパソコンの前に座ってワードを打ち込んでいるこのリアル自体も夢かも知れないと思うことも、又仮にそれこそが事実で、現実に起きてパソコンの前に座ってワードを打ち込んでいる夢を見ているということそれ自体だけはやはり決定的に夢ではなく現実である。或いは事実である。
つまり今観ているのが現実であるかとか、そうではなく夢か幻想かということの是非が重大なのではないのだ。寧ろその様に現実に起きているのか、あたかも現実に起きているかの様にそう見える、或いは幻想している、ということ(という事実)の方が重大なのである。その点ではこの現実に起きていることとか、現実に起きているとそう感じられる、そう認識出来るという事実だけを抽出すれば、当然そういう事実を抽出し得るこの私こそ、或いはデカルトが考えた私なのかも知れない。恐らく寧ろこちらの方をこそデカルトは私と考えたのだ。
これはしかしある意味では極めて認識というものが、認識する主体である私と不可分で、同時にその認識をすること(その事実)自体に対しては肯定的であるということは、即ち結局現実が本当にそうであるのかとか、否そう本当の様にそう見えているかということなどは、それ程重大なことではなく寧ろ些末なことであり、兎に角現実にはそう起きている様にしか見えないということこそが重大だということとなり、このことは結局、現実とか「~であるべきだ」という倫理的な現実認識をも含み、その様に実際にはその様に、あるべき姿としては展開していない現実を、しかし「~であるべきだ」と、あたかもヘーゲルが考えた否定を通してしか現実の事実AもBも、名辞としてのそのAもBも認識し得ないという把捉的な在り方をも含め、その様に想念すること、その様に思念すること、その様に認識することそれ自体からの不可避性とは、其の侭ダイレクトに結局それこそが現実肯定であるとしか言い得ないという結論へと持ち込まれるのだ。
従って現実の嘘臭さを克服する処方の持つ運命の名辞とは、唯一現実を嘘の様だとか幻想の様だとか、そうである筈はないとか、こうである筈だとか、こうであるべきだとそう想念すること、そう思念すること、そう認識すること、そう把捉することそれ自体の、ある意味では恐らくそれこそがデカルトの言いたかったことである処の事実性こそが、現実を肯定するしか我々には残されていない、というある種の唯一の意味となり得るのではないか、とは取り敢えず言い得る処のことである。
しかし同時に先程の私が死んだ後に恐らく現実が嘘臭く見えるということそれ自体さえ無さだけである様な処の感じ方でさえないかも知れないことが現実であるとしたなら、やはり決定的にこうなっていまっている、今その様に展開しつつあるこの世界の、現実としての全ての変化、動き、移動等の事実も所詮幻想でしかない、或いはそれは存在していようが、いまいがそんなことなど寧ろどうでもいいこと、つまり本当らしさも嘘臭さも所詮決定的に無でしかあり得ないという想念も、又二重にメタ的に湧き出て来るとも言い得る様に思われる。
Sunday, December 23, 2012
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十二章 時間論を超えられるか?/空間の存在の側からの絶対性に就いて
意味は既に何に関しても直観的に明確である。それは意味が必ず実在的に最大級の主張をしているからである。それに対して概念は常に形骸的である。それは統語に近く語順的な言い方の癖の様に物事の理解の為の癖の様なものである。だから表層的で形式的な概念は変わり難く、実在的その時々で全体的なメッセージとなっている意味(意味とは常に世界への全体的な把握から齎される)は横溢しているが故に時代と共に、状況と共に変化しやすい。唯戦前であれ戦中であれ戦後であれ日本の女性ということを考える時その本質的な意味は変わらないと言う時、そこでは概念的な女性性への理解をよりメッセージ啓蒙的に分かりやすくしているだけのことである。
哲学的には意味は移ろいやすい。
だから意味はより時間論的範疇のことである。概念の方がなかなか執拗に歩くとか、大人とかの形式的な把握を変えないのでより時間を超越していると言えるが、それとて完全に不変ではない。ある概念はそれを必要とされなくなる大きな事態の変化というものには耐えられないからである。しかし空間はそうではない。時間から唯一影響を受けないものとして空間をカントは考えたとも言える。
存在も意味も既に時間論の範疇の命題である(存在は存在する事実からしか語れない。従って存在事実は時間論的である。すると存在と言明する時既に我々という時間と無縁で居られない存在者の側からの言明となり存在自体も時間論外で居られなくなる)。そこでどうしても存在と意味を設定する場、つまり空間が求められる。それはどうしても思惟の上で相対的なことではなくなるのだ。絶対基準としての空間、絶対無ということになってしまう。それは唯単に思考上の便宜によるものなのか?もしそうなら存在も意味も時空間ということになるが、そうなると空間は相対的となる(現象学はそう考えている。カントは違う)。
また意味が説明的であることは、仮に意味が不変であってもそれ自体時間的なことであることも免れないということである。要するに存在も意味も時間論へ吸収され、空間を場として考える余地をどうしても残してしまうということを意味している。
空間的なこと、つまりカント的崇高なるものとの出会いは、身体論的であり、空間のエロスの問題である。実はここにありとあらゆる宗教的感情の発生の根拠があるものと思われる。空間の只中に立たされていることその事実は、空間の只中に「在る」固有の感じで疑いのないものである。そこで自己存在からは太刀打ちの出来ないメジャーさとして空間は覚知されるが、覚知している自分という認識は、あらゆる思惟が身体を事実化するロゴスによって生み出されていると我々は覚醒する。
そこでロゴスとしての自己がエロスを際立たせていると知る。
ところで一億年前も十億年前も地球が誕生したと言われる四十五億年前も、或いはビッグバンのあったと言われる137億年前からこのかた空間それ自体は全く変化してこなかったのだろうか?アインシュタイン的に空間の歪みと言うと、そこにはもう既に時間が介入してはいないだろうか?
ここでも結局存在者である我々や地球や宇宙(要するに実在)からしか空間を考えることが出来ないのだから、時間の介在しない(時間、つまり自然のあらゆる変化を消去した後に残る)純粋な空間などは思惟に於ける論理的可能性でしかないということになる。
しかし本当にそうなのだろうか?絶対無にしてありとあらゆる存在を包括する空間それ自体は137億年前から宇宙が消滅する迄変化しないものであるなら、その間の全時間は絶対無の現象となろう。ビッグバン以前と宇宙の消滅以後はではどうなるのだろうか?そこ迄考えるならやはり絶対無としての空間を想定することは無意味ではないのではないだろうか?
結局物理学の未来の方向性も、この存在という既に変化を伴う時間が介入した自然と共に変化しつつある実在的側面(自然とは我々をも含めて全生命現象と全存在との総体とも言えるが、哲学者は我々を自然とは捉えないし、科学者も自然と自然を認識する我々は区別しよう)から空間を捉えている(認識している)のは、絶対無という絶対的場の上での現象(でしかない)ということなのか、それとも現象と言うそのこと(絶対的事実)こそが空間そのものなのか(それだとどうしても空間自体の認識は相対論となってしまう)、という哲学的認識如何で大分様相が変わっていくだろうし、いずれの立場も維持されていくと私には思われる。
しかしここでも二元論的な認識体系が浮上してしまう。この夢魔から如何にして逃れられるのだろうか?
最終的には存在自体が刹那であるのか、それとも永遠であるのかという認識の差によってありとあらゆる想定される問いは異なった様相で認識されることとなる。宇宙も誕生と死滅とがあるから、当然存在は刹那である。死があるものはたとえ悠久の時を持とうが刹那である。しかし我々自身は「我々の宇宙」の外から考えられないが、「我々の宇宙」の死滅「後」の世界も想定し得る。それは世界、つまり我々の世界を「世界」とすることから可能である。ここに無限背進構造が認められる。そうなると結局アリストテレス原理へと帰着してしまう。カントはプラトンは永遠を前提している(カントの謂いでは知性論者)が、アリストテレスはそうではないとしている(要するに永遠問題を不問に付している。カントの謂いでは経験論者)。フッサールのエポケーもこの不問に付す態度である。しかし刹那は永遠が生んでいるとは語義論的には言い得る。そしてここでも無限背進が浮上してしまう。結局存在が記述問題へと摩り替わってしまうジレンマから我々は自由になれない、ということ以外ではなくなる。
空間は触覚的に体感される(tangible)。つまりそこで意味を食み出すのだ。何故なら意味とは説明的なことだからである(空間それ自体は説明出来ない)。
空間を測量することは、そこに既に面積や体積やを求めるという測量行為を伴うが故に時間的な空間の認識をする、ということだ。それは時間化された空間なのである。時間化された空間とはそれ自体相対的空間なのである。
それに対し何処迄も拡張可能な空間(カント『純・批』のアンチノミーとしての)は、それ自体絶対ではないだろうか?(尤もここで「自体」とする時名詞化されているから記述問題が絡んでしまう)
無限性、そして永遠とはこの絶対無として想定された空間である。
生そのものは時間的なことである。生は空間的ではない。生命も空間的ではない。空間はあらゆる存在(生をも含む)以前の絶対基準である(として考えられている。それは取り敢えずなのかも知れないが)。芸術で示せる空間も作品という点を提示する行為的空間故、限定的時間空間(パフォーマンス)であるとも言える。
人間の身体自体がホメオスタシスとエントロピー縮小の賜物なので、空間に対して点でしかない。存在とは存在の認識であるが故に存在者という点からしか認識され得ない。点が存在しないとすれば存在も成立しない。
そう思考すること自体が点から空間へ対峙していることなのである。
ところでここで世界に存在する全ての存在者(現存在)の気持ちということを考えると、それは論じることの不可能領域となるだろう。それは空間が説明不能なのと同じくらい説明不能であり、現象的なことの無限と言うに近い。その問いは甚だ具体性を欠いてしまう。この抽象化された問いは、そこから逃避すると絶対正義などの観念を喚起する。しかし空間を絶対無として認識するその仕方は幾分それと似てはいないだろうか?つまり説明され得ぬと説明され得ることとしては全存在者の気持ちと空間とは酷似している。
今回は意味と概念との往復運動それ自体が時間論であり、その時間論的堂々巡りをいい意味で発展的に進化させることの先に空間論が浮上するメカニズムに忠実に考えてみた次第である。
次回はカントの三批判書に則して考えられる空間の今日的問題に就いて考えてみよう。
Sunday, June 10, 2012
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十一章 意味とは永遠のものなのか?/意味の変化と連鎖に就いて
意味に就いて問うことほど多くの現代哲学者を悩ませてきたものはない。しかし意味はある部分では極めて時代的な思想とか国民(ある言語を使用する民族)の間での総意の様なものとして意思疎通上では明確なものであり続けてきた。
だが意味はある民族から別の民族へと受け渡された時微妙に存在理由を変える。例えば日本人はアメリカ人と国家観も平和観も幸福観も微妙に異なっている。あらゆる普遍的意味さえ民族が違えばその在り方は異なっている。
にも関わらず我々人類が民族の差などなく全ての民族が幸福を人生で求めるとかの普遍的意味というものはあり得る。そういった意味では意味が普遍的であり得る為には翻訳されても「変わらない」部分だけを意味とすべきだ、という考えも提出され得る。
欧米では幼少の頃からキリスト教倫理的な教育を子供達は受けさせられる。その訓育的な厳しさは今の日本には希薄なものである。だからそういったある部分では宗教戒律的な規約の中で育まれてきた文化の一部として綿々と育まれてきた哲学は竹田青嗣の朝日カルチャーセンター講義での言に拠ると、「神という存在への克服」という形で文化史、生活史的には言い得る。
しかしそういった文化的様相の差異以上にもし哲学の持つ命題の背景を無視したそれ自体の価値にだけ目をとめれば、当然哲学的論理とか形而上学的論理はそれ自体民族文化の差を越えたグローバリティを獲得し得るとも言える。その点にのみ着目すれば、意味とは翻訳されても変わらないものとなる。
もしここに一台のパソコンがあったとして、そのパソコンと同じ機能を持つ同じ機種のパソコンはそれぞれそのパソコンメーカーが開発した製品であるから、設計図もあるだろうし、パソコン機器自体のハードからソフトに至る迄プログラミング言語であれパソコン本体の頭脳であれオリジナルは存在し得ようが、パソコンの利便性はそれをコピーして作られた全製品で差異なく(勿論中には不良品もあるだろうが、そういう意味ではなく)その一台の同機種のパソコンもそのパソコン自体の有用性という意味では変わりない筈だ。そしてその機種のパソコンの有用性と機能こそはそのパソコンの意味である、とすれば、当然そこにオリジナルとコピーの差など何の意味もない。
つまり上の記述から考えれば意味とはオリジナルとコピーの差を無意味なものとすることに於いて成立する筈だ。
例えばバッハが書いた直筆原稿自体は歴史的資料としての価値はあるだろうが、「ゴールドベルグ協奏曲」の持つ学理的意味はどの様な形で印刷されたものでも同じである。三島由紀夫の「金閣寺」は文庫本であれ初刊本であれ文章自体を鑑賞出来るという意味では同じである。
カントールが直に書いた数式だけが価値があるのではない。彼の発見した公理自体に意味があり、それはオリジナルとコピーの差を無意味化させている。その点ではピカソの「ゲルニカ」が世界で一枚しかないというアートの価値は、今迄述べてきた楽譜とか小説の文章とか数式とは異なったものである(その点はそれなりに分析し、解釈していく必要がある)。
しかしピカソの「ゲルニカ」さえ何時かは物体として消滅してしまうだろう。その意味では意味とは永遠なものではない、という哲学的時間論がここで浮上してくる。
確かにある優れた方程式や公理はオリジナルとコピーの差を無意味化している。しかしその方程式や公理がもっと未来の人類にとっての数学では今ほどの価値を有さなくなっている可能性はある。あることの意味の内容は変わらずに未来へと伝達されたとしても尚、我々はかなり遠い未来ではその伝達されたものの価値は今と全く異なった意味を持っているかも知れない。
つまり意味の意味は永遠不変ではない、ということである。しかしある時代に本質的な意味となることは、古代、中世、近世、近代、現代と変転してきた様な意味ではない、もっと基本的な(しかしそれ自体自明性の名の下に決定的な意味をその都度は持たない)意味は概念化されたものとしてかなり長期に渡って変わらない。日本語で「大きい」「小さい」「変わる」などがそう容易に変わらない様な意味でである。
この事実は東北地方の広範囲で東日本大震災が勃発しても尚、東北諸方言がなくなることがないということや、彼らが大震災によって統語構造を変えていくことがないということとよく似ていはしないだろうか?
概念は基本的なことであり、その上に時代毎に固有の本質的な意味が加わる。概念とは言ってみれば古層なのである。しかし古層はあくまで相対的な不変性しか常に引き継がれない。その相対的不変性に対してそのことが「ある時代」ではどう意味作用するかという部分に意味が感情的で情動的な我々からの感知或いは認知だと読み取ることが可能である。
だから意味は不変ではない。永遠ではない。それは移ろいゆく。しかしその移ろいゆく部分こそが常に「ある時代」では本質的なのである。今の日本人にとって津波の持つ意味は大きく昨年の3.11以前迄とは変わった。だから或いはかなり時間はかかるだろうが、津波の持つ意味が変わる時には「かつて10メートル以上の津波は脅威であった」という意味となるかも知れない。しかし依然津波は津波であり、そういった意味では移ろいゆく意味を連綿と次代へと繋ぐものとは端的に基本的概念である。
意味の連鎖を保証するものとは基本的概念だけなのだ。そしてその基本的概念への時代毎の「接し」「対応」こそが「ある時代」のその概念を有する事態の意味である。そして意味は連鎖されていくが、時代毎に意味の様相は大きく変わり、それは不変ではない。
パソコンの機能と利便性にオリジナルとコピーの差はない。基本的概念は要するにパソコンの基本構造である。今の時代のパソコンの利便性は次代には不便なものとなるだろう。しかし次代で新たに利便性を獲得している(それがパソコンであるかどうかは別として)ものにもやはりオリジナルとコピーの差を無意味化させる作用があるだろう。しかし常に何時の時代の機器も基本構造の上に「ある時代」に固有の利便性と機能という意味を乗せている。
要するにツールの利便性と機能という意味にはデネットが言うVIMがないということだ。それは機能さえ果たせば何だっていいということ以外ではない。それが利便性と機能の意味の本質である。
だから言語的なこと、つまり記号としての機能という側面から意味を考えるならあるものに固有のアウラとかクオリアは余分なものでしかない。しかしピカソの「ゲルニカ」は世界で一点である。如何に精巧に作られたレプリカもコピーでしかないだろう。しかし時代が経つにつれオリジナルは劣化し、それを修復家が補修する。それは従って厳密には徐々にオリジナルをなぞったコピーへと移行しつつあるのと同じことなのだ。いずれ「ゲルニカ」もピカソの筆触を「再現した」コピーの最たるものこそがオリジナルだと言われる様になる。その意味ではアート作品のクオリアも所詮、「オリジナルの再現」へと移行せざるを得ない。
次回は意味の非永遠性から意味の連鎖=基本概念の永続性という今回得た結論から再び概念から意味へ、意味から概念へという往復運動自体に内在することとは何なのか、ということを考えてみたい。
Friday, June 1, 2012
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第十章 言語の無限連鎖から考える存在論と意味論
人類も何時かは絶滅するだろう、と誰しもがそう考える。しかしそれを日がな一日と伸ばしていくことだけで何時迄も人類は存続する、とそう我々は思いたい。
しかしでは逆に何時かは絶滅するのではなく、絶対に絶滅せずにずっと人類が永遠に存在し続けるとしよう。もしそうだった時に、人類の言語、例えば日本語とか英語はどうなっていくだろうか?
例えばあと三百万年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?或いは三京年後の日本語や英語はどうなっているだろうか?後者の時代には当然地球ももうないだろう。すると銀河系の何処かの星に辿りついた人類はどんな言葉を発しているだろうか?
そんなこと心配しなくてももっと早く人類なんて絶滅するよ、と敢えて今そう考えずに人類が太陽系崩壊後もずっと存続し続けることとしよう。
その事態を可能化させる為の条件の一つとして個体が死滅しないで、どんどん子孫を繁栄させ尚且つ全ての世代の人類が共存していくということを考えよう。
一億歳になったある人は生まれた時に話されていた日本語が大分変化してしまった、それこそ平安時代にpaと発音していたことがfaとなり、もっと時代が経つとhaとなっていくくらいの言葉の発音の変化ではなく、もっと激烈な変化を民族全体が来たしているだろうが、言葉は個人の記憶としてだけでなく、かなり集団全体でどう使われているかということで慣用されることであるので、今七十年代に流行った「ボイン」などと言う人が居ない様に、かつて「ボインはボインやでー。ボインは赤ちゃんが吸う為にあるんやでー。父ちゃんが吸う為にあるんやないんやでー」と言っていた月亭可朝でさえ、「巨乳」とか「爆乳」と居酒屋で若い人と語る時には言うだろう。
要するに言葉はどんどん時代と共に変化していっている。それが百万年も経てばまるで言語行為の仕方さえ異なってきているかも知れない。それは個体が死滅しなくてもそうである。
唯個体が死滅しなければ一億歳の人と八十歳の人とでは記憶している量が違う。七十数年前から今迄の記憶と九千九百九十九万九千九百九十年前から今迄の記憶とでは余りにも個体差が大き過ぎるから、ある部分では個体の死滅しない社会とは激烈なヒエラルキーが存在し続けよう。もう一億歳以上の人達は死んで貰おうということにさえなりかねない。要するに言語の無限連鎖では「りんご」が「るんご」や「れんご」になるくらいでは済まされない「ごんり」「ごんる」「ごんれ」も、「ごりん」「ごるん」「ごれん」にも変わり得る様なそれこそ無限に(とは言っても口は人類にとって一つであり続ければ発音される基本形は今とそう変わりないだろうから)三文字の語彙であれば「平仮名全文字」×「平仮名全文字-1」×「平仮名全文字-2」分だけの語彙は、例えば「りんご」に対応する意味のものとしてはやがて全て使い切られよう。
すると仮にタイムマシーンが出来て何時の時代にも行ける様になったとしてもきちんとした古語辞典がなければ直ちにある時代の「りんご」に対応する語彙を識別出来ないかも知れない。
「ごんり」や「ごりん」くらいなら想像が尽くが、「りんご」のある時代の変化形「りんげ」が「げんり」になったり、やはりある時代の別の「りんご」の変化形「りんぐ」が「ぐんり」になったら、林檎の意味をあくまで「りんご」と発音する時代の人であるなら直ちにそれを意味的に理解することは困難かも知れない。
しかしもっと重要なことは人生が終わらず永遠に生き続けるのなら、我々は一体苦悩というものを持つだろうか?ということである。
「りんご」に対応する果実も一億年も経てば変化もしよう。しかしその今から一億年後の時代に未だ個体が死滅しないのであるから今生きている全人類は何処かで生き続けて居る。永遠に死滅せず只管増殖し続ける人類は宇宙全体に散らばっていくだろう。
もう一つの可能性は個体は死滅しても集団レヴェル、つまり種レヴェルでは人類は永遠に存続するとしたなら、一億年前の「りんご」が意味するところも、その意味に対応する物体も完全に変化しきってしまっている可能性もある(勿論薔薇が恐竜の時代から今とそう変わらず存続してきたことから言えば変化しない可能性も同じくらいあるだろう)。しかしその時代には「りんご」と発音している人は居なくなっているし、一億年前「これを」「りんご」と発音していたと記憶している人達も居ない。従って個体が死滅していく世界でも種レヴェルで絶滅しないのであれば、このケースでもタイムマシーンが発明されても一体一億年前の人類が何を話しているかを理解出来ないということは充分あり得る。そして個体が死滅しない世界よりはこちらの方が蓋然性は高い。そして個体が死滅するのであれば、人類はそれがたとえ三百歳でも三千歳でも苦悩というものはあり得よう。
しかし最初に示した条件では苦悩とは存在し得ようか?死ねないということで、自己とか他者とかのアイデンティティを保持していくことが果たした可能だろうか?記憶するということに何か意味があるだろうか(これこそ大問題である)?
自己や他者のアイデンティティが保持出来ないのであれば言葉など存在し得ないだろう。それはまさに死滅しないウィルスの様なものである。
では一体アイデンティティを保持させるものとは何なのだろうか?
確かに宗教家は人間は何時かは死ぬからこそ幸福感情とか様々な感情を持ち価値観を持てるのだ、と考えている。では死ねないのであれば本当にそういったものなど持てないのだろうか?
一億歳でもそれが寿命であるなら、それは個体の死滅である。だからそれは永遠に生きることではない。この違いは極めて大きい。
要するに条件設定としては死滅するかしないかの二値論理である。
これはとどのつまり永遠という概念の実在性を巡る設問である。
我々は通常永遠とはあり得ない、少なくとも我々個々の生命がそうではないと知っているからこそ、それは永遠ではないという形で永遠を知っている。
しかし同じことは太陽系や地球には寿命があるという形ではない形でなら難しくなる。銀河系も含め宇宙全体も何時かは終わるという形で理解していても、それを確かめることは我々には出来ない。
宇宙全体が死滅しても、それは「その」宇宙が我々一個人と同じことであるなら、「他の」宇宙も存在し得よう。そして分析哲学の中の独在論者達が現象性という形で理解していることと同じで、「他の」宇宙のことなんて「私達の宇宙」に住んでいる我々には分からない。その分からないこと迄分かろうとする視点から考えたのがある意味ではデヴィッド・ルイスかも知れない。マクタガートのA系列時間を模して言えばA系列的世界認識である。ルイスは「こうであったかも知れない」可能性全てさえ実在「として」考えた。
私という視点からすれば決してそれを全て把握することが出来ないことを把握可能なものとして捉えるのは、要するにフレーゲの「存在し得る数は全て存在する」ということと構造的には同じである。
私は確かに主観から自由になれないから、「他の」宇宙を想定し得ても体験し得ないので、私以外の他者は全てゾンビである可能性を排除しないという意味で分析哲学の独我論、独在論にも説得力がある。
その考えではフレーゲやルイスにとっての数とか世界とは現象的であることの意味を無化する数とか世界であろう。だがそのゾンビでなどあり得ないという形で我々が日々日常的に他者存在を認めている地点からすれば「他の」宇宙や、かつて在ったかも知れないが、それは「かつて」在ったという形で連続している必然性が見出されぬのなら、それを問題としても意味はない、という形での理解こそがウィトゲンシュタインの「論考」の主旨であった。
だからある「りんご」を私が知る「りんご」の実在の意味=音であるとして全他者が慣用する「りんご」だと思っていたこと自体が幻想である可能性も常に想定上ではゼロではないという形で考えられる「りんご」は、ある部分ではある個人にとっての幼児体験から現在迄の林檎という果実の持つ固有の意味は各個人で全て異なるという意味からも了解可能である。
そういった中での無限連鎖としての「りんご」は確かに一億歳で死滅する個人であったなら「りんご」から「れんげ」となって死ぬ間際には「げれん」になっていたとしても、粗方ある個人に於いて「ボイン」と「爆乳」が同じものを指すと知っている様に記憶されているだろうが、もしあらゆる生命個体が死滅しないのであれば、努力して何かを達成するという意志が存在し得るだろうか、という問題を再び派生させる。
死滅しない最初の条件での個体にとって「りんご」が「げれん」になっていく全てのプロセスは最早意味を持ち得るだろうか?
確かに林檎には林檎のDNAを持っているということを古代の人達は知らなかった。だから林檎を食べられると知った人類の曙の人達が死滅していないのであれば(今尚)そしてこれからもずっと永遠に生きていくのであれば、では林檎の意味自体は意味足り得るだろうか?
そうなると意味とは永遠のものであり得るかという設問を用意することとなる。意味は意味される対象への把握が作っているが、その対象も通常は永遠ではないし、常に固定化されているのでもないからである。
次章では意味の永遠性が可能であるかということを考えたい。その際に前章で考えたオリジナルとコピーの差ということを大きく取り上げて考えたい。
Thursday, May 24, 2012
存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第九章 第九章 コピーの方がずっと本物らしく、オリジナル(本物)が一番噓臭いのは必然である
現代でどんなに自分はカントをよく理解していると思っている人でも、カントの生きた時代を我々は知らず、それを仮に自分のことの様に切実に思っていたって、結局その人はカントのコピー(つまりカントが彼が生きた時代に発表した論文の現代語翻訳)を通して理解しているということ以外ではない。
しかし物事の本質への理解とは本物主義ではない。寧ろコピーする価値があると思える何かに対してである。
だから実際にサムスンであれソニーであれパナソニックであれ、本物そっくりのロゴをちょこっとだけ変えただけの紛い物を何処か無名の中国のメーカーが違法すれすれで製造しても、そのオリジナルの製品の良さを再現しているのなら、使い勝手という意味では充分目的を果たしていると言える。
そもそも我々全ての生命は遺伝情報を受け継ぐコピー以外ではないのだ。コピーである我々がコピーに共鳴するということは極自然なことである。
プラトンはある部分では恐らく(私は専門家ではないから断言は出来ないが)ソクラテスの携えていた思想家としての倫理性から絵というものを「国家」で批判している。その現実投企という意味での逃避性からなのだろう。
しかし言語活動に於いて、それこそが正論であるとされる倫理的言説の全ては意味化されているという意味で全てコピーである。意味とはオリジナルの占有物ではなく、オリジナルの持つ本質をあますところなく伝える説明であり、その説明とは本物に対してコピーである。だから意味があるとされる行為の全てはコピーである。
現実的視点に移行して考えると、仮に東京の下町にレディ・ガガがボディガード一人つけずにすっぴんで散歩していたとしても、多くの人達が格好が奇抜でさえなければ誰も本人であると気づかぬだろう。その脇をリムジンから降り立った奇抜な格好を例によって示す丁度本人と同じ背格好の女性がボディガードをつけて歩いていたなら、下町のキャピキャピの女の子達はその偽者の方を本人だと思い込むことだろう。
つまり本物とコピーの本質などそんなものなのである。
現代社会では我々は全ての偉大なミュージシャンの演奏や歌を全てコピーを通して聴く習慣が定着している。それは絵画の名画もそうであるし、そもそも映画であれyoutubeであれニコ動であれ、それらは全て最初からコピー以外ではない。オリジナル自体に何か価値があるわけではない。
哲学者のダニエル・デネットは「スィート・ドリームス」で人間の身体器官が生まれてきた時に祖先から受け継いだ生命物質ではくてもその機能は別のものに交換可能であり、身体生理的機能さえ整っておれば、それ本物でなくても差し支えない、寧ろ機能不全である本物よりも医療用代理物質の方が有用であるという考えを述べている。彼はVIM(恐らくVERY IMPORTANT MATERIALの略として想定しているのだろう)として本物に固執する人間の性向を嘲笑している。
意味とは一般化であり普遍化である。従ってそれが身体的な機能であるなら、代替されたものでも当初の目的を果たされておればそれで充分である。真理とは従って全て本物とコピーが同一の機能を果たしておればその差なんてどうだっていいという思想以外ではない。数学の公理では本物とコピーの差なんて全くどうだっていいことである。
だからこそ下町に一人で歩くすっぴんのレディ・ガガは本物であるかも知れないが、ステージ上で演出された姿態と動作とか所作とか歌声のレディ・ガガではないが故に我々ガガファンにとってはどうでもいいことなのだ。それよりは本物のガガに似せている(ステージやプロモでも彼女を連想させる)彼女の脇を偽のボディガードを従えて歩く物真似の女の方が真実味があるのだ。
だから表題である偽者とかコピーの方がオリジナルのエッセンスを巧く体現していて本物らしく、オリジナルはオリジナルに於いて戦略的に作ったものであるところの戦略を離れた素のものであるなら、それが一番どのコピーよりも嘘臭いということは真実なのである。そしてカントの本質とはカントが生きた時代に本人であるカントが毎日散歩して時には話しかけたであろう同一エリアのカントの素の顔や姿態を知る人達にとってのカントではなく、あくまで「純・非」や「実・批」「判・批」で示された意味の方であることは言うまでもない。
付記 それなのに文学者の直筆原稿とか初稿とかに付加価値を加えるのが好きなのも人類に共通して見られる傾向である。この点での根拠もいずれ解明されて然るべきであろう。(Michael Kawaguchi)
Friday, April 27, 2012
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第八章 土地と生活と旅
社会的アイデンティティを自己の確立と共に確立させていくという事は発達心理学的所見を待たずとも要するに両親が子供に期待してきた事からの呪縛から自己を主体的に解放させていく事であり、例えば女子であるなら両親の前でいい子でいる事だけで成立させてきた社会生活を、自己が自己の独立に於いて異性愛等を含めて獲得する様に磨いていく事であるから、それは一度両親が子供に期待してきた理想像を打ち破る、要するに両親が固有のエゴイズムで子供を呪縛してきた事へ反意を示す事から出発するしかない。
しかしそれはそういう時期が誰しもやってくるという事を意味しているに過ぎず、いい意味で対立する様な素振りを示さずに抵抗と両親とか年配者との共存を図るという事が大人としての態度であるとも言えるだろう。そういう実現がし得るという事自体が抵抗を実現させるという事だろう。
自己は自己固有のエゴイズムで他者、社会、国家、世界を把握する。しかし重要な事はそのエゴイズムをどれくらい自己で把握しているかである。
旅というものを考えてみよう。世界中を毎日飛び回っている者だけが果たして世界を把握しているのだろうか?毎日飛行機でアメリカからヨーロッパからアフリカ、アジア全ての諸国を渡り歩いているという事が世界を真に理解する事なのだろうか?
そういう風に点から点へと移動する事だけで生活を成り立たせている者には固有の取り零しというものが派生し得るのではないだろうか?
ある意味では世界中毎日飛び回る生活とはある土地や場所に長く過ごす事を欠落させた生活であり、海外を飛び回る生活は日本に過ごす時間を短くする事であり、移動が多い生活とは一箇所の土地に過ごすという経験を欠落させる事に他ならない。ある意味では移動生活者は移動の手段である飛行機や車や電車に乗っている時間の方が長いという特殊な場所感覚だけを与えると言ってもいいかも知れない。
今現代人はスマホ等に一日中意識が釘付けであり、電車に乗っている時にも車窓を眺める心の余裕を失っている。しかし車窓が次から次へと様相を変えていく事自体を電車に乗っている時に観察し理解する事から我々は場所や土地を移動するとはどういう事かという事を真に理解する事が出来る。
従って毎日飛行機に乗って移動している者は移動のプロセスを知らない。大気圏内で地上の様子を探る事は出来ない。次の土地に着いたらそこで突然知らされる事も多いだろう。点から点の移動ではなし得ない事とは端的に土地とか場所というものが固有の意味を生活者に与えているという事実への覚醒である。それは只管移動だけに追われている者には理解出来ない事である。どんな地方都市であれ都会であれ、同じ場所に少なくとも数年から十年くらいは住んで初めて理解出来る事がある、という意味では人生で数箇所だけ引越しをしてきた人間が仮に八十歳迄生きたとしたら、そこで初めて例えば東京と横浜の違いとか東京と大阪の違いとか、京都と大阪の違いとか、要するに真実の土地や場所に根ざした文化を理解出来るというものである。それは毎日大阪と東京を往復している者には終ぞ理解し得ない事である。何故なら毎日大阪と東京を往復していたら、大阪で固有の事や東京で固有の事にはなかなか目が行かなくなるのである。その二つの土地で変わらぬ部分に主に目が行く様になるからである。
そういった意味ではビジネスの拡張という事とある一つの土地に長く暮らしてみなければ理解出来ない事というのは対立していく要素があるのだ。
それはある意味では政治家や実業家の様に日夜大勢の他者と次から次へと会う仕事に明け暮れている者には理解出来ない他者像というものがある、という事と似ている。
これは形而上的な問題ではなく、あくまで本シリーズの表題での日常性の問題なのである。そしてそれを欠いて只管形而上的なものだけを追求する事など実質的に人間には不可能である。形而上的意味とは常に日常的で現実的な要請や不可避的な体験から生み出される倫理的価値でなければ意味がない。従ってそれは端的に経験主義的に現実に基づいたものでない限りは形骸的な形式論争に終始し、悪い意味での堂々巡りだけを招聘する。
ある土地に長く続けて住み、一箇所で同じ仕事を数年から十年するという経験こそが土地や場所固有の有難さや固有の有用性を理解する事を強いる。
それだけのある程度纏まった安定性というものが人間生活で確固たる信念を醸成していく上では必要ではないだろうか?それは最終的には終の棲家という事へも直結していくだろう。そしてそれはどう生きていくかという事、そしてどう世界への返礼を示していくかという問題である。
一箇所に長く過ごすという事は清濁併せ飲んである土地を愛し憎むという事以外ではない。全てに関して理想である土地や場所等世界中何処を訪ねても一平方メートルもない。
だから旅は余りにも目まぐるしく移動から移動だけに明け暮れるものであるなら、それは深く人間性へ土地と場所の意味や特質、或いは存在理由を明確に心に刻む事は出来ない。
又それを承知の上で各地域を飛び回るビジネス行為にも意味が生じるとは言い得るだろう。点から点の移動は安易な瞬間的なある土地と別の土地との比較しか成立し得ない。しかし纏まって数年から十数年、或いは人生全体で数十年と数十年というスパンで二つの土地を住んでみて初めて分かる事もある。
そういった意味では恋人も配偶者も出会う人数ではない。もし常に数人以上の愛人や恋人を同時並行的に付き合っていくのなら(イスラム教では一度に経済力さえ適えば数人の妻を娶る事さえ可能であるが)、その者は相手への誠実な愛の対応も心の平静も勝ち得る事は出来ないだろう。それはそれでよい。しかしその様に常に同時に相手をする事を唯実現させていく生き方ではパートナーに対する着実な善悪全てを含んだ真の理解は得られず、あくまで安易な相関的比較理解しか得られないだろう。
土地と他者とは存在の仕方が我々人間にとって似ているとは言えないだろうか?
そしてそれは最初に述べた両親と子供の関係から友人同士、同僚や同志同士全てに於いてある他者像というもの自体が自己に於ける対他者欲求というエゴイズムに当て嵌めているという性悪と同じ心理で土地や場所に接しているという我々の実存的事実にも覚醒していかざるを得ないだろう。日常的経験と判断という事はあくまでこの様に善悪、現実と理想を清濁併せ飲むのたうち回る経験だけから引き出されていくものであり、そこに初めてだからこそ今自分が共存する他者と同じ様にある土地やある場所への愛着とか愛憎といった事が語られ得るのである。その時だけ真に形而上的な土地や場所の意味を向こうから自然と語りかけてくるのである。そうである。形而上的存在理由とは強引にこちらから求めるものではなく、あくまで現実に根ざした愛憎と愛着と嫌悪全ての感情的駆け引きと遣り取りだけが経験的に誘引してくれる自然と環境からの愛の手紙なのである。
付記 今回はあるケースとしてビジーな実業家や政治家を挙げたが、真にいい事業や政治だって実はかなりい意味で心の余裕がなければ生まれないので、長期休養や一箇所の土地や場所への愛着が持てる様にしていかなければ実現し得ない筈なのである。それは移動する為に一箇所に留まるのではなく、あくまで一箇所に留まる中で世界への理解を土地と場所への愛着と共に持つという自然な成り行き(それは初期人類の狩猟採集生活での移動でも一定の範囲に限られていたという事からも)からも理解出来る事である。しかし同時に人類は民族の大移動という事もしてきたのであり、その二律背反に就いても今後問題にしていくべきであろう。
Monday, April 2, 2012
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第七章 家族観の固定化と教育に見られる親のエゴイズム、そして他者と自己、素の自分なんてない①
我々は自己というものがどういうものかを知らない。何故なら何時も他者と接していれば他者をどう見るかに追われ、自分一人で過ごす時間は、自分の未来のこととか、今迄してきたことなどを振り返るが、それらは全て自分自身のことであり、過去に関する記憶であり、それを通した未来への展望(願望とか、予定とかそういった全て)でしかなく、それは自己という固有の客観的姿ではない。
自己はだから外面的にどうであるかを知りたいと望めば他者に問い質すしかない。何故なら自己とは自分がどういう風に他者から見えているかということへの意識だからである。その意識は他者が半分は決め、その他者の持つ自分への像に対して自分でどうその見られている像を維持したり修正したりしようかと考える主体である。
我々は生まれ落ちた時からずっと自分自身にとってどの他者が自分に対して協力的であるかとか、どの他者が自分にとって警戒すべき対象となり得るかを査定することだけで過ごしてきている。これは厳密に言えば運命でも宿命でもなく、現実である(人生を価値的に見れば、その価値自体への感慨的溜息から我々はそれを運命とか宿命と捉えたいだけである)。
我々は他者と接する時、親しくなっていく他者に対して友情であるとか、或いは家族となる配偶者とか親子関係に於いて愛情であるとかの感情とか気持ちで接すると思うが、実は信頼であれ友情であれ愛情であれ、それらは皆形式である。形式という語彙を使うと何処か味気ないとか、無味乾燥で即物的で人間味を感じないと言うのなら、それら一個一個を固有の価値と呼び換えてもいい。
要するにそれにある他者が、自分にとってどういう感情や気持ちで接しているかという心情的事実から、ある他者を愛しているとか、ある他者を信じているとか、その様に自分内部の規定に当て嵌めているのである。その事自体に「それでは余りに人生全体を形式として考え過ぎる」と非難したとしても尚、それは人生自体をそう考える事は形式的で物足りないと捉える価値でしかないのだ。その事にまず気がついておく必要がある(そうでなければ以降私が書く事の意味を捉え損ねるだろう)。
人間は他者全般に、それがどんなに気心の知れた家族であれ他人であれ、最終的にはある他者はある感情や気持ちを喚起する存在であるという内的な規定なしに接する事は出来ない。端的にそれは精神病理的に分析しても(私はその種の専門家ではないが)普通の事である。
と言う事は、我々は誰しも他者へのそういった認識の上で意思疎通しているわけであり、それは行動原理的には社会学的に分析し得る事であるとか、色々に捉える事は出来るが、もっと日常的な事実であり、文学等は全てそういった日常的な自己と他者との遣り取りの中から書かれているものである。
だから我々は他者と接している時にはその特定の他者と接する時にしか発しない内的な他者像への査定と認識と、それを自分自身で「信用している」とか「尊敬している」と規定し得る何かを持って相手へ臨んでいるのであり、その瞬間は勿論の事、一人で物思いに耽ったり、考え事をしている時でさえ素の自分である、ということは在り得ないのである。
何故なら一人で居る時には次に誰かと、或いは何らかの集団と一緒に居合わせる機会を想定して、その時の為に自分自身で外面的に自分を他者一般に晒す為の自己を模索しているからである。
しかし人間は誰しも何らかの家庭環境とか生育環境から自らを社会に同化させてきたのであり、その人間形成期に於ける家庭環境や育成環境(それは地域社会から、どういった他者と出会ってきたかということ迄含めた)に多大の心理的影響を蒙っている。それは端的にどの個人に於いても何らかの形で固有のバイアスを持って社会に臨んでいるという事以外ではない。
どういう性格でどういうタイプの職業の両親や育ててくれた人と関わり、その過程でどんな教育的な訓戒やアドヴァイスを得てきたかという事は多大の人格形成に預かっている。そしてそれは各家庭、個人毎でも全て違う。当然本人の性格とか資質といったものも多分に作用しているが、その個人の性格や資質は、あくまでどういう経緯で育っていったかという事実関係とかその性格に大いに影響を蒙っているのだ。
しかし当然のことながら他者とはどの人間も心の中に抱いている全ての他者への感情を言葉や態度によって示す事はない。こちらもそうであるなら向こうもそうである。だからこそ相手に対してある相手に対してならこういう事は気兼ねなく言えるし、こういう事に於いては信用出来るし、こちらに対する接し方でも信頼出来ると査定している。その人に拠って違う接し方と心の置き方こそが私が形式とか価値と呼んだものである。
そしてそれは青年期にはやはり大人になる迄育てて貰った両親からの影響、例えば幼い頃から躾けられた事から教訓的に言葉を通して伝えられた事等が大きく自分自身の判断(世界や社会内の事、対人関係の全て)に逐一左右している。両親や育ててくれた人の持つ社会観や境遇から得た彼等独自の世界観が青年の心には深く影を落としている。
しかし中年の秋も深まっていくに連れ、自分自身の青年期に経験した事、体験した事の方が両親や育ててくれた人達からの影響より大きくなっていく。
私が形式とか価値と呼んだ事は従って何か言葉上での観念とか概念とかだけでなく、勿論そういった言葉上、観念上、概念上での理解も含まれているものの、それを部分とする様なもっと大きな出会い、つまり身体的であり、体感的であり、痛みや悩み(これも精神的且つ身体的肉体的でもある)の蓄積といったものである。要するに頭の中だけの事ではないという事である。
それは記憶に刻まれている。どういう体験内容、どういったコミュニティに親しんできたかといった事が判断や思考の契機となっている。
例えばウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で最終部で触れられているスペクトル盲に就いて、私はあの図を見るとまず先にアヒルの形として目に飛び込んで来る。しかし私とは逆にウサギの形として目に飛び込んで来る人も居るだろう。それはその形の認識に対して私個人の経験内容とか、出会って来たものの内容とか種類とかその出会いの性質や性格に拠るものと思われる(それは精神科医の人も私があるシンポジウムに参加して質問した時にそう返答されていた)。それは知覚や判断の私自身の否定し難い傾向を記憶内容が司っている証拠である。
だから価値観念的な事は青年期は両親や育てた人達の価値観念的なバイアスに拠って先入見を刷り込まれている訳だから(それは人に拠ってはかなり老齢に達しても拭い難く残存している場合すらある)、そこからの自己自身での独立という意識がかなり青年期を過ぎてからは重要となってくる。率直に言って人を育てるという事は自らの価値観念のエゴイズムに育てる相手、つまり子供を巻き込んでいくという事以外ではないのだ。
だからその洗脳に近い形で刷り込まれた観念自体を自己対象化して、第三者的な目でメタ認知し得た時初めて大人の判断というものを持つ事に成功する(その点で幼形のまま中年を迎えている人が意外に多いという事が一つの日本人の精神的問題でもあるのだ)。
この様な認識はある意味では発達心理学などの分野で専門的に研究されているかも知れない。しかしここからここ迄が哲学で、ここからは何学であるという認識も、実はかなり個々人で異なっている。どういう形で哲学と関わっているかとか、それは哲学でなくても医学でも心理学でもどの様な専門の領域でもいいのだが、それはかなり考究していく際には揺らぎとか大きな振り幅があったっていいのである。
その極めて社会制度的な職業分担的な規制が強ければ強いほどその学問や専門分野にとっても、その事に関わる個人にとっても、その規制を外部から観察出来る一般の人達にとっても不幸な事ではないだろうか?
その仕切りの様なものをどういう立場の人達であれ感じ取っているのなら、その事自体も問題とするべきではないだろうか?
そして今回の結論としては、その様に対人関係的には家族から他人の友人や知人と接する際にも、その都度の他者としての相手へのこちら側の認識に応じて、その接し方の違いに於いて我々は人間関係の形式とか価値に自己自身を賛同させ、相手とその対自的賛同の地点に導く様にしている、という意味ではTwitterの対人関係が自己固有のタイムラインを保有してそれを常に眺めているにも関わらずフォロワー同士でレスし合う場合には、明らかに向こうも又自分と「同じ様なタイムラインを眺めながら」レスしているのだ、という幻想にツイートする行為自体が乗っかっている事がそれを象徴している。しかし向こうはまるで自分とは違う(多少重なった共有し合うフォロワーやフォロウしているユーザー<ツイーター>は居るにせよ)タイムラインの内容でこちらに接しているという事を忘れるべきではない様な意味で、向こうは向こうでこちらが向こうと共有していると思っている価値観念や形式とは違った価値観念と形式で接して居るという事なのである。
そしてだからこそ、相互に素の自分というもの自体も対自的にも対他的にも幻想なのである。何故なら私は一人で居る時も誰かと一緒に居る時はどういう風に相手から見られているか、周囲から感じ取られているかという事の不安や疑問の中でしか一人で居る自分というものを意識する事は出来ないからである。つまりそういった他者一般、或いはその時々で特定の他者と接するという社会的行為の人生上での散発的ではあるもののかなり人生の大半の時期を持続しているそういった接しの在り方への自己自身からの認識からしか、一人で過ごす時間の意味を特化出来ないからである。
Friday, October 14, 2011
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第六章 存在の確信には羞恥があり、存在の認知には時間がある
私達にとって極めて重要な事実としての個としての社会性は羞恥にあると言ってもよい。だからこそ本論では理解と他というレヴェルで考えてきた。しかしその社会的個や個の社会内での羞恥はもっと根源的な羞恥によって包まれている。それは何か?
それは我々自身の卑小さである。それを誰しも理解している。否理解以前的に存在レヴェルで確信している。我々の力は限られている、世界に与えることの出来る力など高が知れたことだ、という風に。それは社会内的なことだけではない。もっと世界、地球、宇宙内での自らの存在に対する余りにも小ささに対する覚知によってである。
古代の人類は或いは宇宙という形で我々が実感するものは神であったかも知れないし、その神という存在はもっと恐れるべき何かであり霊力的なことであったかも知れない。それは洋の東西に関わらず我々自身の非力に対する覚知に於ける存在し続けたであろう我々には計り知れない力である。只現代人はそれをある程度科学的認識で理解出来るだけである。自然の力自体のどうにもならなさは東日本大震災を経た日本人である我々には当然理解出来るし、世界中で何らかの形でどの民族もそういった経験はしてきている。それが神による怒りであると古代の人類の様に即座に判断しないだけである。
カントの「判断力批判」では崇高さという形で自然に対する畏怖の念は汲み尽くされていた。その崇高なることは専ら我々にとっては空間的なことからである。
最も論理的に割り切れないと感じさせるものこそ空間である。それは私が今居る部屋という空間ではない。それはあくまで仕切られた空間であるが、その仕切りを作っているのはもっと広い空間であり、それは無限に地球上に広がっている。
だから空間こそが最も非言語的であると我々は知っている。それを表現上で最も巧く反映させているものこそ絵画である。絵画は人類による空間恐怖をさえ誘引する空間の持つ非論理性、エロスを存在として我々が認めつつ、しかし言語的思考者としての我々自身の存在と、その空間的無限性との間に媒介される盾の様なものである。
だから逆に我々にとって最も論理的に理解出来るものこそ時間である。時間とは時間自体の感覚によってであるよりは、より言語的認識、言語的思考法それ自体が生み出している。端的に論理自体が時間を作っているのだ。論理なしに我々は時間自体を認識し得ないだろう。それは何故か?それは過去と現在と未来という最も基本的な思惟自体が論理空間上での秩序だからである。
勿論永井均が考えている様に常に今だけが我々にとって最優先されている。しかし今意識を生じさせているのは過去があるということ、記憶の上で想起される全てが「過去」という名で呼ばれ得るという覚知なしに我々は今を理解することは出来ない。又今という意識は「これから」という意識によっても支えられている。今がこれからを支えているのか、これからが今を支えているかと言えば両方言えるかも知れないが、何か今している行為自体が常にこれからを志向している。従って行為を支える欲求と意志がこれからという意識を作っているし、それが心の中に存在すればこそ我々は今を特化し得る。
そしてその時間認識、つまり想起され得る過去と、今している行為に於いてこれからのことを考えられ得る今という一連の連なり自体を我々はたまたま時間と名付けている。
空間は常にある地点より先が想定される。それをカントは背進と呼んだ。従って全体として思い描くことがどうしても出来なさが発生してしまう。常に向こうがある、先があるという風に。そしてこの全体として思い描くことの出来ないという直観こそが無限性の母である。これが無限性の理解を可能にしている。
それに対して時間は違う。時間は確かに空間同様その先はある。どんな過去でもそれより過去はある。しかし空間の様に「行く」ことが出来ない。勿論何億光年も先に空間的にも到達出来ない。しかしもし何らかの乗り物があれば可能だと空間なら想定出来るが、それが時間では出来ない。尤も現在ニュートリノが光より速いと立証されつつあるから、それを応用すれば我々にタイムマシーンさえ作れるかも知れないとまで言われつつある。
空間が概念化されて感じられるのは天文学的な意味で夜空を見る時かも知れない。そこでは遥か彼方の銀河まで見渡せる。しかしそれは既に我々が概念的理解を得ているからである。そしてそれは言語的認識、言語的思考力によってであるし、それが時間を生み出しているとしたら、その生み出された時間認識によって実際には旅行することの出来ない銀河系の彼方をも図式化することが出来るし、想像上の旅行を試みることも出来る。
その際には広大な空間を目の前にした存在自体が抱える自らの卑小さに対する羞恥はない。従って広大な空間自体の存在の認知には時間的理解、つまり言語的認識と言語的理解の産物が関わっているのだ。
だからグランドキャニオンであれグレートバリアリーフであれ、広大な空間を目の前にして我々が自らの存在の卑小さ、つまり物理的卑小さを確信することが出来るが、それはそれだけ自らの身体の小ささを実感させながら、その認知に於いて自然全体へ羞恥的感情を呼び起こすことをカントは崇高さという語彙で示したのだ。
ともあれ空間は時間と違って時間が経たなければ来ない未来ではない。既に現在存在する。只遥か彼方に行くには時間がかかる。そして銀河系全体を俯瞰する様に空を見上げること、銀河系の図を描くことは空間全体を認識すること、そこに現在認識が介在しているが、それを一瞬で俯瞰出来る様に鳥瞰するのだが、時間はそれが出来ない。それにも関わらず時間さえ中島義道が指摘している様に「時間を空間化」しつつ我々は図式化する。そうすることで過去・現在・未来の前後関係、先後関係を把握し、時間の全体を、ある期間、例えば我々の人生とか要するに区切られた単位として保険、遺産相続その他の必要性などから考える。
しかしやはり未来は決して来るとは言えない。それまでに世界が消滅する(例えば地球自体が巨大隕石と衝突するなどして壊滅するか、我々人類全体が絶滅するかも知れない)可能性もある。そうなっても時間自体は、我々が把握する認識された時間は存続するだろう。しかしそれは概念理解可能な存在者の不在の時間であり、図式化することによって我々が我々自身の未来の為に役立てるものではない。ここで矛盾が明確化する。つまり我々は常にありもしないかも知れない未来を想定してしか言語行為が出来ない、ということである。だからこそ我々は記憶されたことを過去としてそれが現在に連なるという理解で、やがて未来が来るものとして全ての言語行為を行う。言語的認識、言語的思考には論理が必要であり、論理的理解が時間を作り、それに従って我々は同僚や上司部下に仕事を依頼したり命令したり、命令されてそれに従ったりする。
時間は論理的思考が作り、その論理的思考内での時間認識に沿って未来には消滅しているかも知れない世界内部で(実際何時かは世界も地球も消滅することは分かっていて)あれこれ未来への意志、願望を相互に語るのだ。それは仕事上での建前であると言っても、それは建前的に語るという本音であり我々の意志と願望なのだ。
全ての他者に嘘だけをついて虚偽的報告する成員が居たとしても、それはあくまでそうすることで生命を繋いでいる以上そういう欺瞞的生活自体が本音である。生きる為の本音である。従って嘘をも含めた言語活動全般を行うことそれ自体が、時間認識を論理的把握から発生させつつ全うされる我々の生きていく上での唯一の方法であり本音なのである。
だからこそ逆に時々旅行という空間的移動をしたくなる我々にとって空間だけが論理から逃れられる唯一の世界の構成要素であり、それは明らかに構成要素としているものの、唯一論理的に割り切ることの出来ない存在レヴェルのメジャーな存在の謎であり、我々は太刀打ち出来はしない代物なのである。そこから我々は卑小な存在である身体にあらゆるリビドーを含めた欲求を抱いているという羞恥的事実を改めて実感し、身体という物理的存在事実にエロス的救いを求め、時間に対する待ち切れなさ、或いは悠久の時間内での余りに短い一生を覚知しつつ、空間だけはしかし今現時点で遥か彼方には行けないことを知っていても、同時に自己身体が存在し得ている様に共存していると太刀打ち出来ない代物を時間と対抗する為の味方にするのである。それはそういう一種の存在者の羞恥的性格による気休めなのである。
それは我々自身の卑小さである。それを誰しも理解している。否理解以前的に存在レヴェルで確信している。我々の力は限られている、世界に与えることの出来る力など高が知れたことだ、という風に。それは社会内的なことだけではない。もっと世界、地球、宇宙内での自らの存在に対する余りにも小ささに対する覚知によってである。
古代の人類は或いは宇宙という形で我々が実感するものは神であったかも知れないし、その神という存在はもっと恐れるべき何かであり霊力的なことであったかも知れない。それは洋の東西に関わらず我々自身の非力に対する覚知に於ける存在し続けたであろう我々には計り知れない力である。只現代人はそれをある程度科学的認識で理解出来るだけである。自然の力自体のどうにもならなさは東日本大震災を経た日本人である我々には当然理解出来るし、世界中で何らかの形でどの民族もそういった経験はしてきている。それが神による怒りであると古代の人類の様に即座に判断しないだけである。
カントの「判断力批判」では崇高さという形で自然に対する畏怖の念は汲み尽くされていた。その崇高なることは専ら我々にとっては空間的なことからである。
最も論理的に割り切れないと感じさせるものこそ空間である。それは私が今居る部屋という空間ではない。それはあくまで仕切られた空間であるが、その仕切りを作っているのはもっと広い空間であり、それは無限に地球上に広がっている。
だから空間こそが最も非言語的であると我々は知っている。それを表現上で最も巧く反映させているものこそ絵画である。絵画は人類による空間恐怖をさえ誘引する空間の持つ非論理性、エロスを存在として我々が認めつつ、しかし言語的思考者としての我々自身の存在と、その空間的無限性との間に媒介される盾の様なものである。
だから逆に我々にとって最も論理的に理解出来るものこそ時間である。時間とは時間自体の感覚によってであるよりは、より言語的認識、言語的思考法それ自体が生み出している。端的に論理自体が時間を作っているのだ。論理なしに我々は時間自体を認識し得ないだろう。それは何故か?それは過去と現在と未来という最も基本的な思惟自体が論理空間上での秩序だからである。
勿論永井均が考えている様に常に今だけが我々にとって最優先されている。しかし今意識を生じさせているのは過去があるということ、記憶の上で想起される全てが「過去」という名で呼ばれ得るという覚知なしに我々は今を理解することは出来ない。又今という意識は「これから」という意識によっても支えられている。今がこれからを支えているのか、これからが今を支えているかと言えば両方言えるかも知れないが、何か今している行為自体が常にこれからを志向している。従って行為を支える欲求と意志がこれからという意識を作っているし、それが心の中に存在すればこそ我々は今を特化し得る。
そしてその時間認識、つまり想起され得る過去と、今している行為に於いてこれからのことを考えられ得る今という一連の連なり自体を我々はたまたま時間と名付けている。
空間は常にある地点より先が想定される。それをカントは背進と呼んだ。従って全体として思い描くことがどうしても出来なさが発生してしまう。常に向こうがある、先があるという風に。そしてこの全体として思い描くことの出来ないという直観こそが無限性の母である。これが無限性の理解を可能にしている。
それに対して時間は違う。時間は確かに空間同様その先はある。どんな過去でもそれより過去はある。しかし空間の様に「行く」ことが出来ない。勿論何億光年も先に空間的にも到達出来ない。しかしもし何らかの乗り物があれば可能だと空間なら想定出来るが、それが時間では出来ない。尤も現在ニュートリノが光より速いと立証されつつあるから、それを応用すれば我々にタイムマシーンさえ作れるかも知れないとまで言われつつある。
空間が概念化されて感じられるのは天文学的な意味で夜空を見る時かも知れない。そこでは遥か彼方の銀河まで見渡せる。しかしそれは既に我々が概念的理解を得ているからである。そしてそれは言語的認識、言語的思考力によってであるし、それが時間を生み出しているとしたら、その生み出された時間認識によって実際には旅行することの出来ない銀河系の彼方をも図式化することが出来るし、想像上の旅行を試みることも出来る。
その際には広大な空間を目の前にした存在自体が抱える自らの卑小さに対する羞恥はない。従って広大な空間自体の存在の認知には時間的理解、つまり言語的認識と言語的理解の産物が関わっているのだ。
だからグランドキャニオンであれグレートバリアリーフであれ、広大な空間を目の前にして我々が自らの存在の卑小さ、つまり物理的卑小さを確信することが出来るが、それはそれだけ自らの身体の小ささを実感させながら、その認知に於いて自然全体へ羞恥的感情を呼び起こすことをカントは崇高さという語彙で示したのだ。
ともあれ空間は時間と違って時間が経たなければ来ない未来ではない。既に現在存在する。只遥か彼方に行くには時間がかかる。そして銀河系全体を俯瞰する様に空を見上げること、銀河系の図を描くことは空間全体を認識すること、そこに現在認識が介在しているが、それを一瞬で俯瞰出来る様に鳥瞰するのだが、時間はそれが出来ない。それにも関わらず時間さえ中島義道が指摘している様に「時間を空間化」しつつ我々は図式化する。そうすることで過去・現在・未来の前後関係、先後関係を把握し、時間の全体を、ある期間、例えば我々の人生とか要するに区切られた単位として保険、遺産相続その他の必要性などから考える。
しかしやはり未来は決して来るとは言えない。それまでに世界が消滅する(例えば地球自体が巨大隕石と衝突するなどして壊滅するか、我々人類全体が絶滅するかも知れない)可能性もある。そうなっても時間自体は、我々が把握する認識された時間は存続するだろう。しかしそれは概念理解可能な存在者の不在の時間であり、図式化することによって我々が我々自身の未来の為に役立てるものではない。ここで矛盾が明確化する。つまり我々は常にありもしないかも知れない未来を想定してしか言語行為が出来ない、ということである。だからこそ我々は記憶されたことを過去としてそれが現在に連なるという理解で、やがて未来が来るものとして全ての言語行為を行う。言語的認識、言語的思考には論理が必要であり、論理的理解が時間を作り、それに従って我々は同僚や上司部下に仕事を依頼したり命令したり、命令されてそれに従ったりする。
時間は論理的思考が作り、その論理的思考内での時間認識に沿って未来には消滅しているかも知れない世界内部で(実際何時かは世界も地球も消滅することは分かっていて)あれこれ未来への意志、願望を相互に語るのだ。それは仕事上での建前であると言っても、それは建前的に語るという本音であり我々の意志と願望なのだ。
全ての他者に嘘だけをついて虚偽的報告する成員が居たとしても、それはあくまでそうすることで生命を繋いでいる以上そういう欺瞞的生活自体が本音である。生きる為の本音である。従って嘘をも含めた言語活動全般を行うことそれ自体が、時間認識を論理的把握から発生させつつ全うされる我々の生きていく上での唯一の方法であり本音なのである。
だからこそ逆に時々旅行という空間的移動をしたくなる我々にとって空間だけが論理から逃れられる唯一の世界の構成要素であり、それは明らかに構成要素としているものの、唯一論理的に割り切ることの出来ない存在レヴェルのメジャーな存在の謎であり、我々は太刀打ち出来はしない代物なのである。そこから我々は卑小な存在である身体にあらゆるリビドーを含めた欲求を抱いているという羞恥的事実を改めて実感し、身体という物理的存在事実にエロス的救いを求め、時間に対する待ち切れなさ、或いは悠久の時間内での余りに短い一生を覚知しつつ、空間だけはしかし今現時点で遥か彼方には行けないことを知っていても、同時に自己身体が存在し得ている様に共存していると太刀打ち出来ない代物を時間と対抗する為の味方にするのである。それはそういう一種の存在者の羞恥的性格による気休めなのである。
Sunday, July 10, 2011
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第五章 理解と距離2
既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったことが了解される。ある意味では人間の変化は人間が考える主体であるが故に「彼は変わった」と思っていても、そこに「そもそも彼はああいう風に変わる要素があった」と判断する。しかし今回の東日本大震災は少し違う。尤も科学が進歩すれば、その時は「やはり今となってはあの地震は予知し得たことだった」となるかも知れない。
ガブリエル・タルドによる「模倣の法則」に於ける<歴史上の幾つかの原初的発明とその模倣>(85~89)にもよく書かれているし、或いはダニエル・デネットによる「ダーウィンの危険な思想」中の第四章3回顧的戴冠:ミトコンドリア・イヴと姿の見えない起源(P.134~140)にもよく書かれているのだが、要はリチャード・ドーキンス語ミーム(「利己的遺伝子」)に近い行為模倣的伝播と遺伝的伝播は内的メカニズムに於いてはいずれも、まさに「既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったが、そうなってしまった現在から、そうなる以前の状態があることを何らかの形で知り得た段階で、どこかで何らかの偶然(的契機)がある、と認識、理解することが出来るということに於いて相同だ、ということだ。
勿論それがどの地点であったかということを究明することが、まさに人類がどの地点で言語行為を恒常的に慣用させていったかということを特定するのが極めて困難であることと同じ様に困難だし、デネットの言う「誰をミトコンドリア・イヴとするか」はどの様な形質とか表現型の元祖とするか、という性質の差への着目に依拠する。
タルドの言う食肉用であった馬を乗用にした地点の特定に於ける困難さとは確かに性質は異なる。タルドの言う横の遺伝(収斂進化もその一つである。その点はRichard Dawkins Mount Improbableに詳しい)も縦の遺伝(それは同じくドーキンスの「祖先の物語」に詳しい)のアナロジーはしかし、デネットの言うある一点に於いて私達に確実な真理を伝えてくれる。
それは全く同一な他者は存在せず、他であること、他者とは即ち一つの個、或いは自己にとって「異」性そのものでしかない、ということである。
アナロジーは同を基本として普遍性を、「異」性は分化・細分化を志向することは言うまでもない。だが少なくとも理解とは「異」性の持つ距離を前提とした、その無化と言ってよいだろう。
或いは少なくともその努力の結果の「まるで距離がないことに様にしか感じられない」という心的状態であることだけは間違いない。
ガブリエル・タルドによる「模倣の法則」に於ける<歴史上の幾つかの原初的発明とその模倣>(85~89)にもよく書かれているし、或いはダニエル・デネットによる「ダーウィンの危険な思想」中の第四章3回顧的戴冠:ミトコンドリア・イヴと姿の見えない起源(P.134~140)にもよく書かれているのだが、要はリチャード・ドーキンス語ミーム(「利己的遺伝子」)に近い行為模倣的伝播と遺伝的伝播は内的メカニズムに於いてはいずれも、まさに「既に起こってしまったことは必然の様に思えるが、最初はそうなっていく何らかの偶然(的契機)があったが、そうなってしまった現在から、そうなる以前の状態があることを何らかの形で知り得た段階で、どこかで何らかの偶然(的契機)がある、と認識、理解することが出来るということに於いて相同だ、ということだ。
勿論それがどの地点であったかということを究明することが、まさに人類がどの地点で言語行為を恒常的に慣用させていったかということを特定するのが極めて困難であることと同じ様に困難だし、デネットの言う「誰をミトコンドリア・イヴとするか」はどの様な形質とか表現型の元祖とするか、という性質の差への着目に依拠する。
タルドの言う食肉用であった馬を乗用にした地点の特定に於ける困難さとは確かに性質は異なる。タルドの言う横の遺伝(収斂進化もその一つである。その点はRichard Dawkins Mount Improbableに詳しい)も縦の遺伝(それは同じくドーキンスの「祖先の物語」に詳しい)のアナロジーはしかし、デネットの言うある一点に於いて私達に確実な真理を伝えてくれる。
それは全く同一な他者は存在せず、他であること、他者とは即ち一つの個、或いは自己にとって「異」性そのものでしかない、ということである。
アナロジーは同を基本として普遍性を、「異」性は分化・細分化を志向することは言うまでもない。だが少なくとも理解とは「異」性の持つ距離を前提とした、その無化と言ってよいだろう。
或いは少なくともその努力の結果の「まるで距離がないことに様にしか感じられない」という心的状態であることだけは間違いない。
Sunday, June 19, 2011
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第四章 存在の形而上性、私の形而上性、存在の記号性、私の記号性
私も存在も名詞であり記号だ。私の身体存在の外に私は在るか?答えは是(ネー、イエス、ウイ、ヤー、ダーetc)である。
「私」と一般に言う時、それは私の身体の存在より、より意識、或いは意識内容(思考や現時点での知覚内容、記憶、感情等全ての心的作用)のことを指し、それは「心」とはとどのつまり脳が生み出している、という見解が脳科学者・認知科学者をはじめ心理学者や、より機能論者及び唯物哲学者の採り得る態度である。
しかし形而上学者はそう考えない。幾らfMRIで説明されても、それは科学的認識ではあるものの、哲学的真実ではない、と考えるからだ。
しかし「私」を思考や認知の存在事実に対する記号だとすれば、やはりそれはもう一度身体存在レヴェルに問題を戻すことによって一つの大きな命題を得ることは可能となろう。それは「心」とか「魂」とか「気持ち」とか「意識」とか、それ等は我々の身体を離れても(つまり消滅しても)今と同じ様にあり得る、つまり(今)の様に存在し得ようか、という命題である(これはカントも考えていたし、カントの「純・理」を分析したP.F.ストローソンも「意味の限界」に於いて考えていたことである)。
ごく自然科学的事実を持ち出せば、それは“あり得ない”の一言で済まされるが、それでは私達は納得しない、というところにこそ、実は自然科学(形而下学)以外に形而上学が求められる由縁でもあるし、哲学や形而上学自体も又、何故我々はその魂の不滅が自然科学的にあり得ないということに納得しないのかということを考究する必要がある。
つまりその納得し得なさこそが哲学を私達に生じさせた理由の大きな一つである、と我々は覚醒することによって、その納得し得なさが苦悩を生み出してきたという事実にも向き合うということである。
多分にこれは既に宗教の存在理由への問いとも重複する。苦悩の除去の最大のメソッドは宗教で在り続けてきたからだ。
世界の中の事実という観点を持ち込めば、「私」も又一つの存在事実を示す為の記号でしかなく、心理的には私達はその記号、例えば名前、或いは職業をも請け負い、背負い生きる。
しかしそれは外的にも確認され得る客観的事実でしかなく、我々の内的な心では「私」とは記号ではない。ある「私」という記号(存在事実としての)を生きるこの「私」の感じ、或いは内容の全てである(私は私しか知らない多くの事実があり、それは一人の他者に全て告げることも出来ないし、それをする必要もない)。
この「感じ」と内容の全ての反省的意識を取り敢えずここでは「私の形而上性」と呼んでおくこととしよう。するとこの「私の形而上性」は明らかに私自身からの私の生、人生、生きていることの承認ということになり、とりもなおさず私自身の側から私は私の生を「私」という記号、つまり存在事実へと照応させていることとなる。
このこと自体を私が「私の存在承認している」が故に、「存在の形而上性」と呼ぼう。つまり「存在の形而上性」とは「私の形而上性」を通して私によって承認された私以外の全ての社会成員、或いは存在者からの承認を私自身が請け負う地点で得られた私に対する唯一の記号であり、それは私以外の全ての存在事実としての記号と等価であると私によって認められ、それを他者も私同様に認めることを私から期待もするし、他者も又私に対しその承認の下で私を理解する、そういう場である。
これは少し古いがサルトルが言った言葉であるが対自的な意識を外在主義的に言う、つまり客観的に言うことと同じである。しかし存在承認自体には必ず価値認識が伴う。そして価値認識は実在の生活を営む中から生じてもいるから、世界の中の「私」という「存在の記号性」と、その「私」自身を生きるという事実の承認という言わば外在的視点、即ち対自己認識であるところの「私の記号性」という二義的な、或いはその二つが一致している地点に「私」が存在している、と言うことが出来る。
勿論これは私によってそう承認されてもいるし、その承認が私以外の全ての他者、存在者(勿論これはハイデガー的な現存在である)に承認されることを私が見越してもいる。
私は私の存在事実を私の外側の全てを日々創っている主体として規定し得る(勿論規定され得る形で私は私をそう規定する)。
この二つの事実(私を私が外側から規定することと、私が私自身そういう存在事実として内側から生きることの二つでもあるし、私自身による私自身<の存在>への承認と、私の私以外の他者、存在者からの承認を私が覚知し得るということの二つでもある)を不可分のものにするものこそ存在に他ならない。
しかしその存在は必ずしも実在の身体に縛られはしない。そのこと自体が極めて重要である。何故なら哲学はそこを自由にし得るか否かで全てが決するからである。
そしてその認識を得ること自体が存在論が倫理的命題ともなり、要するに価値論、価値認識論と存在論が不可分でしかあり得ないと規定するところのことでもあるのである。
要するに形而上学は価値の学問だと言える。しかもそれは「私」の内側(「私」という記号で示される時に、個々内面で感じる固有の感じを示すのではなく生きることから)から考える。社会哲学は世界の中の存在事実(或いはその承認)から考える学問と言ってもよい(勿論そう簡単に二分は出来ないこの両者ではあるのだが)。
「私」と一般に言う時、それは私の身体の存在より、より意識、或いは意識内容(思考や現時点での知覚内容、記憶、感情等全ての心的作用)のことを指し、それは「心」とはとどのつまり脳が生み出している、という見解が脳科学者・認知科学者をはじめ心理学者や、より機能論者及び唯物哲学者の採り得る態度である。
しかし形而上学者はそう考えない。幾らfMRIで説明されても、それは科学的認識ではあるものの、哲学的真実ではない、と考えるからだ。
しかし「私」を思考や認知の存在事実に対する記号だとすれば、やはりそれはもう一度身体存在レヴェルに問題を戻すことによって一つの大きな命題を得ることは可能となろう。それは「心」とか「魂」とか「気持ち」とか「意識」とか、それ等は我々の身体を離れても(つまり消滅しても)今と同じ様にあり得る、つまり(今)の様に存在し得ようか、という命題である(これはカントも考えていたし、カントの「純・理」を分析したP.F.ストローソンも「意味の限界」に於いて考えていたことである)。
ごく自然科学的事実を持ち出せば、それは“あり得ない”の一言で済まされるが、それでは私達は納得しない、というところにこそ、実は自然科学(形而下学)以外に形而上学が求められる由縁でもあるし、哲学や形而上学自体も又、何故我々はその魂の不滅が自然科学的にあり得ないということに納得しないのかということを考究する必要がある。
つまりその納得し得なさこそが哲学を私達に生じさせた理由の大きな一つである、と我々は覚醒することによって、その納得し得なさが苦悩を生み出してきたという事実にも向き合うということである。
多分にこれは既に宗教の存在理由への問いとも重複する。苦悩の除去の最大のメソッドは宗教で在り続けてきたからだ。
世界の中の事実という観点を持ち込めば、「私」も又一つの存在事実を示す為の記号でしかなく、心理的には私達はその記号、例えば名前、或いは職業をも請け負い、背負い生きる。
しかしそれは外的にも確認され得る客観的事実でしかなく、我々の内的な心では「私」とは記号ではない。ある「私」という記号(存在事実としての)を生きるこの「私」の感じ、或いは内容の全てである(私は私しか知らない多くの事実があり、それは一人の他者に全て告げることも出来ないし、それをする必要もない)。
この「感じ」と内容の全ての反省的意識を取り敢えずここでは「私の形而上性」と呼んでおくこととしよう。するとこの「私の形而上性」は明らかに私自身からの私の生、人生、生きていることの承認ということになり、とりもなおさず私自身の側から私は私の生を「私」という記号、つまり存在事実へと照応させていることとなる。
このこと自体を私が「私の存在承認している」が故に、「存在の形而上性」と呼ぼう。つまり「存在の形而上性」とは「私の形而上性」を通して私によって承認された私以外の全ての社会成員、或いは存在者からの承認を私自身が請け負う地点で得られた私に対する唯一の記号であり、それは私以外の全ての存在事実としての記号と等価であると私によって認められ、それを他者も私同様に認めることを私から期待もするし、他者も又私に対しその承認の下で私を理解する、そういう場である。
これは少し古いがサルトルが言った言葉であるが対自的な意識を外在主義的に言う、つまり客観的に言うことと同じである。しかし存在承認自体には必ず価値認識が伴う。そして価値認識は実在の生活を営む中から生じてもいるから、世界の中の「私」という「存在の記号性」と、その「私」自身を生きるという事実の承認という言わば外在的視点、即ち対自己認識であるところの「私の記号性」という二義的な、或いはその二つが一致している地点に「私」が存在している、と言うことが出来る。
勿論これは私によってそう承認されてもいるし、その承認が私以外の全ての他者、存在者(勿論これはハイデガー的な現存在である)に承認されることを私が見越してもいる。
私は私の存在事実を私の外側の全てを日々創っている主体として規定し得る(勿論規定され得る形で私は私をそう規定する)。
この二つの事実(私を私が外側から規定することと、私が私自身そういう存在事実として内側から生きることの二つでもあるし、私自身による私自身<の存在>への承認と、私の私以外の他者、存在者からの承認を私が覚知し得るということの二つでもある)を不可分のものにするものこそ存在に他ならない。
しかしその存在は必ずしも実在の身体に縛られはしない。そのこと自体が極めて重要である。何故なら哲学はそこを自由にし得るか否かで全てが決するからである。
そしてその認識を得ること自体が存在論が倫理的命題ともなり、要するに価値論、価値認識論と存在論が不可分でしかあり得ないと規定するところのことでもあるのである。
要するに形而上学は価値の学問だと言える。しかもそれは「私」の内側(「私」という記号で示される時に、個々内面で感じる固有の感じを示すのではなく生きることから)から考える。社会哲学は世界の中の存在事実(或いはその承認)から考える学問と言ってもよい(勿論そう簡単に二分は出来ないこの両者ではあるのだが)。
Saturday, May 28, 2011
存在と意味 第二部 日常性と形而上性 第三章 羞恥と欺瞞
眼差しを向ける側は向けられる側にその事を気づかれたら、何故自分という存在に関心があるか問い質され得る。これは眼差しを向ける側が向けられる側である相手に対して主導権を与えてしまうことである。
これを極力回避したい欲求こそ羞恥と呼んでいいであろう。何故ならその様に問い質されることは内的な他者への関心を告白せざるを得なくなるからだ。
内的な他者への関心とは要するに自己内の欠落部分への覚醒を伴っている場合が多いからだ。
本来感情とは情感性や情緒的側面からのみ認識されがちであるが、功利的判断が後押ししている側面は意外と強く、その二つを容易に分離させることは困難である。
価値が個に於いて自分以外の誰でもそう思えるだろうという判断自体が「そうである筈だ」と「そうであって欲しい」がそう容易に分離させ得ぬのと全く構造的には相同である。
その意味では羞恥も又功利的感情とも密接である。
身体を取り巻く習慣から言えば他人に裸を見られることに於ける人類学レヴェルの羞恥も、他者へ眼差すこちら側から他者へ向ける関心の根拠の説明に伴う羞恥、つまりそうではないことに対する偽装し得なさ等と、私的領域への認知を特定の他者に共有させてしまったり、他者一般(公衆とかの)に周知となること自体を回避したい欲求は、本質的に自己内功利的防衛性の保持自体の暴露という形を取ることと同一の事である。
相手に裸を見られることは自分の身体的アイデンティティの無防備に対する羞恥を喚起し(後者)、相手にその裸を見たいという欲求を知られるということは覗き者の好奇心自体を知られる無防備に対する羞恥を喚起する(前者)。
自分自身の嘘偽らざる真意が読まれることとは、他人に裸を見られる羞恥の表情を浮かべられる事によってである。
意思疎通上の相槌とは理解し合えたことに「する」サインだが、それは相互に相互の羞恥を喚起させない様にする了解である。だからこそよく分からなくても分かったこととして進行させていく時、途中から本当に分かる様になることもあるのだ。しかしこれは相互に羞恥を喚起させない形でのみ可能なのであって、この覗き者と覗かれ者との間の相互羞恥によっては成立しない。理解とエロスの問題は幾分距離がある。勿論両者は無縁ではない。しかしこの二つの間には幾分のクッションがある。それを今後の命題にしていく価値はある。
相互に相互の羞恥は悟り悟られることは、相手から羞恥心を表情などによって表示されることによって実感される。つまり相手にこちらが相手を理解したということを表示しない限り相手はこちらに対し羞恥を喚起しない。だから相手を理解した旨を相手から示すことを要請されぬ限り、それをおくびに出すということはある意味ではこちらの相手に対する無防備に起因する、と言ってよい。
これを容易にはしないことがマナーとなっている場合が社会通念上では多い。
しかしこのマナーを敢えて無視するところに友情とか個人的親密な感情が発生する基盤を作っているとも言える。
だから逆に言えば相手に羞恥を喚起させずに相手を理解している旨を示せるかということがある種の「付き合い」に於ける大人性を示す度合いになっている。
つまり相手にリラックスさせてこちら側の羞恥を喚起させることを相手に言わしめる、つまり気楽に何でも言わせる雰囲気を作るということが相手からこちらに対し大人性を発揮することである。これは対人処世術的民間心理学の定石である。
だからマナー無視というリラックスを相互に暗黙の内に確認出来るというところに社会機能維持的マナー踏襲の中で唯一の憩いであるところの自然人的付き合いを相互に持つ心の余裕を人生に与えている。そしてマナーを一切無視しないという前提の下では信用とか心を許す事態自体を封鎖していくという決意があることになる。
これは一度親しかった者との間で友情的な関係を維持していくことを解除していく際には持たれる態度であり、意志表示である。
私は意志表示せず只連絡を怠る様にだけする。
連絡しないということが最も容易に、しかし無駄な傷つけ合いをせずに交流自体を解除していくことを可能にする。
ここら辺は哲学的な叙述ではなく友情論であり、対人処世訓的随筆である。
しかし哲学にも実はそれが必要なのである。つまり俗な感情の遣り取りを注視してから、再び存在論レヴェルの命題に回帰するということに意味があるのだ。
次回以降は存在の形而上性と記号性、そして理解の持つ「異」性への着目に命題論を移行させていこう。
これを極力回避したい欲求こそ羞恥と呼んでいいであろう。何故ならその様に問い質されることは内的な他者への関心を告白せざるを得なくなるからだ。
内的な他者への関心とは要するに自己内の欠落部分への覚醒を伴っている場合が多いからだ。
本来感情とは情感性や情緒的側面からのみ認識されがちであるが、功利的判断が後押ししている側面は意外と強く、その二つを容易に分離させることは困難である。
価値が個に於いて自分以外の誰でもそう思えるだろうという判断自体が「そうである筈だ」と「そうであって欲しい」がそう容易に分離させ得ぬのと全く構造的には相同である。
その意味では羞恥も又功利的感情とも密接である。
身体を取り巻く習慣から言えば他人に裸を見られることに於ける人類学レヴェルの羞恥も、他者へ眼差すこちら側から他者へ向ける関心の根拠の説明に伴う羞恥、つまりそうではないことに対する偽装し得なさ等と、私的領域への認知を特定の他者に共有させてしまったり、他者一般(公衆とかの)に周知となること自体を回避したい欲求は、本質的に自己内功利的防衛性の保持自体の暴露という形を取ることと同一の事である。
相手に裸を見られることは自分の身体的アイデンティティの無防備に対する羞恥を喚起し(後者)、相手にその裸を見たいという欲求を知られるということは覗き者の好奇心自体を知られる無防備に対する羞恥を喚起する(前者)。
自分自身の嘘偽らざる真意が読まれることとは、他人に裸を見られる羞恥の表情を浮かべられる事によってである。
意思疎通上の相槌とは理解し合えたことに「する」サインだが、それは相互に相互の羞恥を喚起させない様にする了解である。だからこそよく分からなくても分かったこととして進行させていく時、途中から本当に分かる様になることもあるのだ。しかしこれは相互に羞恥を喚起させない形でのみ可能なのであって、この覗き者と覗かれ者との間の相互羞恥によっては成立しない。理解とエロスの問題は幾分距離がある。勿論両者は無縁ではない。しかしこの二つの間には幾分のクッションがある。それを今後の命題にしていく価値はある。
相互に相互の羞恥は悟り悟られることは、相手から羞恥心を表情などによって表示されることによって実感される。つまり相手にこちらが相手を理解したということを表示しない限り相手はこちらに対し羞恥を喚起しない。だから相手を理解した旨を相手から示すことを要請されぬ限り、それをおくびに出すということはある意味ではこちらの相手に対する無防備に起因する、と言ってよい。
これを容易にはしないことがマナーとなっている場合が社会通念上では多い。
しかしこのマナーを敢えて無視するところに友情とか個人的親密な感情が発生する基盤を作っているとも言える。
だから逆に言えば相手に羞恥を喚起させずに相手を理解している旨を示せるかということがある種の「付き合い」に於ける大人性を示す度合いになっている。
つまり相手にリラックスさせてこちら側の羞恥を喚起させることを相手に言わしめる、つまり気楽に何でも言わせる雰囲気を作るということが相手からこちらに対し大人性を発揮することである。これは対人処世術的民間心理学の定石である。
だからマナー無視というリラックスを相互に暗黙の内に確認出来るというところに社会機能維持的マナー踏襲の中で唯一の憩いであるところの自然人的付き合いを相互に持つ心の余裕を人生に与えている。そしてマナーを一切無視しないという前提の下では信用とか心を許す事態自体を封鎖していくという決意があることになる。
これは一度親しかった者との間で友情的な関係を維持していくことを解除していく際には持たれる態度であり、意志表示である。
私は意志表示せず只連絡を怠る様にだけする。
連絡しないということが最も容易に、しかし無駄な傷つけ合いをせずに交流自体を解除していくことを可能にする。
ここら辺は哲学的な叙述ではなく友情論であり、対人処世訓的随筆である。
しかし哲学にも実はそれが必要なのである。つまり俗な感情の遣り取りを注視してから、再び存在論レヴェルの命題に回帰するということに意味があるのだ。
次回以降は存在の形而上性と記号性、そして理解の持つ「異」性への着目に命題論を移行させていこう。
Monday, May 16, 2011
存在と意味・第二部 日常性と形而上性 インターミッション①アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存
書籍刊行物は何時の時代も残すべき価値のもののみをミーム的に出版者・編集者が断続的に継続的に誰かの言葉を出版し、出版ビジネスとして成立させる様に選別者達も世に送り込んできた。
しかしウェブサイトはそれとは基本的に全く異なっている。例えばツイッターはツイーター各人異なったフォロワーが居て、異なった人達をフォロウしている。あるツイーターが死ねば、じきそのツイーターのフォロワーはそのツイーターをアンフォロウするだろう(尤もかなり以前にフォロウしていた人なら一々アンフォロウする手間をかけずうっちゃられておかれるだろうが)し、その死したツイーターによってフォロウされていて、ツイッターとして展開していたTL画面は誰にも除去されずに、ウェブサイト自体が消滅しない限り、永遠に表示され続ける。その死者ツイーターのフォロワーが生存し続ける限り、少しずつTLの画面を変えながら、しかし全てのフォロワーが死ねばある時点から全くの静止画像となって消去されずに永遠に残ってしまう。
しかもツイッターのツイートは良質のもののみが残されるのではなく、全てが残される。そういった意味ではツイッター上での文字の永続性、消去不可能性は非ミーム的なものである。
このウェブサイトの非ミーム性は、しかし同時にユーザーにとっての使い勝手(利用しやすさ)という面では、完全にミーム的に全てのツールを広める。
つまりウェブサイトとは、それ自体TLそのものは全て非ミーム的に消去され得ず、送信記録を永続せしめるが、そのダウンロードのメソッド自体は常にミーム的な対ツール的なランダムアクセスなのである。
これを「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」と呼ぼう。
この事実からもあらゆる出版ビジネスはその大半が電子書籍化していかざるを得ないだろうが、それはウェブサイト的無限のバックグラウンドを地とする特権的図となってゆくであろう。
しかしこういった無限のバックグラウンド的地に於ける図の在り方は、そういったウェブサイト的地のなかった時代の図とは自ずと変わっていかざるを得ない。
ウェブサイト的地を前提にしたミーム化された図は、現在の一般書籍オンリーの時代の文字及びその配列とは自ずと異なった性格を帯びていこう。
それは一言で言えば、全人類に共通した文字情報のニーズではなくオタク的クラスターのニーズに即応した個別的マニアックなミームの林立、乱立であろう。この点では東浩紀の「動物化するポストモダン」の読みは正しい。
しかしやがて時代の変遷と共に、無限の永続的情報という非ミーム的地への我々による慣れから、再び意味化がなされていくことだろう。それは東語の「動物化」からの再意味化である。そしてその時かつて乱立していたミーム・クラスターの中から幾つかの纏まりが形成され、新たに古典化していくだろう。
言葉の感覚、意味の在り方は現在も日々変化していっている。それはミーム的なスピードの速いものほど早く廃り、遅いものほど長く残るという古典的法則を守りながらも職種的階層的に併存している。
つまりある職種や階層クラスターで永続的なミームは他のクラスターで永続的なミームとは邂逅し難い、ということである。そしてそれはかなりしぶとく容易には相互に融合し合わず、不干渉的に非関係的に併存し続けるだろう。
しかしその異質のクラスターへの性格づけを大別させ続けるものは、職種・階層と言っても、ある職種が人格のかなりのパーセンテージで充足し得る人々と職種はあくまで生活の為の方便である人々とで大きく分断されてゆくのではないか、と私は予感するのだ。
これはある意味では権威主義(権威追随)者と反権威主義者のクラスターが相互に相手の是認をし合わぬ相互に自分達を是とすることを譲り合わぬ状況の長期永続を意味しよう。
私は要するに決して邂逅し合わぬミーム達を「生き方」に於ける価値観、そして社会に対する自己の適合させ方に対するヴィジョンの質的差異(異)に於いて考え予想するのだ。
端的に人生観の違いとは、ニーズの違いを生む。そして仕事観も娯楽観も社会義務観も国家観も郷土愛観も民族観も大きく違えさせよう。
そのクラスターの各個別的性質の違いは、大まかに分けて次の様になるのではないか?
① 集団、及び組織内協調主義且つ他者相互不干渉主義
② 一匹狼的単独行動主義且つ他者相互不干渉主義
③ ①②共、①②の併存に対する容認派と非容認派とへ分派していくだろう。
これはある部分では①はミームをより求め、②はより非ミームを自然とする考えへと落着し、①の②への容認派、並びに②の①の容認派はその中間を普通とし、非容認派は①の唯ミーム派、②の唯ミーム派ということになろう。
ミームにも意識的ミーム(意味に対して自覚的、意識的)であるものと無意識的ミームとがあり、最初は後者であり、やがてその中でしぶとく長く残っていくものはやがて前者へと変貌していく。
「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」は一方で我々は誰しもが永続的にメッセージを発信し且つ残すことが出来る一方、それとは別に多くの人々に受ける情報内容(便利な情報か、書き手の個性)を益々追い求めているということだ。
誰しもが公共掲示板に書き込めはするが、エリートの書き手を別に求めるという偶像希求はミーム的魅力を別に必要だ、ということだ。しかし誰しもが容易にメッセージを送信可能なアップローディッドの非ミーム性が地であるウェブサイト上では皆がミームと認めるものの様相は上述の様に非ミームともずれた異なった存在にならざるを得ない。そしてそれは出版刊行物(紙による)オンリーであった時代のミームとはかなり異なった質の情報となっていくということは容易に想像出来る。
しかしウェブサイトはそれとは基本的に全く異なっている。例えばツイッターはツイーター各人異なったフォロワーが居て、異なった人達をフォロウしている。あるツイーターが死ねば、じきそのツイーターのフォロワーはそのツイーターをアンフォロウするだろう(尤もかなり以前にフォロウしていた人なら一々アンフォロウする手間をかけずうっちゃられておかれるだろうが)し、その死したツイーターによってフォロウされていて、ツイッターとして展開していたTL画面は誰にも除去されずに、ウェブサイト自体が消滅しない限り、永遠に表示され続ける。その死者ツイーターのフォロワーが生存し続ける限り、少しずつTLの画面を変えながら、しかし全てのフォロワーが死ねばある時点から全くの静止画像となって消去されずに永遠に残ってしまう。
しかもツイッターのツイートは良質のもののみが残されるのではなく、全てが残される。そういった意味ではツイッター上での文字の永続性、消去不可能性は非ミーム的なものである。
このウェブサイトの非ミーム性は、しかし同時にユーザーにとっての使い勝手(利用しやすさ)という面では、完全にミーム的に全てのツールを広める。
つまりウェブサイトとは、それ自体TLそのものは全て非ミーム的に消去され得ず、送信記録を永続せしめるが、そのダウンロードのメソッド自体は常にミーム的な対ツール的なランダムアクセスなのである。
これを「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」と呼ぼう。
この事実からもあらゆる出版ビジネスはその大半が電子書籍化していかざるを得ないだろうが、それはウェブサイト的無限のバックグラウンドを地とする特権的図となってゆくであろう。
しかしこういった無限のバックグラウンド的地に於ける図の在り方は、そういったウェブサイト的地のなかった時代の図とは自ずと変わっていかざるを得ない。
ウェブサイト的地を前提にしたミーム化された図は、現在の一般書籍オンリーの時代の文字及びその配列とは自ずと異なった性格を帯びていこう。
それは一言で言えば、全人類に共通した文字情報のニーズではなくオタク的クラスターのニーズに即応した個別的マニアックなミームの林立、乱立であろう。この点では東浩紀の「動物化するポストモダン」の読みは正しい。
しかしやがて時代の変遷と共に、無限の永続的情報という非ミーム的地への我々による慣れから、再び意味化がなされていくことだろう。それは東語の「動物化」からの再意味化である。そしてその時かつて乱立していたミーム・クラスターの中から幾つかの纏まりが形成され、新たに古典化していくだろう。
言葉の感覚、意味の在り方は現在も日々変化していっている。それはミーム的なスピードの速いものほど早く廃り、遅いものほど長く残るという古典的法則を守りながらも職種的階層的に併存している。
つまりある職種や階層クラスターで永続的なミームは他のクラスターで永続的なミームとは邂逅し難い、ということである。そしてそれはかなりしぶとく容易には相互に融合し合わず、不干渉的に非関係的に併存し続けるだろう。
しかしその異質のクラスターへの性格づけを大別させ続けるものは、職種・階層と言っても、ある職種が人格のかなりのパーセンテージで充足し得る人々と職種はあくまで生活の為の方便である人々とで大きく分断されてゆくのではないか、と私は予感するのだ。
これはある意味では権威主義(権威追随)者と反権威主義者のクラスターが相互に相手の是認をし合わぬ相互に自分達を是とすることを譲り合わぬ状況の長期永続を意味しよう。
私は要するに決して邂逅し合わぬミーム達を「生き方」に於ける価値観、そして社会に対する自己の適合させ方に対するヴィジョンの質的差異(異)に於いて考え予想するのだ。
端的に人生観の違いとは、ニーズの違いを生む。そして仕事観も娯楽観も社会義務観も国家観も郷土愛観も民族観も大きく違えさせよう。
そのクラスターの各個別的性質の違いは、大まかに分けて次の様になるのではないか?
① 集団、及び組織内協調主義且つ他者相互不干渉主義
② 一匹狼的単独行動主義且つ他者相互不干渉主義
③ ①②共、①②の併存に対する容認派と非容認派とへ分派していくだろう。
これはある部分では①はミームをより求め、②はより非ミームを自然とする考えへと落着し、①の②への容認派、並びに②の①の容認派はその中間を普通とし、非容認派は①の唯ミーム派、②の唯ミーム派ということになろう。
ミームにも意識的ミーム(意味に対して自覚的、意識的)であるものと無意識的ミームとがあり、最初は後者であり、やがてその中でしぶとく長く残っていくものはやがて前者へと変貌していく。
「アップローディッドの非ミーム性とダウンローディングメソッドのミーム性の共存」は一方で我々は誰しもが永続的にメッセージを発信し且つ残すことが出来る一方、それとは別に多くの人々に受ける情報内容(便利な情報か、書き手の個性)を益々追い求めているということだ。
誰しもが公共掲示板に書き込めはするが、エリートの書き手を別に求めるという偶像希求はミーム的魅力を別に必要だ、ということだ。しかし誰しもが容易にメッセージを送信可能なアップローディッドの非ミーム性が地であるウェブサイト上では皆がミームと認めるものの様相は上述の様に非ミームともずれた異なった存在にならざるを得ない。そしてそれは出版刊行物(紙による)オンリーであった時代のミームとはかなり異なった質の情報となっていくということは容易に想像出来る。
Tuesday, April 26, 2011
存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第二章 理解と距離
元々私達は相手の顔色・表情・仕草である程度なら相手の意志を読み取れるし、大体のこと、つまり機嫌がいいか悪いかくらいは察知し合える、と知っている。
しかしそのことは直ちに全てを了解し合えていることを決して意味しない。それどころか相互にそれ以上詮索し合わぬという相互不可侵了解によって必要以上の相手への問いを封殺している。勿論突然相手が血相を変えて傍らにいるこちらのことを顧みず、地団駄を踏んだり、憤りのあまり倒れ込んだりすれば、「どうしたのか」という問いを間髪を入れず発するだろう。しかしそうでない限り、こちらに何らかの問わねばならぬ理由がない限り、私達は問い質す理由を、多少異変があったと察知した場合すら知ろうとしないだろう。
勿論親密さ、相手との対人関係の利害の深さにも依存し、その「問い質し」の決行の有無はそれに左右されよう。しかしいずれにせよ他者の事情を、自分の事情の様に隅から隅まで知ること自体は既に我々の胸中では試みることすら断念することこそ、他者への配慮と判断している。
つまり配慮とは知りたいという欲求の封殺、つまり了解範囲の限定化、或いは全的了解の断念によって成立しているのである。それは逆に言えば、「了解し合う」こと、つまり相互了解をし合う(つまり相槌を打ち合う)こと自体が全的には「知り得ない」「分かり得ない」ことを相互に容認し合うことに他ならず、他者理解が相互に「知り得なさ」「分かり得なさ」の強制的納得によってのみ最終的には成立することを私達が誰との間でしようとも、相互に了解し合っていることを意味する。
従って親しき仲での相互理解が勝手知った間柄での「知ったことにする」「分かったことにする」という言わば半ば欺瞞的な納得の上に成立していることを意味し、本当は何ら理解し合っていなかったのだ、ということへの相互覚醒をいつ何時招来しないとも限らないある脆弱さを理解が兼ね備えていることを意味する。
従ってある部分、同僚間、友人間、いや夫婦間の信頼さえ相互理解を持続すること自体が極めて欺瞞的であり、社会的には形式的な契約関係の上の成立していることが了解される。つまりそれはある意味ではいつでも解除し得る関係であるとも言える。
勿論通りすがりの旅先で道を尋ねる地元の他者等も含めて実は、全ての他者との間にも、当然のことながら強制的欺瞞的納得が親密な間柄の様に長期持続的ではないなりに、単発的、瞬発的にそれが発揮されているのである。
つまりその相互不可侵的欺瞞的納得自体への不服の断念こそが、言語行為上の相互理解の不文律なのである。
又実は倫理とはそこから発生しているとも言えるのだ。
倫理的判断、つまり私達が自然に他者へ必要以上問い質しを断念させるもの(それは警察や検察が被疑者に対して保持され得るべきもの)こそ、他者への配慮だとすれば、それはとりもなおさず全てを了解されることから派生する他者への羞恥を「私」が、私が相手から「私」に纏わる全てを追及されることで付帯する羞恥を、私が内的に想定し得る限り、相手も又同様の心理へと追い込まれるであろう、という類推によってである。
その類推も実は厳密に言えば、「私」と内的なものの感じ方は違うかも知れない、という全的な了解の断念によって成立している。そこにも実は個的な内部での欺瞞的納得を私達は自分でも気が付かぬ内に適用している(相互了解の相互不可侵的「分かり得なさ」「知り得なさ」の半ば強制的欺瞞的納得こそが、その内的納得を齎しているのか、それとも逆に内的納得こそが他者との相互了解上の欺瞞的納得を齎しているかとの問いは無意味であり、同じ一つの納得の中の二つの顕現である)。
倫理的他者への眼差しも思念も共に、私達のその内的相互了解的欺瞞的納得の「飲み込み」自体への懐疑心のなさによって成立している。これは永井均による「倫理とは何か」「翔太と猫のインサイトの夏休み」等での重要な視点である(恐らくそれ以外でも多くの哲学者達がそれを問うている筈である)。
しかしそのことは直ちに全てを了解し合えていることを決して意味しない。それどころか相互にそれ以上詮索し合わぬという相互不可侵了解によって必要以上の相手への問いを封殺している。勿論突然相手が血相を変えて傍らにいるこちらのことを顧みず、地団駄を踏んだり、憤りのあまり倒れ込んだりすれば、「どうしたのか」という問いを間髪を入れず発するだろう。しかしそうでない限り、こちらに何らかの問わねばならぬ理由がない限り、私達は問い質す理由を、多少異変があったと察知した場合すら知ろうとしないだろう。
勿論親密さ、相手との対人関係の利害の深さにも依存し、その「問い質し」の決行の有無はそれに左右されよう。しかしいずれにせよ他者の事情を、自分の事情の様に隅から隅まで知ること自体は既に我々の胸中では試みることすら断念することこそ、他者への配慮と判断している。
つまり配慮とは知りたいという欲求の封殺、つまり了解範囲の限定化、或いは全的了解の断念によって成立しているのである。それは逆に言えば、「了解し合う」こと、つまり相互了解をし合う(つまり相槌を打ち合う)こと自体が全的には「知り得ない」「分かり得ない」ことを相互に容認し合うことに他ならず、他者理解が相互に「知り得なさ」「分かり得なさ」の強制的納得によってのみ最終的には成立することを私達が誰との間でしようとも、相互に了解し合っていることを意味する。
従って親しき仲での相互理解が勝手知った間柄での「知ったことにする」「分かったことにする」という言わば半ば欺瞞的な納得の上に成立していることを意味し、本当は何ら理解し合っていなかったのだ、ということへの相互覚醒をいつ何時招来しないとも限らないある脆弱さを理解が兼ね備えていることを意味する。
従ってある部分、同僚間、友人間、いや夫婦間の信頼さえ相互理解を持続すること自体が極めて欺瞞的であり、社会的には形式的な契約関係の上の成立していることが了解される。つまりそれはある意味ではいつでも解除し得る関係であるとも言える。
勿論通りすがりの旅先で道を尋ねる地元の他者等も含めて実は、全ての他者との間にも、当然のことながら強制的欺瞞的納得が親密な間柄の様に長期持続的ではないなりに、単発的、瞬発的にそれが発揮されているのである。
つまりその相互不可侵的欺瞞的納得自体への不服の断念こそが、言語行為上の相互理解の不文律なのである。
又実は倫理とはそこから発生しているとも言えるのだ。
倫理的判断、つまり私達が自然に他者へ必要以上問い質しを断念させるもの(それは警察や検察が被疑者に対して保持され得るべきもの)こそ、他者への配慮だとすれば、それはとりもなおさず全てを了解されることから派生する他者への羞恥を「私」が、私が相手から「私」に纏わる全てを追及されることで付帯する羞恥を、私が内的に想定し得る限り、相手も又同様の心理へと追い込まれるであろう、という類推によってである。
その類推も実は厳密に言えば、「私」と内的なものの感じ方は違うかも知れない、という全的な了解の断念によって成立している。そこにも実は個的な内部での欺瞞的納得を私達は自分でも気が付かぬ内に適用している(相互了解の相互不可侵的「分かり得なさ」「知り得なさ」の半ば強制的欺瞞的納得こそが、その内的納得を齎しているのか、それとも逆に内的納得こそが他者との相互了解上の欺瞞的納得を齎しているかとの問いは無意味であり、同じ一つの納得の中の二つの顕現である)。
倫理的他者への眼差しも思念も共に、私達のその内的相互了解的欺瞞的納得の「飲み込み」自体への懐疑心のなさによって成立している。これは永井均による「倫理とは何か」「翔太と猫のインサイトの夏休み」等での重要な視点である(恐らくそれ以外でも多くの哲学者達がそれを問うている筈である)。
Friday, March 4, 2011
存在と意味・第二部 日常性と形而上性 第一章 羞恥と欺瞞
世界が四人で構成されているとしよう。この四人共別々で勝手に考えている、とされるのが私達の住む世界での通念だ。
しかしもしこの四人の脳が何らかの仕方で離れ離れになっていたとしても相互に全部四つの脳の意志が一つに纏められているとすると、この四人は態々会って話し合う必要がない故に、そういった脳の在り方をする世界では私達の世界での様な言語行為は人類学的にも進化しようがない。
しかしたまさか私達の世界では四人の脳は別々で勝手に考え、その四つの脳が一つの脳として統括されるということはない。そこで私達は自分自身の脳からのみ世界の全てを把握し、その把握されたもの全てこそが世界である。
それはある意味では他者の脳(脳は心と言ってよい)から、自分自身の脳(の中で考えていること)を容易に察知され得ぬという覚知を自分自身に齎すと同時に、他者の脳の中を読み(知り)得ないという事実を突き付ける。
この時、例えばその四人の内一人が私だとすれば、私は残りの三人に対し、私の脳の中の全てを知って欲しくないという欲望を自然に持つ。何故なら私の脳の中の幾分かは、私が私以外の三人と渡り合う為に、その三人の脳の中を推し量ろうと画策してもいるからだ。私はその部分での私の思考だけは容易に私以外の三人には察知されたくはなく、他の三人のこと以外の当たり障りのない、私の脳の中の考えだけを、三人から察知されてもいいと考え、その様に、私以外の三人と接する様になるだろう。
これを私の中に芽生えた羞恥と呼ぶこととしよう。
しかし、私はこの私の中の羞恥が私以外の三人にもあるのではないか、と思う。
そう思って私が三人と接すれば、三人共確かに、私が私の中のこの三人には知られたくはないと思い三人に接する様な接し方を、この三人は私に対して採る様に思える。
この時私は確信する。私以外の三人にも私と同じ様な他者には知られたくはない羞恥があるに違いない、と。
つまり私も残りの三人も恐らくこの様にして、相互に相手と接する。それは言い換えれば、私も私以外の三人も常に残りの相手全てには知られたくはない故、仮に相手がそれを知ろうと努めても、決して相手へ悟られない様にする部分が自分にも相手にもあることだから、結局「分からないこと」を相互に携え合って生活するということを意味する。
それは痛さとかくすぐったさ、痒さの様なことも、積極的に告げる(痛さなどは仕事に支障をきたすからそうだ)ことを厭わぬ部分と、逆にそうではない(例えば電車の中などで好みの異性へ性的な感触を想像力等を伴って身体で感じたとかの様な)部分があることでもあり、告げずに済ます部分は概ね「分からないこと」となっていく。
そして言語行為では「分からないこと」(他者に関しては)が相互にある、ということを、暗黙の内に容認し合う形で、全ての言語的意思疎通し合う様になる。この時「言わなくてもよい」権利を「プライヴァシー」と呼び、にも関わらず逆に、相手のプライヴァシーに就いて直接聞くことなく忖度し合うことを「駆け引き」と呼び、その「駆け引き」言語を相互に暗示し合わぬ限りで、相互に暗黙に容認し合うことを「取り引き」と呼ぶこととしよう。
ここで言語的意思疎通を私達は相手にとっては「分からないこと」を相互に認め合い、その「分からなさ」(それは痛いので仕事を休みたいという請求をして(告げて)よく、そうしなければいけないことをも含めて)が相互に携えられているということを了解し合う(「分かる」)ことを通して、成立していることを知る。
それをもっと簡単に言えば、言語的意思疎通とは相互に相手のことは全て「分からない」ことを前提に、ということは「分からなさ」を「分かる」こととして育まれる、ということとなる。
これは私達の世界でのある部分では、四人の人間の脳が相互に一つに統括され得なさが必然的に齎す言語行為(言語的意思疎通)の発生論的必然性であると同時に、言語的成立条件としての論理的必然性である、とも言える。
しかしもしこの四人の脳が何らかの仕方で離れ離れになっていたとしても相互に全部四つの脳の意志が一つに纏められているとすると、この四人は態々会って話し合う必要がない故に、そういった脳の在り方をする世界では私達の世界での様な言語行為は人類学的にも進化しようがない。
しかしたまさか私達の世界では四人の脳は別々で勝手に考え、その四つの脳が一つの脳として統括されるということはない。そこで私達は自分自身の脳からのみ世界の全てを把握し、その把握されたもの全てこそが世界である。
それはある意味では他者の脳(脳は心と言ってよい)から、自分自身の脳(の中で考えていること)を容易に察知され得ぬという覚知を自分自身に齎すと同時に、他者の脳の中を読み(知り)得ないという事実を突き付ける。
この時、例えばその四人の内一人が私だとすれば、私は残りの三人に対し、私の脳の中の全てを知って欲しくないという欲望を自然に持つ。何故なら私の脳の中の幾分かは、私が私以外の三人と渡り合う為に、その三人の脳の中を推し量ろうと画策してもいるからだ。私はその部分での私の思考だけは容易に私以外の三人には察知されたくはなく、他の三人のこと以外の当たり障りのない、私の脳の中の考えだけを、三人から察知されてもいいと考え、その様に、私以外の三人と接する様になるだろう。
これを私の中に芽生えた羞恥と呼ぶこととしよう。
しかし、私はこの私の中の羞恥が私以外の三人にもあるのではないか、と思う。
そう思って私が三人と接すれば、三人共確かに、私が私の中のこの三人には知られたくはないと思い三人に接する様な接し方を、この三人は私に対して採る様に思える。
この時私は確信する。私以外の三人にも私と同じ様な他者には知られたくはない羞恥があるに違いない、と。
つまり私も残りの三人も恐らくこの様にして、相互に相手と接する。それは言い換えれば、私も私以外の三人も常に残りの相手全てには知られたくはない故、仮に相手がそれを知ろうと努めても、決して相手へ悟られない様にする部分が自分にも相手にもあることだから、結局「分からないこと」を相互に携え合って生活するということを意味する。
それは痛さとかくすぐったさ、痒さの様なことも、積極的に告げる(痛さなどは仕事に支障をきたすからそうだ)ことを厭わぬ部分と、逆にそうではない(例えば電車の中などで好みの異性へ性的な感触を想像力等を伴って身体で感じたとかの様な)部分があることでもあり、告げずに済ます部分は概ね「分からないこと」となっていく。
そして言語行為では「分からないこと」(他者に関しては)が相互にある、ということを、暗黙の内に容認し合う形で、全ての言語的意思疎通し合う様になる。この時「言わなくてもよい」権利を「プライヴァシー」と呼び、にも関わらず逆に、相手のプライヴァシーに就いて直接聞くことなく忖度し合うことを「駆け引き」と呼び、その「駆け引き」言語を相互に暗示し合わぬ限りで、相互に暗黙に容認し合うことを「取り引き」と呼ぶこととしよう。
ここで言語的意思疎通を私達は相手にとっては「分からないこと」を相互に認め合い、その「分からなさ」(それは痛いので仕事を休みたいという請求をして(告げて)よく、そうしなければいけないことをも含めて)が相互に携えられているということを了解し合う(「分かる」)ことを通して、成立していることを知る。
それをもっと簡単に言えば、言語的意思疎通とは相互に相手のことは全て「分からない」ことを前提に、ということは「分からなさ」を「分かる」こととして育まれる、ということとなる。
これは私達の世界でのある部分では、四人の人間の脳が相互に一つに統括され得なさが必然的に齎す言語行為(言語的意思疎通)の発生論的必然性であると同時に、言語的成立条件としての論理的必然性である、とも言える。
Friday, February 25, 2011
存在と意味・第二部 日常性と形而上性 序・「語る」と「語らない」の並立から考える哲学
私達にとって「語る」はどの様な意味を持つのだろうか?「語らない」の意味は「語る」の意味に規定される。しかしそれは少なくとも沈黙ではない。沈黙は一種の饒舌である、だからこそそれは「語らない」ことで何かを多いに「語る」。しかしこれは「語らない」の本質ではない。「語らない」の真性の性質はあくまで「語らない」である。
本論では言語、或いは言葉を「語る」ことに起因させる。それはジャック・デリダが「グラマトロジーについて」で原(アルシ)エクリチュールから言語を考えたことと丁度逆のベクトルである。しかし本論では書くこと、読むことの本質も「語る」「語らない」の本質の規定から読み解くことが可能であると説く。
要するに「語る」と並立された「語らない」はあくまで「聴く」であり「受け留める」であり「考える」であり「理解する」であり、「語らない」ことで言外のニュアンスを伝えると、ある種の日本人が得意な戦略だとされることではない。即座に応答しないということ以外の意味を「語らない」は持たない。
しかしそれを語る前にやはり「語る」とは何かを考えていかねばならない。しかしやはりそれも「語らない」をも対比的に捉えていかざるを得ない。
例えば「語らない」を「語る」を無視することである、と捉えれば、それも本質から外れる。何故なら「語る」を無視することは「語らない」時間に「語る」ことを期待する者に、その期待を拒絶する意味合いがあるからである。故にこれは「語らない」の真性の本質に逆らう。
だから「語る」は「語らない」を含み込むのではなく、あくまで並立するのである。
これはある部分では西欧形而上学に対する批判的立場でもある。何故なら西欧形而上学は「語る」ことの中に全てを含み込ませようとする意図でもあるからである。
しかしそれでは既に我々のコミュニケーションの内実も、意志や自由や行為の本質も解明され得ない。そこで本論では東洋的なこととか日本的なこととしてではなく、もっとユニヴァーサルなこととして「語る」と「語らない」の並立に就いて考えていこうということなのである。
だから逆に「語らない」が学問に対する芸術とか、経済に対する文化といった様な相並び立つ存在として「語る」の傍らに存在しているという価値観から言えば、「語る」の本質は常にそれ自体充分意味していることだけを、それ以上でもそれ以下でもなく「語る」という意味以外ではない。「語る」はあくまで、それだけで充分で、本質を余す所なく伝えることだけによって成立している。従ってそれは冗長性(これはドゥルーズ=ガタリによって「ミル・プラトー」で大きく取り上げられていたが)でも欠損でも未完成でもない。完成という試行錯誤すら無効化する様なある自立した結晶の様なものである。
意味は行為によって派生する。意味自体が行為を突き動かすのは、意味了解を我々自身果たして後のことである。しかしその事実を我々はつい忘れる。つまり意味が行為を我々に急き立てる。しかし我々はそもそも赤ん坊の時にはいはいをして、次第に人の名を、自分の名を、挨拶を習得していく様に言葉を習得していく過程で、派生してくる意味を価値として受け取る。しかしその意味自体が価値として我々を呪縛して我々は大人になる。そして芸術家とは意義深い仕事だ、とか公務員は世間一般の人達の幸福の手助けをするとかといった職業倫理とか社会的使命とかいった生自体を意味づける定義を信条として生活していく。
しかしそれは社会慣習とそれへの同化を果たしつつある私達の条件反射的社会行動から条件づけられた考えにしか過ぎない。だからこそ「語る」ことはその中で意味に支配され、次第に「語る」こと自体を、それ自体として受け入れる余地を失っていく。
例えば職業であるから文章を書くとか、それは市役所で書類を作成することもそうであるし、作家であるから頼まれてエッセイを書くとかもそうである。しかしそれは意味を規定通りに一切の疑いを持たずに決められた行為の為に従属させているのである。行為自体は決められてなどいない。そして決められた行為に従属する意味などに意味はない。そんなものはない。あるのは只意味を作っていくべきである、ということと、行為自体に何らかの価値があるべきだ、ということだけである。
何かの為に行為があり、意味があるのではなく、行為自体にするべき価値があり、意味自体に作られるべき価値があるのであり、行為と意味とは我々は存在しているということの証なのである。従ってそれらは無規定的に可能性として与えられているだけで、踏襲すべき体のものではない。
行為が意味づけられたり、意味が行為によって立証されたり、それはそういう風に逆転を果たしつつ我々は生活しているが、行為自体に何かやはり最初から価値があった筈なのである。三輪車に最初に乗った時もそうであった筈だし、最初に隣のみよちゃんと遊んだ時もそうであった筈なのである。しかしみよちゃんは大人になり、自分も大人になり、そこで我々は意味から入って時間を節約しようとする。
時間の節約は端的に、生活上で何か仕事をすることが、義務であるが故に、一時義務から解放されるオフの時間を安らぎあるものとして過ごそうという刹那的な人生の解放感への価値から派生している。しかし仕事自体に生き甲斐を見出せないのなら、それは義務ではなく苦役であり、拷問であろう。或いはオフの時間がオンの時間の辛さと憂さを晴らす為にのみ存在し得るのなら、それこそ一時の快楽でだけ人生を肯定しようとする儚い試みということになろう。刹那自体を追求しているのなら未だいい。しかしそういう生き方が出来る様になる為には全ての義務を履行して、全ての規制の価値を踏襲してかいなければならない。しかしそれが出来る者は極めて少ない。何故ならそれを可能化する為には限りなく生活上、経済力上のパワーを必要とするからである。
それが出来る者を真に世間的俗人であるとするなら、その者の構成する全ての対話では「語る」ことの中に「語らない」ことも吸収させ得るであろう。彼のする「語らない」こそは全て予め意味化されたサインであろう。それはそれでそれが完全に成し遂げられるなら、それは俗人の極みであり、権力施行である。つまりそういった価値自体の、行為意味充足性自体の体現だけで生を送るとしたら、それは本論の主張とは全く真逆の、しかしそれはそれで極めて完成された意図的人生である。全ての無言はそれ自体沈黙としての言語として意味づけられている。
しかしそれをし得る権力と、それを成し遂げられる冷徹さと、それだけを価値とし得る須らく完璧なる残酷でさえあると言ってよい保守性を保持し得ぬ者に、その理想を語る資格はあるまい。従って我々一般的な人間は「語らない」ことを完璧に意味づけられた沈黙として戦略として利用することを潔く諦め、肯定的な諦観、つまり俗人の極みが成し遂げられる否定的なまでの、ペシミズムの極致の、ニヒリスティックなまでに伝統的コードと有有職故実性に遵守した従順なる諦観を持てるだけの精神的ゆとりのない者には、創造的な諦観が必要なのである。創造的諦観とは、私は宮本武蔵の様には生きられない、織田信長の様には生きられない、坂本龍馬の様には生きられないが故に、人が言うことを聴く時も、自分の意見を語る時も「語る」ことだけでなく、「語らない」ままにして、結論を即座に提出することを控えて、常にエポケーを懐に忍ばせて、あるがままに他者存在を受け入れ、自己を他者に恣意的に構えることなく、生活していくことしか残されてはいない。
これは本質主義と実在主義の一致にのみ、生を意味づけていくということに他ならない。そこでは当然プラトニズムへの懐疑、デカルト主義への懐疑、デヴィッド・ルイスの可能世界論への懐疑を持ち込まざるを得ない。しかしそれを持ち込む為に今一度それらの思想を我々の前に批判対象として提出させなければいけない。
次回からはその都度そういった批判対象の慎重なる検証を旨として記述を行っていくことになるだろう。常に一人の批判対象だけを提出させるわけではなく、あくまで常に並行させて提出させ、批判対象の中にも肯定的部分、或いは価値再考的部分を見出し、我々自身にとって「創造的価値」のあるものとしてその都度修正して完成させる意図も必要であろう。
取り敢えず本論では、「語る」ことの余白に位置すると思われる「語らない」時のことに焦点を当てて考えていこうと思う。そうする中で炙り出される「語る」ことこそが、真性の意味であり、冗長的でも欠損しているのでもないメッセージであると受け取ることが可能である。しかし「語らない」ことの本質には無駄を省くとか、先ほど述べた時間の節約とは当然相反する考えがある。それを理解する為に、まさに「理解する」とは何かという問いを次回から暫く関わっていきたい。
本論では言語、或いは言葉を「語る」ことに起因させる。それはジャック・デリダが「グラマトロジーについて」で原(アルシ)エクリチュールから言語を考えたことと丁度逆のベクトルである。しかし本論では書くこと、読むことの本質も「語る」「語らない」の本質の規定から読み解くことが可能であると説く。
要するに「語る」と並立された「語らない」はあくまで「聴く」であり「受け留める」であり「考える」であり「理解する」であり、「語らない」ことで言外のニュアンスを伝えると、ある種の日本人が得意な戦略だとされることではない。即座に応答しないということ以外の意味を「語らない」は持たない。
しかしそれを語る前にやはり「語る」とは何かを考えていかねばならない。しかしやはりそれも「語らない」をも対比的に捉えていかざるを得ない。
例えば「語らない」を「語る」を無視することである、と捉えれば、それも本質から外れる。何故なら「語る」を無視することは「語らない」時間に「語る」ことを期待する者に、その期待を拒絶する意味合いがあるからである。故にこれは「語らない」の真性の本質に逆らう。
だから「語る」は「語らない」を含み込むのではなく、あくまで並立するのである。
これはある部分では西欧形而上学に対する批判的立場でもある。何故なら西欧形而上学は「語る」ことの中に全てを含み込ませようとする意図でもあるからである。
しかしそれでは既に我々のコミュニケーションの内実も、意志や自由や行為の本質も解明され得ない。そこで本論では東洋的なこととか日本的なこととしてではなく、もっとユニヴァーサルなこととして「語る」と「語らない」の並立に就いて考えていこうということなのである。
だから逆に「語らない」が学問に対する芸術とか、経済に対する文化といった様な相並び立つ存在として「語る」の傍らに存在しているという価値観から言えば、「語る」の本質は常にそれ自体充分意味していることだけを、それ以上でもそれ以下でもなく「語る」という意味以外ではない。「語る」はあくまで、それだけで充分で、本質を余す所なく伝えることだけによって成立している。従ってそれは冗長性(これはドゥルーズ=ガタリによって「ミル・プラトー」で大きく取り上げられていたが)でも欠損でも未完成でもない。完成という試行錯誤すら無効化する様なある自立した結晶の様なものである。
意味は行為によって派生する。意味自体が行為を突き動かすのは、意味了解を我々自身果たして後のことである。しかしその事実を我々はつい忘れる。つまり意味が行為を我々に急き立てる。しかし我々はそもそも赤ん坊の時にはいはいをして、次第に人の名を、自分の名を、挨拶を習得していく様に言葉を習得していく過程で、派生してくる意味を価値として受け取る。しかしその意味自体が価値として我々を呪縛して我々は大人になる。そして芸術家とは意義深い仕事だ、とか公務員は世間一般の人達の幸福の手助けをするとかといった職業倫理とか社会的使命とかいった生自体を意味づける定義を信条として生活していく。
しかしそれは社会慣習とそれへの同化を果たしつつある私達の条件反射的社会行動から条件づけられた考えにしか過ぎない。だからこそ「語る」ことはその中で意味に支配され、次第に「語る」こと自体を、それ自体として受け入れる余地を失っていく。
例えば職業であるから文章を書くとか、それは市役所で書類を作成することもそうであるし、作家であるから頼まれてエッセイを書くとかもそうである。しかしそれは意味を規定通りに一切の疑いを持たずに決められた行為の為に従属させているのである。行為自体は決められてなどいない。そして決められた行為に従属する意味などに意味はない。そんなものはない。あるのは只意味を作っていくべきである、ということと、行為自体に何らかの価値があるべきだ、ということだけである。
何かの為に行為があり、意味があるのではなく、行為自体にするべき価値があり、意味自体に作られるべき価値があるのであり、行為と意味とは我々は存在しているということの証なのである。従ってそれらは無規定的に可能性として与えられているだけで、踏襲すべき体のものではない。
行為が意味づけられたり、意味が行為によって立証されたり、それはそういう風に逆転を果たしつつ我々は生活しているが、行為自体に何かやはり最初から価値があった筈なのである。三輪車に最初に乗った時もそうであった筈だし、最初に隣のみよちゃんと遊んだ時もそうであった筈なのである。しかしみよちゃんは大人になり、自分も大人になり、そこで我々は意味から入って時間を節約しようとする。
時間の節約は端的に、生活上で何か仕事をすることが、義務であるが故に、一時義務から解放されるオフの時間を安らぎあるものとして過ごそうという刹那的な人生の解放感への価値から派生している。しかし仕事自体に生き甲斐を見出せないのなら、それは義務ではなく苦役であり、拷問であろう。或いはオフの時間がオンの時間の辛さと憂さを晴らす為にのみ存在し得るのなら、それこそ一時の快楽でだけ人生を肯定しようとする儚い試みということになろう。刹那自体を追求しているのなら未だいい。しかしそういう生き方が出来る様になる為には全ての義務を履行して、全ての規制の価値を踏襲してかいなければならない。しかしそれが出来る者は極めて少ない。何故ならそれを可能化する為には限りなく生活上、経済力上のパワーを必要とするからである。
それが出来る者を真に世間的俗人であるとするなら、その者の構成する全ての対話では「語る」ことの中に「語らない」ことも吸収させ得るであろう。彼のする「語らない」こそは全て予め意味化されたサインであろう。それはそれでそれが完全に成し遂げられるなら、それは俗人の極みであり、権力施行である。つまりそういった価値自体の、行為意味充足性自体の体現だけで生を送るとしたら、それは本論の主張とは全く真逆の、しかしそれはそれで極めて完成された意図的人生である。全ての無言はそれ自体沈黙としての言語として意味づけられている。
しかしそれをし得る権力と、それを成し遂げられる冷徹さと、それだけを価値とし得る須らく完璧なる残酷でさえあると言ってよい保守性を保持し得ぬ者に、その理想を語る資格はあるまい。従って我々一般的な人間は「語らない」ことを完璧に意味づけられた沈黙として戦略として利用することを潔く諦め、肯定的な諦観、つまり俗人の極みが成し遂げられる否定的なまでの、ペシミズムの極致の、ニヒリスティックなまでに伝統的コードと有有職故実性に遵守した従順なる諦観を持てるだけの精神的ゆとりのない者には、創造的な諦観が必要なのである。創造的諦観とは、私は宮本武蔵の様には生きられない、織田信長の様には生きられない、坂本龍馬の様には生きられないが故に、人が言うことを聴く時も、自分の意見を語る時も「語る」ことだけでなく、「語らない」ままにして、結論を即座に提出することを控えて、常にエポケーを懐に忍ばせて、あるがままに他者存在を受け入れ、自己を他者に恣意的に構えることなく、生活していくことしか残されてはいない。
これは本質主義と実在主義の一致にのみ、生を意味づけていくということに他ならない。そこでは当然プラトニズムへの懐疑、デカルト主義への懐疑、デヴィッド・ルイスの可能世界論への懐疑を持ち込まざるを得ない。しかしそれを持ち込む為に今一度それらの思想を我々の前に批判対象として提出させなければいけない。
次回からはその都度そういった批判対象の慎重なる検証を旨として記述を行っていくことになるだろう。常に一人の批判対象だけを提出させるわけではなく、あくまで常に並行させて提出させ、批判対象の中にも肯定的部分、或いは価値再考的部分を見出し、我々自身にとって「創造的価値」のあるものとしてその都度修正して完成させる意図も必要であろう。
取り敢えず本論では、「語る」ことの余白に位置すると思われる「語らない」時のことに焦点を当てて考えていこうと思う。そうする中で炙り出される「語る」ことこそが、真性の意味であり、冗長的でも欠損しているのでもないメッセージであると受け取ることが可能である。しかし「語らない」ことの本質には無駄を省くとか、先ほど述べた時間の節約とは当然相反する考えがある。それを理解する為に、まさに「理解する」とは何かという問いを次回から暫く関わっていきたい。
Friday, January 21, 2011
世界の影(インターミッション、詩1月17日作)
俺の歩く方向に俺の世界がある
俺の世界に俺自身は見えない
俺は気に入った景色をカメラに収める
そこに俺はいない
俺の影がたまに写り込んでいるだけだ
俺は俺を俺自身で写真には撮れない
俺は俺自身が見た世界の様に俺を撮れないし、見れない
だからこそ俺は歩くことが出来る
俺は俺が歩く姿を正確には知らない
外側から俺が歩く姿を見れるのは俺以外の人だけだ
俺は俺を誰よりも知っている
だが俺は俺の姿を誰よりも知らない
世界はどうなんだろう?
世界もまた俺の様に俺のことを一番俺が知ると言う様に考えることが出来るのだろうか?
世界にも俺が俺の前方を撮る時に写り込む影の様なものがあるに違いない
それは勿論地球の影が月に映ると言う様なものでもない
それはほんの影の中の一部だ
世界は恐らく考える 考えるからこそ世界に関わる俺たちを俺たち自身の考え以外で俺たちを動かす
世界の影は恐らく世界しか知らない 世界しか見れない
世界の影を俺も見たいだって
だって君は自分の影だって全部は知らないだろう
世界が世界の影を全部把握出来るなんてことないんだからさ
君も世界の影を見つめる前に自分の影への気がつかなさに気づくべきなんじゃないのかな?
俺の世界に俺自身は見えない
俺は気に入った景色をカメラに収める
そこに俺はいない
俺の影がたまに写り込んでいるだけだ
俺は俺を俺自身で写真には撮れない
俺は俺自身が見た世界の様に俺を撮れないし、見れない
だからこそ俺は歩くことが出来る
俺は俺が歩く姿を正確には知らない
外側から俺が歩く姿を見れるのは俺以外の人だけだ
俺は俺を誰よりも知っている
だが俺は俺の姿を誰よりも知らない
世界はどうなんだろう?
世界もまた俺の様に俺のことを一番俺が知ると言う様に考えることが出来るのだろうか?
世界にも俺が俺の前方を撮る時に写り込む影の様なものがあるに違いない
それは勿論地球の影が月に映ると言う様なものでもない
それはほんの影の中の一部だ
世界は恐らく考える 考えるからこそ世界に関わる俺たちを俺たち自身の考え以外で俺たちを動かす
世界の影は恐らく世界しか知らない 世界しか見れない
世界の影を俺も見たいだって
だって君は自分の影だって全部は知らないだろう
世界が世界の影を全部把握出来るなんてことないんだからさ
君も世界の影を見つめる前に自分の影への気がつかなさに気づくべきなんじゃないのかな?
Tuesday, January 4, 2011
<感情と意味>結論 懐かしさも作られるし、慣れも作られる<感情と意味・最終記事>
毎日鏡で見ている自分の姿や顔形はいつもの「今日の顔」だ。しかし私は昨日の自分の顔も覚えているし、それよりもずっと前の自分の顔も覚えている。だから例えば三年前の写真を見ると、それよりは今の自分が大分年とっていると感じる。その途端に今の顔を鏡に映して見ると、その写真に見られる自分の顔よりもずっと老けていると知ることも出来る。
つまり常に今はこれまでの姿の対比で感得される。毎日の顔の変化は余り気がつかない。しかし急激に老ける時以外でも、少しずつ毎日老けていくことは一年前の写真を見て感じる。少し前だとその変化は顕著に示されている。
要するに懐かしいという感情は、そういったある種の肉体的変化と共に、今の様ではなかった過去の状態を思い出すことによっても作られる。そして今の状態が如何様であっても、過去から決別するかの如く、その状態に慣れていく様に我々は常に自然と考えも感じ方も移行させている。
懐かしいという感情と、慣れとは対極のものかも知れない。何故なら懐かしいとはそれ以前の状態を恋焦がれているということであるが故に、現在の若干の否定が含まれているからだ。
しかしにも拘らず恐らくこの二つは相補的でもあるのだ。何故なら懐かしさを一方で感じつつ、しかし今は今でよいと決然と考えることによって、全てを過去化しているのが我々の心の実態だからである。
ある部分では忘れていたことを思い出す時には確かにそれが懐かしく感じられる。しかし昨日のことの様に克明に覚えていることは懐かしくはない。従って記憶力が少し減退した時こそ懐かしさは襲ってくるとも言える。つまりかなり老いが訪れる年齢でも明確な記憶が今の様に常に蘇ってくるのであれば、それは常に今であることに慣れていて、今こそが最高であると思えることだから、必然的に懐かしさとは別種の感情でも過去を捉えられるとも言えるからだ。要するに現在自分が立たされている状況をどれくらい愛せるかということに尽きる。従ってこれはある部分では哲学的だが、ある部分では哲学的でなくてもいいのだ。
もし私達の感情が途切れることなく死の瞬間まであるとすれば、それは常に過去にあったことを意味づけ、それは当然現在からのことだが、又過去に比して今はどうであると感じられることから発生する意味に全てがある筈だ。本ブログでは最初の「存在と意味」から二段目の「感情と意味」をお届けしてきたが、今回で一度この「感情と意味」を締め括ろうと思う。
本ブログは次回からは再び存在に少し重きを置いて考えてみたい。時間論も含有させていきたいと考えている。価値論や形而上学的要素も付け加わるが、かなり現代的なテーマを別ブログ「トラフィック・モメント」とも併行させて考えていきたい。少し休みを置いて再びお会い致しましょう。
つまり常に今はこれまでの姿の対比で感得される。毎日の顔の変化は余り気がつかない。しかし急激に老ける時以外でも、少しずつ毎日老けていくことは一年前の写真を見て感じる。少し前だとその変化は顕著に示されている。
要するに懐かしいという感情は、そういったある種の肉体的変化と共に、今の様ではなかった過去の状態を思い出すことによっても作られる。そして今の状態が如何様であっても、過去から決別するかの如く、その状態に慣れていく様に我々は常に自然と考えも感じ方も移行させている。
懐かしいという感情と、慣れとは対極のものかも知れない。何故なら懐かしいとはそれ以前の状態を恋焦がれているということであるが故に、現在の若干の否定が含まれているからだ。
しかしにも拘らず恐らくこの二つは相補的でもあるのだ。何故なら懐かしさを一方で感じつつ、しかし今は今でよいと決然と考えることによって、全てを過去化しているのが我々の心の実態だからである。
ある部分では忘れていたことを思い出す時には確かにそれが懐かしく感じられる。しかし昨日のことの様に克明に覚えていることは懐かしくはない。従って記憶力が少し減退した時こそ懐かしさは襲ってくるとも言える。つまりかなり老いが訪れる年齢でも明確な記憶が今の様に常に蘇ってくるのであれば、それは常に今であることに慣れていて、今こそが最高であると思えることだから、必然的に懐かしさとは別種の感情でも過去を捉えられるとも言えるからだ。要するに現在自分が立たされている状況をどれくらい愛せるかということに尽きる。従ってこれはある部分では哲学的だが、ある部分では哲学的でなくてもいいのだ。
もし私達の感情が途切れることなく死の瞬間まであるとすれば、それは常に過去にあったことを意味づけ、それは当然現在からのことだが、又過去に比して今はどうであると感じられることから発生する意味に全てがある筈だ。本ブログでは最初の「存在と意味」から二段目の「感情と意味」をお届けしてきたが、今回で一度この「感情と意味」を締め括ろうと思う。
本ブログは次回からは再び存在に少し重きを置いて考えてみたい。時間論も含有させていきたいと考えている。価値論や形而上学的要素も付け加わるが、かなり現代的なテーマを別ブログ「トラフィック・モメント」とも併行させて考えていきたい。少し休みを置いて再びお会い致しましょう。
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